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血液型にまつわる海外事情

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血液型に興味シンシンなのは日本人だけじゃないのです。
巷では、血液型について関心を持つのは日本だけだという噂がときどき流れるので、その辺について記載しておこうと思います。 それ以前に、日本人が海外の反応を気にし過ぎるきらいがあるということも、理解しておいた方がいいかもしれません。それについては、以前のページで触れています。
「血液型人間学」を能見正比古が、日本の人々に伝え始めたのは1971年ですが、その活動から10年ほど経った頃、他国からも取材や問い合わせがあるようになりました。 どんな国からどんな取材があったか、詳細を記載するのは少々難なので、とりあえず記憶にある限りをリストアップしてみます。(年代や順序は無関係) (各国メディアの取材) ・ドイツ~科学ニュース関連の雑誌など(数回) ・フランス~雑誌とテレビ(数回) ・米国~雑誌とテレビ(数回) ・ロシア~テレビ(数回) ・台湾~雑誌関係(日本発行女性誌の台湾版があるので多数) ・ブラジル~テレビ ・英国~雑誌 ・韓国~さまざまなメディア(活発な活動を行ったため多数)
欧米諸国の記事においては今のところ”日本の文化”として取り上げられることがほとんどですが、中で印象に残っているのは、ドイツの取材スタッフたちは個人的な強い関心を持つ人が多かったということです。フランスでは、古くから研究しているグループもあるようです。それらについては下の方で補足しますが、次に、能見親子の本が翻訳されている国を紹介します。 ・韓国(多数) ・米国(You are Your Blood Type)※能見の本を元にライターが新たに執筆。 ・インドネシア ・台湾 ・タイ ・中国
また、ネット普及のおかげで、さまざまな国の個人的な問い合わせがあります。どんな国から問合せがあったのか、記憶にある国を紹介します。 米国/フィンランド/オーストラリア/フランス/ブラジル/ルーマニア/メキシコ/韓国/中国/フィリピン/インドネシア/その他
ということで、こうしてあげたリストを眺めただけでも、他の国の人々が決して関心を持たない、というわけではないことが、何となく分かるかと思います。 私が問合せや海外からの訪問者、あるいは啓蒙している中で感じてきたところでは、欧米諸国ではドイツ人やフランス人の関心が特に高いように思いました。 北欧フィンランドの友人に聞いたのですが、ヨーロッパ諸国の…

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

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記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”
近頃、日本人について、つくづく考えています。
その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえと言えばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを、感じざるを得ない、と思うことがしばしばあるのです。
だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。
日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。
自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれません。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもチラホラするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、私もそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろん私は、心の中では思っています。
…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいのに、と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?
そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。

『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

私もそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同…

いまだに続く血液型ネガティヴキャンペーン〜その行方は?

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先日、テレビ朝日のバラエティ番組で血液型の特集が放映されました。
当センターもこの番組が企画された最初に取材を受けました。 血液型をテレビの番組で取り上げるとき、大方の場合、一度はこちらに問い合わせがあります。もちろん、それでこちらの意図が通るか、与えられる情報があるかないか、あるいはその企画が実現するかしないかは、まだ分からないという段階です。 それでも何でも、正直に言うと、テレビからの問い合わせや取材は、仕事の中で最もストレスが大きいのです。
「どうか、どうか、少しでも事実を伝えるマシな番組になりますように...」 と、祈るような気持ちになってしまうわけです。 自分でも少々過敏すぎるかもしれないとも思うのですが、過去ウン十年、何十本もの番組に協力してきて、胸を撫で下ろしたのって数回くらい...しかもそういうのはたいてい地方テレビだった、というこれまでの実体があるものですから、まあ仕方ないところもあるのです。 あまりにもエネルギーを消耗するものだから、その後、その企画がどうなったのかというところを、あまり追及しないことにしています。 後は流れに任せてなるようになれという、投げやりというか、居直りというか、そんな気持ちでいるのです。
それで、結局どうなったかを知らずにいたのですが、どうやら企画が通り、放送されたようで、研究員やら友人ら、周囲の人々が観たよと報告してくれました。 そして、私の友はキッパリ言いました。 「え?何これ?って内容だっのよ」 私はほとんど察しがついたので「きっと中途半端な番組だったんでしょ?」と言うと 「そうなの、その通りよ。何が言いたかったのか分からないしさ、観て損したって感じよ」
ああまったく...。 テレビは相変わらずなのだなあと、またおんなじようにがっかりするハメになりました。
結局、何が上手くいかないのかというと、優柔不断な番組づくりをするからなのでしょう。 血液型のことはテーマにしたい。(視聴率もあがるんだし) けれど科学的裏付けを示さないと(今時のご時世)やれない。 という、2つの意図で行ったり来たりしながら、肯定したいような、批判したいような、変にあやふやな内容にするからなのです。 先ほど、地方テレビは胸をなで下ろす番組....と書きましたが、上質なものばかりでした。 理由は簡単で、地方テレビは、主要メディアに比べたら、ずっと素直に取り扱ってくれてきた…

能見正比古の「血液型人間学」が統計であるかないかということに、どれくらい意味を持たせるかというところの真実

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能見正比古の「血液型人間学」は統計に支えられていたに違いはないが…
能見正比古という人物について、若い人のほとんどは知らないのでしょう。 ところが、60代以上の人々が集まる会合などに出席すると、「本を読んだ」「講演を聞いた」という人が、必ず何人かはいらっしゃるのです。 そんなとき、当時(40年前)、老若男女問わず、どれだけ日本の人々に強い印象を与えていたかというのを再確認します。
彼はもちろんタレントではないのですから、有名人的な存在としてテレビでもてはやされたとか、そういうもんではありません。 彼の本を読んで強く共感を得た人々がとにかくたくさん居たわけです。 能見の分析や理論は、画期的でもあり、新鮮でもあり、驚きでもあったのですが、それはたぶん、ここ数年流行りの最新脳科学とか、最新ナントカとか、そういうのとも全然違ったと思うし、書きながら何か似たような現象がないかと探しながら、そういえば、前々回の記事で「記憶喪失現象」について書いたのですが、日本の人々が記憶の一部を取り戻したような感じなのかもしれません。 「そうそう、確かにそうだ!」と、能見の的を得た分析に、モヤモヤしていたところの霧が晴れた、みたいな感動ではなかったかと思うのです。
まあところが、既に世の流れは思考の画一化に向かっており、科学や哲学の統一化というか、規格化というか、世界の知識は欧米諸国を中心に、そういう偏狭な方向に進み始めていたのです。 それで、能見の分析に純粋に共鳴する人たちも多くいたのですが、中には統計だから、ちゃんとデータを取っているから信用できる、と、科学性というところを信頼して支持する人たちも結構いた模様です。
そして能見もまた、東大工学部卒ということでもあったので、科学性であるとか、統計手法であるとかは、嫌というほど学んでもいたし、本人自身が、そういう客観的な物差しでもって証明しないと気が済まないという性分でもあったので、彼はデータを集めに集めまくったし、何千何万というデータと睨めっこして取り組んだのは間違いありませんでした。 そんなことで、血液型人間学は統計学である、というのが一人歩きした感も無きにしも非ずと言えます。 けれど、ちょっと考えれば分かるでしょうが、統計学だけで、人間の行動が細かに分析できるはずは、ありません。
それでその後、能見の血液型人間学理論が高まるにつれ、批判的、反論的な意見が、特に…

血液型に対する人々の反応

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ABO血液型についての日本の皆さんの反応の仕方には、いくつかのパターンがあるようです。
①「やっぱり血液型って関係あるよね」と、素直に面白がってくれる人々。
②「関係あるのかもしれないけど、血液型で決めつけられるのは嫌なんだよね」という人々。
③「迷信でしょ。科学的に証明されていないでしょ」という、科学信仰の強い人々。
④そもそもそういう事に興味が無い人々。

おそらく、①と②で7割を占めるのだと思われます。 そして②の人々が案外多いのかもしれないな、と、最近感じています。 それは分かるけど、あんまり気にしたくないんだよね、という雰囲気でしょうか。
たとえば、血液型の特徴を少し話すと、「あぁ、やっぱりそうなんでしょう」と言って、そこにはどこか、ちょっとした閉塞感が伴う雰囲気を感じます。
血液型は変えられない
と考えるので、どこか自分のオリジリティーや可能性を狭められたような気になるのでしょうね。
しかし、そうではないのだと理解して欲しいのです。 確かに血液型は特異な状況がなければ変わりません。(臓器移植など) しかし、血液型の遺伝子というのはあくまでも素材的な要素でしかないのです。それをどのように使いこなすかはあなた次第なのです。 私たちはよく料理にたとえて説明しますが、同じ材料でもいろんな料理ができるように、あるいは、同じ料理を作っても美味しくなったり不味くなったりするように。 貴方がどのように自分を料理にするかでさまざまな個性が出来上がるのです。 美味しい料理にしたければ、素材の性質をよく知っていた方がいいに決まっています。
そして更には、素材の事を知り尽くすことで、全く新しい料理を作れることさえあります。 日本京都のお寺に伝わる精進料理などは、野菜素材だけで肉の食感やボリュームたっぷりの見事な食膳を創り出しますね。
私たちの思考や行動、個性も、工夫次第で素材の性質を超えた能力を発揮することが可能なのです。 また、そうした無限の可能性に対応出来るだけの柔軟さが、それぞれの血液型遺伝子には備わっています。
いえこれは、血液型だけのことを言っているのではありません。 私たち人間は現在のところ、30〜40%ほどしか持てる能力を使っていないと言われています。 残りは全て、今後の進化の可能性なのです。 私たち人類は、今現在も進化の過程にある事を忘れないで欲しいのです。
昔、地球は平らだと信…

「ABO血液型がわかる科学」山元文一郎氏の本

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生物学者の視点から、ABO血液型について書かれた本。
実は、生物学者とはいえ、ABO血液型に対しては誤解している人が多いのだけれど
さすがに専門が糖鎖に関する分子遺伝学ということで、ABO血液型遺伝子についても造詣が深い。

本書の結論から言えば、ABO遺伝子についてはまだまだ謎が多いが、興味深い面も多いとのこと。
ABO式血液型の発生順序にしても、当初の見解(A→O→B→AB)とは違うかもしれないとも言っていて、遺伝子研究もそう簡単ではなさそうだ。

また、血液型と性格の関係についても触れているが、今は明確な答えが出てはいないが、今後研究が進めば、いくつかの部分で関係性を示せるものは見つかるかもしれない、とも言っている。

もし、1つでも2つでも、性格との関係性を示せるものが見つかれば、それで充分だと思う。
おそらく、能見正比古が本に表したような複雑な人間の性格行動を、遺伝子からすべて見出すのは不可能かもしれない。

多くの学者たちが、充分に検討することもなく、血液型と気質の関係性に対して反対をしてきた中で、山元氏の誠実な見解はありがたい。

気質や行動性について云々は、フィールドワークなのだ。
これからも私たちと皆で、互いに観察しながら調べていけばいい。
それより、体と血液型の関係が、早く分かるようになって欲しい。
筋肉の違い、ホルモンバランスの違い、ストレスの違い、エネルギーの違い、etc
そういう事が解ってきたら、病気や痛みに対する対処法がもっともっと、改善するに違いないのだから。


愛を理解したいなら血液型を知って損はない

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恋愛は「愛の登竜門」能見正比古は、血液型と人間の関係について、さまざまな角度から眺めて考察しました。 政治、ビジネス、子育て、夫婦の問題、男女の恋愛、人生について、スポーツ機能…。 ABO血液型は人間が関与する、あらゆる活動に関係性を認めることができるからです。
どの分野も役に立つ情報はたくさんあるのですが、日本では女性誌でよくとりあげられたせいか、男女の恋愛関係が中心になって広がった感じがあります。 そういうムードがあるからなのか、血液型のことをいうと、「女性は好きだよね」と、男性に言われることも多いのです。
「あら、そう?すると男性は愛に興味がないの?」
もし本当に興味がないとすれば、それはつまり、男性っていうのは人間のことなんて興味がないよ、と言っているようなものなのだけどな。 もちろんそれが自分たちの人間オンチを自慢しているのと同じだとは、言った本人も気付いていないのでしょうが。 男子たるもの、血液型に関心を持つのは恥ずかし、いとでも? などと、いちゃもんをつけたくなる私。
しかしそういう私も、男性たちが時々そんな風に言うのを聞いているものだから、企業関係の講演なんかに呼ばれたときには、聴講者が男性ばかりなら、やっぱりビジネスのことを聞きたいんだろうかと、仕事に役立ちそうなことをあれこれ考えて話してしまうのです。 ところが、講演の後に食事会などに出席すると、男性陣から次々に出る質問は「いや、妻がA型なんだけどね、最近上手くいってないんだよねえ、ご機嫌とるのが大変で…」 というようなたぐいのものばかり。
だからそうでしょう? 男性も、人間のことがもう少し分かりたいと、心の奥底では思っているし、分かったら、もう少し妻と上手くやれるんじゃないかとも思っているのですよ。
とにもかくにも、血液型を軽くみるのは間違いだけど、男女の愛を軽くみてもいけません。 私たち人間の、本当の探求が何かと考えれば、それは結局「愛」なのです。 「愛」とは何かを理解し、愛を具現化したいが為に、さまざまな人生を送っているといってもいいかもしれないのだから。

もちろん、愛といっても、もっと広い意味の愛であり、男女の愛に限ったことではないのですが、愛の中でも男女の愛は、愛を知る入り口としてはとても分かりやすいのです。 そして、男女の深い愛情なら、夫婦のように長い年月をかけて学んでいくことになる…

【研究の道のり①】血液型と気質のパイオニア古川竹二の無念

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忘備録として「血液型と性格」について、日本の社会では誤解や中傷が多々ありました。そのため、この研究がこれまでどのように行われてきたのか、どのように社会に浸透、拡散していったのかを、人々が正しく知る機会がなかったように思います。私の知る限りではありますが、研究側にいたものとして記録に残しておこうと思います。

血液型と気質(三省堂)
昭和7年1月30日初版発行
著者:古川竹二

血液型と人間の気質について、日本で最初に研究をしたのは古川竹二という教育心理学者(現在の御茶ノ水女子大)でした。
彼が研究に着手したのは昭和元年頃と思われます。
血液型の発見が1900~1901年ですから、それから20年ほど後のこととなります。

当初は、数十人の学生を対象に始まったようですが、8年後にこの本を出した時には、数百人~千人前後の調査数で行っています。(古川氏はわずか数十人のデータで分析したのだという誤報が流れていることがあります。)

研究の道のりは、非常に苦難であったことが、本の前書きを読むとよく分かります。
当時も他の学者らから、さまざまな誹謗中傷があったようです。

(以下は、上記写真の本のまえがきです。)

しかし、この本を出版する頃には、古川氏の研究賛同者も現れました。
また、当時、血液型と気質の関係について言及する学者は、古川氏以外、あるいは古川氏以前にもいたのだということも聞いています。
いずれにしても、研究成果をひとつの形で残したのが古川氏だったわけですが、パイオニア古川氏にとって最も強い支持者となってくれたのは、法医学の草分けと言われる古畑種基氏(東京大学医学部)でした。
古畑氏は、血液型の情報をいち早く日本に持ち込んだ張本人だとも言われており、ABO式血液型の日本全国分布図作成は、古畑氏を中心に行われていたのです。
古川氏にとって、非常に心強い味方ができました。

しかし、その安堵もつかの間で、支持していた古畑氏が突如として考えを覆しました。
理由は明らかです。
その頃、古畑氏の法医学に対する功績は非常に大きかったわけですが、彼は周囲から押し上げられるような形で、学会の頂点へ上り詰めようとする勢いでいたのでした。
すると、古畑氏にとっての非常に大事な時期であるがゆえ、「血液型で性格を云々~という、訳の分からない研究を支持するのはどうしたものか」と、周りから忠告を受けること…