ラベル 血液型人間学事情 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 血液型人間学事情 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022-06-13

血液型を活用する3つのポイント



能見正比古は、1971年に記念すべき「血液型でわかる相性」を出版した後、1973年に「血液型人間学」という2冊目の著書を出版しました。そしてこのタイトルの通り「血液型人間学」を新しい学問として世に提唱したのでした。その後は、「血液型活用学」「血液型愛情学」「血液型政治学」・・・など、各テーマに沿って主要な書籍を全部で12冊ほど世に送り出しました。

これらの書籍を熟読すれば、人生のさまざまな側面に応じた血液型活用法が、およそのところは理解できます。そしてもちろん、どう活用するかはその人の工夫次第なので、中には素晴らしい活用法を実践してきた方もいると思うのですが、多くは、その中身の濃さ程には、活用できていないという事実もあります。

あるいはこれは血液型人間学だけでなく、世にあるノウハウ本の全てに共通するかもしれないですが、頭で理解したのと同じようには、自分のリアルな生活に活かせないというのがあるようなのです。
そんなことで、ではどうしたら本当の意味で活用できるのだろうか?というのを私自身の経験も踏まえながら考えてみました。それには大きく3つのポイントがあります。

●ポイント1

人間を理解する姿勢

これは最も重要だけど最も難しいともいえます。そもそも血液型ありきではなく、人間ありきでの血液型なのですから、たとえ血液型の特徴だけ知り尽くしたところで、人間そのもに寄り添う気持ちがなければ使い道を誤る可能性もあります。

ただしここでの問題は、そもそも私たち人類が、どこまで自分たち人間のことを理解できているのか?というところもあります。
まあ、ですから、今の私たちに出来ることは、「理解しよう」「理解したい」という、人間に対する興味と関心を真摯に、純粋に向ける姿勢が大切なのだと思います。

●ポイント2

ディスカッションする

人間の行動や思考、あるいは心の動きについては、デリケートな面があり、なかなか自由な発言が出来ないという現状があります。
血液型についても、下手に口走ると誰かを傷つけるかも?うさんくさい(と信じている人も居るので)事に関心がある人だと思われるかも?というように、躊躇してしまうこともしばしばあります。

実は私はこれまで、「自分の中で静かに活用するのが賢い使い方です」と言ってきたのですが、むろん、それはひとつの側面では正しいのです。けれど、自分の中だけで納得してしまうと、間違った認識かどうかを確認することが出来なくなります。それが血液型特有の特徴なのか、その人固有の特徴なのか(また別の働きなのか)を見分ける微妙なラインも多く存在するからです。

するとやはり、意見を交換する場がどうしても必要になります。それは当然、血液型人間学を学びたいという同じ気持ちを持った人たちと交流するのが良いでしょう。そして血液型人間学の場合、他の人たちとディスカッションする中で、「あ、そうか!」と気づくことが実に多いのです。

●ポイント3

気長にじっくり学ぶ

ある程度、血液型で人間を観察し始めると、ちょっと分かったような気分になります。
「B型ってこうなのよ」「あ~、A型だと思ったわ、やっぱり」みたいな感じで。
おしていつの間にか、自分独自の枠組み(カテゴリー)を構築してしまうのです。人間の脳って、そういう風にできているんでしょうね。

ところが、8割がたはその枠に収まるかもしれませんが、収まらないこともままあります。
何年経っても、「あ、こういうA型さんもいるんだなあ…」というような場面に出くわすのです。

固定観念をつくらない為に、こうした人間に関する学びは永遠に終わらない、ということを悟る必要があります。それに「人間」という、流動的で変化に富んだ存在を対象にする場合、正解は無いようなものでもあります。気長に、柔軟に、学ぶ姿勢がとても大切なのです。



「血液型人間学」が、人類の連帯と、人間愛を育むための学びになりますよう、心から願います。

2021-05-20

自分軸で生きるために「血液型人間学」の意義を再認識してみよう


「血液型人間学」は役に立つのか?


現在、血液型のそれぞれの特性については、能見正比古が集中的に行った並々ならぬ努力によって、ある程度のところが分ったと言ってもよいと思っています。

とはいえ、それを学者たちに認めさせようとするとき、血液型と人間行動の因果関係における、生物科学的な決定的証拠となるようものが、まだ見つかっていないと言われればそうかもしれません。しかしそうしたことは、血液型に始まったことではないのです。私たちの”意識”にしたって、それがどのようなしくみで発生しているかは、いまだ現代科学で解き明かすことはできていないし、脳の働きについても、心臓が動くしくみについても、実は全てを分かっているわけではないのです。

人間が今の段階で出来ることは、少なくも現象として明らかになっていることを整理分類し、少しでも役立つものなら、人間の活動に役立てることでしょう。

こう説明すると、更には次のような質問がかえってくることがよくあります。
「血液型にそれぞれの特性があるというのは分かりましたよ。しかし実際のところ、どんなふうに役立つというのですか?」

それは、この血液型人間学に馴染んだことのない人にとっては、あたりまえの素朴な質問かもしれません。そういう方に、どのように分りやすく説明すればよいのか――。私自身が今一度、今の社会を鑑みながら整理しておきたいと思います。


分類することは悪なのか?


2000年の始め頃、血液型の話題がメディアを通して再び沸騰することがありました。すると、その流れを押しとどめようとする反発が、知識人たちを中心におこりました。このとき特徴的だったのは、血液型と人間行動の関係性についてはもはや全否定できないと分かったからなのか、論点はそこではなく、人間を『分類』することへの抵抗でした。国連では、「人間をいかなる方法(特にジャンダーなどの生まれながらに変えられないものに対して)でも分類してはならない」という人権法が設けられた頃でもありました。

そもそも、こうした基準などを制定することは、逆にやっかいな問題を引き起こしかねないというのは、現在の米国の状況を見ればわかります。米国バイデン大統領は就任直後、ジェンダーフリーに関わる法令を発しましたが、たとえば男女別のトイレはもはや必要ないし、肉体が男性であっても女性の心であるトランスジェンダーは、女性として女子のスポーツチームに参加できたりするというのです。果たしてそれは、社会にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。

とにかく世界は、21世紀に足を踏み入れたとたん、どうも的外れな方向へ向かっていたようです。我々が提唱する血液型人間学に対する強い批判というのも、おそらくこの流れに乗ったものだったということが、今振り返ると見えてくるのです。反論者のとある知識人は、「血液型というのは、生まれながら持っていて変えられないものでしょ。そういうのを言ったらだめなんだよ」と、まさに先の人権法に準拠するようなことを発言していました。

しかし、本当に、分類することは”悪”なのでしょうか。科学者なら、決してそうは言えないはず。科学とは、森羅万象のあらゆる現象を観察し、分類することから始まっていくからです。一見、雑多で混沌としている状態を、一旦分類し、整理することで、さまざまな知識や知恵を得てきたのです。「分類すること」は、我々人類が知の探究をする限り、必要不可欠なことです。

「分類」と「差別」は、本来は別々に扱いたいところです。しかし、あえてこの2つの行為を組み合わせてみるとするなら、それぞれをどう感じるでしょうか?

①「分類」しないで「差別」する
②「分類」して「差別」する
上の2つは、いずれにしても「差別」するわけで、それはやはりするべきでないと感じます。

③「分類」しない「差別」しない
おそらく人権法や血液型人間学に反発する知識人たちは、この考えなのでしょう。一見、よさそうにも思えますが、米国を例にしたように、それは混乱を促し、むしろ新たな分断を引き起こす要因になりはしないでしょうか。

④「分類」して「差別」しない
私たちは、これを推進していることになります。もしかしたら、「分類しても差別しない」という取り組みは、今の人類社会では、まだ少しハードルが高いのかもしれません。しかし、私たち人類が、今よりも成長し進化したいのであれば、これを目指すべきだと思うのです。

そして加えていうなら、③のケースは、私たちの思考を止め、進化を拒むことにはならないかと、今一度考える必要があるのではないでしょうか。

地球上の自然界は、実に多様性に富んだ世界ですが、そうした多様性の中には、ある一定の整列や秩序があることも分かります。それを発見したとき、人間はその美しさをより深く感じて感動してきました。ヒトもまた、ひとりひとり異なる個性の多様性の中にあって、自然の秩序に準じたいくつかの色があるのも事実なのです。


「許す」ことは「理解する」こと


「血液型人間学」を活用してくださる人たちに尋ねると、まず何が良かったかといえば、人との付き合いが楽になった、楽しくなったといいます。それは特に、夫婦などの日常を共にする密接な関係性で、効力を発揮するといいます。

私たち人間は、全て自分を通して外部を認識しています。つまり自分を基準にしか考えられないという大前提があります。もちろん大局的には、ある社会の教育や規範の中で育っていくので、そこで身に付く共通のモラルや認識というのがありますが、しかしそれさえも、自分の感受性で受け取っているものであり、それは兄弟姉妹や親子でさえ、ひとりひとり異なるのです。

私は子どもの頃、3つ離れた姉と本の貸し借りをして、その本に対する感想を言い合ったりしたのですが、同じ本を読んでいるというのに、こんなに受け止め方が違うものかと、子どもながらに不思議に思ったものでした。

そういうわけなので、私たちが人と接するとき、相手の言動に対してどうしても自分の価値判断で見てしまいがちになります。しかし、そこに『血液型』というフィルターのようなめがねを媒介させてみます。このフィルターは、対象を曇らせるような種類のものではなく、色弱者のためのサングラスのようなものです。

もともと人間力、人間観察に優れた人なら、血液型めがねなど必要ないのかもしれませんが、しかしながらそういう人物は少ないのです。凡人の私たちは、この媒介を通すことで、そこには自分とは異なる思考行動原理で活動する人々がいることに気づかされます。

私が「血液型人間学」を学び伝えながら確信したことは、人は、理解することで寛容になるということです。人間は、知らないこと、理解できないことに直面すると、一種の恐怖を覚えます。つまり恐怖心がさまざまな攻撃につながっていくのです。ところが、相手の不可解な言動の理由をちょっとでも理解することで、にわかに寛容になれるのです。

B型男性と結婚して数十年になるというA型女性は、B型の夫にだいぶ辟易していたのですが、彼女がB型性を理解した後にしみじみ言いました。
「私は彼を心から好きになることはないかもしれませんが、許すことはできるようになりました」

「許す」という行為は、「理解する」ことでもあるのです。

また、人間関係においては、トラブルや衝突が生じたときほど、役に立つといえます。普段、仲が良いと思っている相手でも、それは案外、表面的な面しか接していないことも多いのです。人間というのは自分を基準にしてしか外部を認識できないわけだから、相手に対しても、自分と共感する部分だけを見て納得していることがままあります。スムーズに進んでいるときはいいのですが、何かのきっかけで、自分には理解しがたい面を見せられることがあります。そんな時にトラブルが発生するのでしょう。そういうときこそ、「血液型人間学」の出番があるというものです。

ただし、この血液型めがねを通した見方というのが『理解する』ことに大きな効果があるのはたしかでも、かといって、そう簡単に血液型人間学の理論が身に付くかというと、実はそうではありません。正直にいうと、やはり、それなりの月日と実践経験が必要なのです。つまり、本を読んだだけでは、活用しきれないのです。

まあしかし、『理解』とまで及ばなくても、「人間を客観的に観察する」という行為なら、すぐにでも実践できるはずで、ほとんどの人が、その利を得るに違いありません。

人々が、なぜささいなことを発端に衝突し、ネガティブな方向へ向かってしまうのかといえば、それは、同じ環の中にどっぷり浸かってしまうからです。それは人間の思考の特徴でもあるのですが、ネガティブな思考はループする性質があるのです。"Negatibu"には、消極性、進化したくない、という意味が含まれているのですが、今ある状態を繰り返すことを良しとする思考でもあのです。

ですから、物事をよりポジティブな方向にシフトさせたいなら、その環の中から出る必要があります。血液型を通して観察することは、そうした人間関係のネガティブなループから一歩外へ出て、客観的な視点を持つことを助けることになります。


自分自身を知ることの意義


「血液型人間学」を人付き合いに生かすことは、興味さえ持てば、比較的簡単に取り組めることだと思います。それに、これまで何気なく眺めていた周囲の人々を、違った視点で見ることは、思った以上に面白く、人間の知的好奇心をくすぐるのです。

ところが、これを自分に当てはめようとしたとたん、そのフィルター機能が上手く働かなくなってしまうことがあります。自分の言動や思考の特徴を客観的に眺めることが、どれだけ難しいかということでもあるのでしょう。

それに、ABO血液型の場合、なぜ人々が素直に面白がるかというと、案外、表面に見えやすく分かりやすいからなのです。それはABO血液型の特徴が、ちょっとした言葉や行動のクセのようなところに表れたり、何か全体の雰囲気のようなところにそれを感じたりするからです。しかし、自分自身に対してそれを感じとるのは、無意識なだけに少々難しくなってしまうようです。私自身、これだけ長くこの分野に関わっていながら、やはり自分のこととなると、おろそかになっているのが事実です。

しかし本当は、自分自身を知ることにこそ、血液型人間学を活用する意義があります。自分がどのような人間で、何を求め、何が好きで、どんな強みがあり、どんな弱点を持っているのか、それらをよく知っていたとしたら、自分の能力の伸ばし方や弱点の乗り越え方を、適切に検討することができるし、自分の人生に対する取り組み方は、今より更に良いものになるに違いないからです。

私たちは、自分の肉体でありながら、自分のことをあまりに知らな過ぎたのではないだろうか。ならば今こそ、「血液型人間学」を自分のために活用することを、もっと真剣に考えなくてはならない。私がそう提案したい思いは、今の人間社会に押し寄せている、大きな変化のうねりを感じるたびに、沸々と大きくなっています。


これからの社会は自分軸で生きる


「変化」ということを、私はもう何年も前から、事あるごとに口にしたり何かに書いたりしてきました。事実、変化しているのですが、目に見えるそれは緩やかなのか、私が訴えるほどには、人々は感じていなかったかもしれません。けれど、今世界全体で起こっているパンデミックによって、いよい大きな波が迫りくるのを感じざるを得ないのです。

コロナ騒ぎで充分すぎるのに、これからまだ何か来るの?と思うかもしれませんが、コロナが終息するときこそが、社会が大きくチェンジするターニングポイントになるはずです。今、このウィルスによって、人々は行動を著しく制限されていますが、それは人々に、見極めの時間を与えられているようなものだと感じています。

この期間に私たちは、今までの社会がどれだけ欺瞞に満ちたものだったか、政治も行政もどれだけ機能不全に陥っているか、人々の思想や意識がどれだけ停滞しているか、グローバリゼーションとは何だったのか、メディアの在り方とは何か、など、実にさまざまな現状を、まるでスローモーションのように、見せられている気がします。

「このままいくとこっちに進んでいきますよ、いいのですか?」
という具合に、人類の集合意識に選択を促すかのように、まざまざと提示されているような、そんな気さえしています。

これまで築かれていた社会の枠組みは、一旦、見直さなければならない。そのように感じている人たちは少なからずいます。そういう人々が、一定以上の数に達しているとすれば、おそらくコロナ後の世界は、元どおりに戻ることはないのでしょう。

では、どう変わるのか。そもそもこれまでの社会は、外部に軸があったといっていいでしょう。人々は、できるだけ社会の枠組みに自分を合わせていくことで、安全で安心できる生活を送ることができました。ところが、もしもその枠組みが失われ、新たな社会を構築していくとするなら、今までおいていた軸をいったいどこにおけばいいのかとなります。

問題がおきても誰かがやってくれるだろう。ウィルスはじっと待っていれば消えてくれるだろう。そう思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そのように考えを進めていったとき、自ずと見えて来る道とは?
私が見えている道とは、「軸を自分においた新しい生き方」です。

これまで、大半の人々が社会の枠組みに合わせている中で、自分軸で生きるという選択をするのは、何かと生きづらいものがありました。しかし、多くの人が自分軸で生きるようになるなら、それが社会の在り方となっていく可能性があります。

ただしそれは、自分という存在を改めて見直さなければならないことでもあり、決して楽ではないかもしれません。しかしそこには、ネガティブな無限ループから飛び出した、新たな可能性が大きく広がっているように思うのです。

そんな未来予測をしながら、「血液型人間学」の活用を、今一度、思うところであります。

-------------------------

2017-05-22

血液型にまつわる海外事情

血液型に興味シンシンなのは日本人だけじゃないのです。


巷では、血液型について関心を持つのは日本だけだという噂がときどき流れるので、その辺について記載しておこうと思います。
それ以前に、日本人が海外の反応を気にし過ぎるきらいがあるということも、理解しておいた方がいいかもしれません。それについては、以前のページで触れています。

「血液型人間学」を能見正比古が、日本の人々に伝え始めたのは1971年ですが、その活動から10年ほど経った頃、他国からも取材や問い合わせがあるようになりました。
どんな国からどんな取材があったか、詳細を記載するのは少々難なので、とりあえず記憶にある限りをリストアップしてみます。(年代や順序は無関係)
(各国メディアの取材)
・ドイツ~科学ニュース関連の雑誌など(数回)
・フランス~雑誌とテレビ(数回)
・米国~雑誌とテレビ(数回)
・ロシア~テレビ(数回)
・台湾~雑誌関係(日本発行女性誌の台湾版があるので多数)
・ブラジル~テレビ
・英国~雑誌
・韓国~さまざまなメディア(活発な活動を行ったため多数)

欧米諸国の記事においては今のところ”日本の文化”として取り上げられることがほとんどですが、中で印象に残っているのは、ドイツの取材スタッフたちは個人的な強い関心を持つ人が多かったということです。フランスでは、古くから研究しているグループもあるようです。それらについては下の方で補足しますが、次に、能見親子の本が翻訳されている国を紹介します。
・韓国(多数)
・米国(You are Your Blood Type)※能見の本を元にライターが新たに執筆。
・インドネシア
・台湾
・タイ
・中国

また、ネット普及のおかげで、さまざまな国の個人的な問い合わせがあります。どんな国から問合せがあったのか、記憶にある国を紹介します。
米国/フィンランド/オーストラリア/フランス/ブラジル/ルーマニア/メキシコ/韓国/中国/フィリピン/インドネシア/その他

ということで、こうしてあげたリストを眺めただけでも、他の国の人々が決して関心を持たない、というわけではないことが、何となく分かるかと思います。
私が問合せや海外からの訪問者、あるいは啓蒙している中で感じてきたところでは、欧米諸国ではドイツ人やフランス人の関心が特に高いように思いました。
北欧フィンランドの友人に聞いたのですが、ヨーロッパ諸国の中でよく言われていることがあるそうで
・ドイツ人は好奇心が旺盛で何でも飛びつく
・フランス人はどんなことでも独自(フランス流)のものに作り変える
のだそうです。

確かに、血液型に対してもそういう反応だと感じます。
海外で、真っ先に我々にコンタクトをしてきたのは、ドイツでした。
フランスではフランスならではの解釈があるようです。(こちらは4タイプをギリシャ神話に登場する神々?になぞらえているようです。その辺は日本人には馴染みがないのでピンと来ないかもしれませんが、ギリシャ神話に詳しい人ならナルホドと思えるところがあるようです。)
また、米国版「You are Your Blood Type」を出版したとき、興味深いエピソードがありました。
米国では州ごとに売れ行きを見ながら販売戦略を立てていくことが多いのですが、この本はなぜかユタ州においてベストセラーになりました。ユタ州といえば、モルモン教というのが思い浮かび、けっこう戒律が厳しいとも聞いたことがあります。そういう宗教の盛んな州で、この新研究の本がベストセラーって、どいうことなのでしょう?
真相は分かりませんが、”血統”に関しての興味が強いのかも…とも思いました。
しかしこの米国版の本は、編集担当者が突然辞めたことで、この本も一緒に頓挫してしまったという残念な経緯があります。
著者のベッシャー氏は独自に調査も行っており、面白い事実も書かれている本なのにとても残念です。

海外で私が行ってきた、あるいは継続中の啓蒙活動についてはホームページやこのブログでも紹介していますが、現在もっとも活発なのはインドネシアです。
インドネシアはB型が日本よりずっと多いですが、4タイプの血液型もそれなりに揃っていているので調査も啓蒙も行いやすいのです。
また、お隣の韓国においては、15年前に活発な進展があったことで、すっかり浸透しているといって良いでしょう。韓国では独自の研究者が表れたり、血液型の人気サイトがあったりなど、韓国なりの進展をしているようです。

欧米諸国からの個人的な問い合わせは、とても熱心な方が多いです。新鮮なこともあってなのか、非常に感銘を受けるようなのです。ところが、自国では血液型の情報があまりに少ないため、残念でならないと皆さん嘆いていらっしゃいます。

このように、血液型に興味を持つのは、実は日本人だけではないのです。血液型は人類共通の遺伝子なのだから、国が違ってもその素材的な性質は同じですし、それは当たり前といえば当たり前のことなのですが。
しかし、古川氏や能見親子が、開拓者精神で頑張ったこともあり、日本で深まり、広がりました。この事実は、とても貴重なことだと思っています。
今後、この「血液型人間学」が、日本から世界中に広がる可能性は充分あるのです。

それにしても、私がいろいろな国の人たちと交流してきた中でつくづく実感するのは、血液型を理解して外国の人々と関わると、とても楽しいということです。
楽しいというより、楽(ラク)だと言った方がいいかもしれません。
「ああやっぱり、○○人はね」とか、「国が違うからね」「宗教が違うからね」とか…、もちろん、それは環境の違いとしては、あるにはあるのですけれど、血液型を理解していると、不思議とそういう違いなんて、どうでもよくなるのです。
それよりも、「あら、A型らしいこと言うわね~」とか、「そうか、B型だったのね」とか、血液型の特徴を見出す方がずっと楽しいし、何よりも優しい気持ちで接することが出来るのです。相手と接するのに、なぜか肩の力を抜いていられるようになるのです。
皆さんにも、ぜひこの感じを味わって欲しいのにな…。

そういえば、書き忘れましたが、能見正比古の一番弟子は、米国からやってきていたアンディというAB型の男性でした。
そうしてみると、「血液型に興味を持つのは日本人だけなのか?」というテーマに対する今のところの結論は
「血液型には、どの国でもどの人種でも興味を持つ人はいるのだけれど、広がるだけの環境と研究土壌が最初に整ったのが日本だったので、日本で盛り上がった」
ということではないでしょうか。

2017-05-15

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”



近頃、日本人について、つくづく考えています。その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえといえばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを感じざるを得ない、と思うことが、しばしばあるのです。だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれませんね。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもプンプンするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、わたしもそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろんわたしは、心の中では思っています。「…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいな」と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。


『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

わたしもそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同時に、重度の記憶喪失現象に陥っているのかもしれない、とも思い始めました。

そういえば、かつては”黄金の国ジパング”と呼ばれたこともあり、”神の国”と呼ばれたこともあったわけです。もちろん、できるなら今でもそう呼びたいところですが、今の我々日本人が、とうにそういう意識は薄れ、そんな呼び方をしてよろしいものかという、懸念というか、後ろめたささえあるものだから、「かつて」と言わざるを得ません。

その上、今となっては、なぜに何をもってして、”黄金の国”だったのか、”神の国”だったのか、言い伝えの根拠はまちまちで、断言するほどの勢いも無いわけです。だからと言って今更、黒船が…、敗戦が…、教育が…と、いろいろ理由を挙げたとしても、誰かのせいにするのはいかがなものか、とも思います。結局は、我々日本人自身が、どんな経緯にも責任をもたねばならないのです。

それで行き着くところ思うのは、とにかく日本人は、重度の「記憶喪失」現象を起こしていることを、認めることが先決のような気がするのです。日本人が重度の「記憶喪失」現象に陥っていると、半ば確信を持ったのは、とあるデータを閲覧したときです。それは「社会実情データ図録」というサイトで、本川裕さんという方が日本や世界のさまざまな統計データを収録、分析してくれているものです。ここで目にとまったのは「神の存在、死後の世界を信じるか?」というものです。

さて、日本人はどうかというと、神の存在も、死後の世界も、「信じる」という回答が少ないとあります。そしてもうひとつ、日本人の特徴は、「わからない」と回答する率が非常に多いという事です。この、「わからない」「どちらともいえない」という回答の多さは、日本人特有の傾向なのだそうで、それは他の設問においても、常に多いらしいのです。

本川氏は、この日本人の曖昧さを、『和』や『中庸』の精神だろうと分析しており、わたしもそれには納得するのですが、別の側面から見ると、正直なところホントに「わからない」のではないかとも感じているのです。それはまさに、「記憶喪失」者の回答そのものでもあるからです。

そう言っておきながら、記憶喪失者に会ったことは無いので、自分がもしそうなったらと想像するだけですが、記憶が封印された箇所について訊かれても、そうであるような無いような…というように、モヤモヤと曖昧で「わからない(=覚えていない)」と回答するしかなのではないかと…、そう考えたからです。

それでその、モヤモヤした中で、「黄金の国?」「神の国?」と、(?)マークを付けながらも、薄っすらではあっても、あながち単なるホラではないかも?という思いが、日本人の心の奥底に漂っているのかもしれない、という気もしているのです。これに関連して「神、宗教心」について本川氏がコラムを別途掲載しています。「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」

本川氏の解説を参考にしながらざっくり考えると、日本人は、「宗教的な心は大切だけれど、現存の教義は今ひとつ不確かで、信心するに至らない」ということなのかもしれません。少し言い換えると、日本人は、信心するべき”何か”、があるような気はしているのだけれど、今のところそれが何かはよく分からない、と考えているのだという感じでしょうか。まあだから、何度も言うのはしつこいですが、重度の「記憶喪失」現象に陥っているからではないかと。

ここまで書いてきて、血液型の話から、ずいぶん遠のいた感があるかもしれないですが、実はこの、日本人の曖昧さ加減(=記憶喪失現象)が、「血液型人間学」への扱われ方にも、たいへんよく似た状況を起こしてきたのです。

血液型と人間性には、”何か”、ただならぬ関係があるような気もするけれど、それが何なのか、明確に証明するお墨付きも無いし、今のところ曖昧にしておくのが無難、というような感じです。

記憶喪失”現象”という言い方をしているのは、内容によっては、実際に記憶を喪失していることもあると思うのですが、白黒つけようもなく分からないので記憶喪失のフリをしている、という意味合いも含んでいます。

そして血液型人間学に関して言えば、最初に研究した古川竹二さんまで遡ればおよそ100年ですが、能見正比古が事実現象を公開し、一般の人々に知られるようになって46年。これだけ人々に広まっていながら、およそ半世紀もの間、この曖昧さに対してとことん追求しようとする向きは一向に訪れず、宙ぶらりんのまま今に至っているのです。

それに、先代の能見俊賢にしても、わたしにしても、こうした日本人的性質にむやみに抵抗しないよう、ゆるやかに進めてきた、というところもあります。タラレバ話をするなら、B型の能見正比古がもっと長く生きていたなら、私(AB)や能見俊賢(A)のように”ゆるやかに”とはならなかったかもしれません。そもそも研究した張本人でありますし、あのB型的な勢いで邁進し続けたなら、今とは状況が変わっていたのかもしれません。

とはいえ、”時のカミ”がいるのだとしたら、タラレバを言うのは無意味なことで、それは起こるべきときに起こるのですから、全ては流れのまま進んできた、ということなのでしょう。

話は日本人が記憶を喪失した「神」に戻ります。ここ数年、スピリチュアルなことに若い人たちが強い関心を示すようになっているようです。私の住処の近くに在る有名な神社など、休日ともなれば中高年者と同じくらい若いカップルたちも多くて、正月並みの行列になるほどの賑わいぶりなのです。だからといって、そういう人々が信心深く、神がかっている、という風にはもちろん見えなくて、誰もが、お祭りに来ているようなはしゃぎようと気楽さなのです。

まあ、深読みするなら、こうした流行は、それがたとえ無意識であっても、もしかしたら、失った記憶を思い出そうとする、日本人の集合意識から発生している現象なのかもしれません。とにかく、こうして日本人のことを考え始めるときりがないし、とどのつまり何が言いたいのか、分からなくなってしまうことが多いのです。

さてこの、およそ意味不明な文章を締めくくるのに、10年前なら、「いつか、真実が分かる日がくるのでしょうか?」とでも書いたかもしれません。ところが今は、これまでとちょっと違う気がしています。真実が分かる日が、何やら刻々と、近づいている気配もしているからです。

「神の存在」について、あるいは「血液型人間学」についても、ある日、真実が分かる(思い出す)その時がやってきたら、日本人総記憶喪失現象からやっと抜け出せる、ということになるのでしょうか。




2017-05-13

いまだに続く血液型ネガティヴキャンペーン〜その行方は?


先日、テレビ朝日のバラエティ番組で血液型の特集が放映されました。
当センターもこの番組が企画された最初に取材を受けました。
血液型をテレビの番組で取り上げるとき、大方の場合、一度はこちらに問い合わせがあります。もちろん、それでこちらの意図が通るか、与えられる情報があるかないか、あるいはその企画が実現するかしないかは、まだ分からないという段階です。
それでも何でも、正直に言うと、テレビからの問い合わせや取材は、仕事の中で最もストレスが大きいのです。

「どうか、どうか、少しでも事実を伝えるマシな番組になりますように...」
と、祈るような気持ちになってしまうわけです。
自分でも少々過敏すぎるかもしれないとも思うのですが、過去ウン十年、何十本もの番組に協力してきて、胸を撫で下ろしたのって数回くらい...しかもそういうのはたいてい地方テレビだった、というこれまでの実体があるものですから、まあ仕方ないところもあるのです。
あまりにもエネルギーを消耗するものだから、その後、その企画がどうなったのかというところを、あまり追及しないことにしています。
後は流れに任せてなるようになれという、投げやりというか、居直りというか、そんな気持ちでいるのです。

それで、結局どうなったかを知らずにいたのですが、どうやら企画が通り、放送されたようで、研究員やら友人ら、周囲の人々が観たよと報告してくれました。
そして、私の友はキッパリ言いました。
「え?何これ?って内容だっのよ」
私はほとんど察しがついたので「きっと中途半端な番組だったんでしょ?」と言うと
「そうなの、その通りよ。何が言いたかったのか分からないしさ、観て損したって感じよ」

ああまったく...。
テレビは相変わらずなのだなあと、またおんなじようにがっかりするハメになりました。

結局、何が上手くいかないのかというと、優柔不断な番組づくりをするからなのでしょう。
血液型のことはテーマにしたい。(視聴率もあがるんだし)
けれど科学的裏付けを示さないと(今時のご時世)やれない。
という、2つの意図で行ったり来たりしながら、肯定したいような、批判したいような、変にあやふやな内容にするからなのです。
先ほど、地方テレビは胸をなで下ろす番組....と書きましたが、上質なものばかりでした。
理由は簡単で、地方テレビは、主要メディアに比べたら、ずっと素直に取り扱ってくれてきたからなのです。
そしてそういう番組は、観ている視聴者を安心させ、気分よくさせるのです。
どういうことかといいますと、たとえば、未熟な俳優さんの演技を観ていると、ハラハラして疲れるじゃないですか。しかし、役に成り切った上手な俳優さんの演技は安心して楽しめますよね、それと同じなのです。
そうしてみれば、何というか、主要メディアがどれだけ冒されているか、ということでもありますが。(何に冒されてるんだ?)

とにかくまあ、結局、現代科学の幻想に囚われて権威に頼っているうちは、メディアはそのジレンマから脱却できないでしょう。

もちろん、血液型人間学は科学として研究するテーマであり、遺伝子や物理学や、細胞学や、人間科学が進歩しなければ解明されない研究です。
けれどその、誰かれさんらが崇拝する現代科学が、どこまで人間の本質を理解しているのやら、です。
それがもし、人間の数%しか分かっていないのだとしたら、その中で話せる事など大したもんではありません。

能見正比古が凄かったのは、当時の科学をはるかに越えた先を見通しながら、データと観察で事実を突き止めたからです。
それは彼の想像力+創造力の賜物です。
人間の本当の優れた能力とは、既に証明された事実を捏ねくりまわす事ではなく、いかに創造し、新たな真実を追究するかというところにあるのではないでしょうか。

そして大事なことを加えるなら、私は知っているのです。
能見正比古、俊賢が、どれほど純粋な人間愛で、この研究を進めたのかを。
そうしてつくづく思うのは、愛に基づいた彼らの活動は、未だに根付いている、分離の甚だしい世界では、活かすことが難しいのだろうかと。
人々が、本当に愛ある世界を築こうと目覚めたとき、そのときやっと、真実を見ようとするのかもしれないのです。

今しばらく、辛抱強く待つことにしますか。

能見正比古の「血液型人間学」が統計であるかないかということに、どれくらい意味を持たせるかというところの真実



能見正比古の「血液型人間学」は統計に支えられていたに違いはないが…

能見正比古という人物について、若い人のほとんどは知らないのでしょう。
ところが、60代以上の人々が集まる会合などに出席すると、「本を読んだ」「講演を聞いた」という人が、必ず何人かはいらっしゃるのです。
そんなとき、当時(40年前)、老若男女問わず、どれだけ日本の人々に強い印象を与えていたかというのを再確認します。

彼はもちろんタレントではないですから、有名人的な存在としてテレビでもてはやされたとか、そういうものではありません。
彼の本を読んで強く共感を得た人々が、とにかくたくさん居たわけです。
能見の分析や理論は、画期的でもあり、新鮮でもあり、驚きでもあったのですが、それはおそらく、ここ数年の、流行りの最新××科学とか、最新ナントカとか、そういうのとも全然違ったと思うし。…書きながら何か似たような現象がないかと探しながら、そういえば…前々回の記事で「記憶喪失現象」について書いたのですが、日本の人々が記憶の一部を取り戻したような感じ、なのかもしれません。
「そうそう、確かにそうだよ!」と、能見の、的を得た分析に、モヤモヤしていたところの霧が晴れた、みたいな感動ではなかったかと思うのです。

とはいえ、既に世の流れは思考の画一化に向かっており、科学や哲学の統一化というか、規格化というか、世界の知識は欧米諸国を中心に、そういう偏狭な方向に進み始めてもいたのです。
それで、能見の分析に純粋に共鳴する人たちも多くいたには違いないですが、中には、"統計"だから、ちゃんとデータを取っているから信用できる、と、"科学性"というところを支持する人たちも結構にいたようなのです。

そして能見もまた、東大工学部卒ということであったので、科学性であるとか、統計手法であるとかは、イヤというほど学んだろうし、本人自身がそういう客観的な物差しで証明しないと気が済まないという性分でもあったのです。だから彼はデータを集めに集めまくったし、何千何万というデータと睨めっこして、取り組んだのは間違いありませんでした。
そんなことで、「血液型人間学は統計学である」というのが、ひとり歩きした感も無きにしも非ずです。
けれど、ちょっと考えれば分かるでしょうが、統計学だけで、人間の行動が細かに分析できるはずはありません。

それでその後、能見の血液型人間学理論が高まるにつれ、批判的、反論的な意見が、特に学者らの中、とりわけ心理学者らを中心に現れるようになりました。
そして、「能見正比古のデータから意味のあるものは見つけられない」、「彼の統計はデタラメである」、というような意見を、彼らは発信し始めました。
中には、「そんなデータはとっていないし、嘘八百を述べている」、などと風聴する輩まで現れて(今もいるのですが)、それにはさすがに我々も呆れ果て、「日本全国民を、そんな"ホラ"でだませる肝っ玉があるなら、親父はとっくに政治家にでもなってたよ」などと、能見俊賢は苦笑いしていたものでした。

すると先日、たまたまこんなサイトを見つけました。
http://transact.seesaa.net/article/109878065.html
このサイトは、「能見正比古は統計なんかとっていない」とタイトルにあります。

私はタイトルだけ見たとき、「へえ、そうなんだ、どういうこと?」なんて、何だか他人事のように素朴な疑問が生まれたので、読んでみることにしました。こちらのサイト運営者は、能見の本を読んだけど、性格を分析するのに統計データをとったとは、とても思えないというような説明を書いておられました。

それはあま、そう思うのも仕方ないかもしれません。
そもそも、彼の本は論文ではないし、そういう審査を受けるべく書いたものではないですから、判定しようにもできないだろう、とも思います。
本の場合、それが一般書であれば尚のこと、著者の結論的見解を述べるのが普通だし、その過程を細かに示すことはページ量的にも不可能ですし、またその必要もないわけです。
ただし、熟読していけば、それについての説明も一応ちゃんとしてあるのですけど。それで能見は、疑問に思われるならいつでも問い合わせて下さい、とも念を押しているのですが、賛同した人が訪ねてきたことはたくさんあっても、反論する人が訪ねてきたことはほとんどない、というのが実のところなのです。

それで、話を中心に戻して言うと、何だか、統計とかデータとかいうことに、やたらこだわる人々が多いのだと改めて感じたので、じゃあ、能見は何をもってして、「統計的検証をした」とし、どのように分析を進めたのかを、ここに改めて説明しておこうかなと、思ったわけです。

まず最初に言っておくべきことは、能見は本に書いてある通りの数だけ、データを取りました。むしろ控え目に書いているぐらいです。
これについてはウソも改ざんもないですし、その、あまりに馬鹿げた憶測に対して、我々はあまり反論してこなかったので、能見親子の名誉のためにも、改めてここに明言しておきましょう。

以上を前置きして、血液型と人間性の関係を確証するに至る流れを説明していきます。

①まずは、血液型と人間との間に、何らかの関係性があるのか無いのかを、どんなデータからでも探し出してみようということになりました。

能見が注目したのは、業界や職業分野や、ある特殊な集団と血液型分布の関係です。
何らかの偏りが見られ、有意性があれば、それは統計的に何らかの関係性があるとして良いわけです。
それで能見は、100件以上の分野に有意性のある偏りを見つけました。
本来、何らかの関係性だけを示すのであれば、数件でも見つかれば良かったのですが、確かな事実を求めようとした彼は、それを100以上にも増やしてしまいまいた。
おそらく面白いくらい見つかるので、勢い余って突き進んだのではないか?とも思われますが…。
まあ、中にはその時代背景に影響されている分野もあります。
社会の状況は常に変化しているので、そこで活動する人間の様態も変化するのが当然です。その有意性は一時的なものであることもあり得るため、そうした流動性を考慮しても、100も見つければ、まあ充分だろう、ということだったのです。

この段階で、血液型と人間の活動には、何らかの関係性あるというのをまずは証明したわけです。

それで次の課題は何かというと
②具体的にどのような内容で関係しているのか?といのを精査してゆかねばなりません。

これは、単に分野ごとの血液型分布の偏りだけ見ても大したことは言えません。
歴史作家にA型が多いからと言って、A型の、何のどんな部分がそれに関係するのかは言うことができません。それで能見は、各血液型の性質を詳しく探るためにアンケートを取ることにしました。
さてしかし、このアンケートがやっかいです。
「あなたは歴史が好きですか?」と訊かれて、確かにA型の人は歴史好きが多いですが、それじゃあまりに芸がなさ過ぎるし、それに、自分で申告する好き嫌いが、どれだけ社会活動に反映されてるかとなると、少々疑問が残ります。
もっと、四方八方から攻めて吟味する必要があるわけです。
すると、様々な質問が生じてきます。(以下は実際に行った設問ではなく、私が書きながら思いついたものです。)
過去の記憶をよく覚えているか?
過去への郷愁は?
資料をコツコツ集めるのが苦にならないか?
緻密な思考性は?
想像力は?
などなど。

”歴史”というテーマにまつわるだけでも、数限りなく浮かんできます。
そして、質問の仕方には、いくつかの工夫がほどこされました。
アンケートは自己申告なので、事実が正しく回答されない恐れもあるため、なるべく、回答者が善悪などの固定観念に惑わされないような設問に置き換えて、自分のことを少しでも客観的に捉えて回答できるようにしました。それは大抵、事実を述べるしかないようなものや、行動のクセを探るような質問です。

そんな感じで、ある一つのデータを元にしただけでも、質問はどんどん広がっていくわけですが、その質問は、4型に対して同時に広がりを見せるのであって、たとえば、”A型は緻密”という性質を充てる過程においては、いくつもの質問を積み重ね、他のタイプとどこが異なるかを見つけ出さなければなりません。
何気ない質問や回答のなかに、ある血液型の意外な傾向が、ふと現れたりすることもあるので、「おや?これは何だろう」ということで、更に追求する幅が広がっていきます。
また、せっかくだから、一回のアンケートで出来るだけたくさんの設問に回答して頂きたいということで、回答する人が楽しんで飽きずにやれるよう、ときどき、特に意味もないユニークな設問なんかも入れておきます。
たとえば、「幽霊を信じる?」とか。
すると、そういうのに限って、期待していなかった偏りが見られたりすることも多いのです。
この、楽しんで回答できるという要素は、非常に大切なことだと思います。
それがよくあるような、”性格診断”のアンケートのように堅苦しいものだと、回答者は「これで自分が評価される」のような、ある種の緊張を感じながら回答することが多くなりがちですが、能見の作成したアンケートは、面白くて楽しいので、リラックスして行えたようです。
また、これは個人の診断ではなく、”血液型”の調査であるということで、自分もこの研究に協力し貢献しているという、回答者のポジティブな意識を促進したので、みなさん、非常に積極的に、そして誠実に答えて下さったのでした。

このアンケート回答者について、問題を指摘されることがあります。
読者アンケートなどの、血液型に対して肯定的な回答者たちに行っても正しい結果が得られないというのです。
しかし「いや、ちょっと待って下さい」と言いたいのです。
能見が初期に行ったアンケートは、まだ血液型の内容が人々に知られていない時期だったのですよ。
それに、間違っても「あなたはマイペースですか?」などという直接的な質問をしないので、どの選択肢がどのタイプなのか、回答者に分からないことがほとんどです。
ですから、初期の行動傾向を探るアンケートにおいては、むしろ熱心で誠実に回答してくれる回答者の方が良かったといえるのではないでしょうか。結果的に、非常に信頼度が高く内容の濃いアンケート集計に成功したといえます。

アンケートに対する有意差検定というのは、ひとつひとつの設問に対して行うことになりますが、本でそれ紹介するときには、有意差がある無いに関わらず、本の話題の流れに合致する、ある程度の偏りや分かり易いものを選ぶことになります。
まあそうなると、紹介できるものはほんの一部で限られてきます。
すると、その他のデータは、全て能見のメモと頭の中に保存されたことになります。

そして能見はまた
③人間活動の観察と取材も同時に行い続けていました。

自分自身の周りの人間関係はもちろんでしょうが、知人からその知人を紹介してもらい、そのまた知人....。彼は人と会うことには、何のためらいもなく、図々しいくらいに訪ねて行っては、何でも聞いてきたのです。
能見の本は、芸能人や著名人の話が多くて何だかイヤラシイ、みたいな印象を持った人もいるらしいのですが、能見が放送作家という仕事をしていた関係で、そうした職業の知人友人が多かった、という事情もありました。
それにその方が、本を読む人も顔が浮かんでイメージしやすいだろう、とも考えたのです。

あるいは、そういう人々は特殊な世界だから特殊な傾向になるのであって、一般論に当てはまらないのでは?と考える人もおられるのですが、それは実際のところ、そうでもないのです。
何かの特性や本質を探ろうとするときには、抜きん出た特異な部分を見つけ出すことが早道なのです。
集合体の中で慣らされ平均化された8割の部分からは、あまり多くの真実は、もはや見いだせなくなってしまうからなのです。それより、その平均枠からはみ出した数パーセントの中に、物事の本質が見え隠れするのです。(この点については、先端物理学などの学者さんたちも言及しております。)
ですので、特殊な環境に置かれた人たちや、特殊な分野で活躍する人たちを観察することは、案外意味があるということになります。
ただ、ここが少々難しいのは、そうした特殊な部分というのは、データが少ないので統計的な処理が叶わなくなりがちです。
なので、ある血液型のある傾向を示唆する補完データとして、能見のメモに残すしかありません。

また
④幼児たちの観察記録も行いました。これが能見の分析に大きな貢献をしたのは間違いないでしょう。

子供たちは、大人に比べたら遥かに素直に、素の自分を表現しているのです。

こうして、能見のメモと能見の頭の中には、膨大なデータが記録されていくことになります。そして
⑤”能見正比古コンピューター”が、その網の目のように広がったデータを、処理していきました。

能見は、一つの特徴を見定めるのに、100ぐらいの質問やデータが関わっていると本にも書いています。
これらが能見正比古が行ったデータ収集やアンケート集計、観察、分析の概略となります。
このことから、結論的に何が言えるのかというと、能見が行った分析というのは、統計的な処理、データ結果が土台になっていたし、あるいは分析内容を示唆する大きな支えにもなっていたのは確かです。
ただし、だからといって彼の分析や理論について、逆に統計的検証をしようとしても、おそらくあまり正しい結果は得られないでしょう。収集した大量のデータを、どのように整理し、どのように性格行動に関連付けたか、また、その表現方法についても、能見の頭脳と感性で行われたものである、ということだからです。
実際、統計とはそういうものです。
統計の数値を眺めて、どう解釈しどう分析するかは、それを行う人次第なのです。そこにはその人の頭脳と感性が、大きく貢献(影響)することになります。

そしてその後の研究もあります。
⑥能見正比古の研究調査の最終段階は、彼の分析を、人々に問う作業でした。

それにはできるだけ、多くの人々の目に留まるような形にする必要があります。本やメディアで…。すると、多くの読者たちからの反響があったのです。

そうして
⑦読者たちからフィードバックを受取り、更に内容を煮詰めていくという作業を繰り返えしました。

以上(①~⑦)が、能見が行った一連の、研究調査、分析作業でした。
私はとりあえず、こうして事実を述べましたが、ではこれを読んで、能見が提唱してきた「血液型人間学」を統計に基づいたものであると捉えるか、そうではないと捉えるかは、結局その人の考え方によるのかもしれません。

ただ私は、人々の多種多様な価値観や、考え方を尊重したいとは思いますが、よく調べられていない偽事実の情報が蔓延することには、異を唱えたいと思います。
それで私は、時おり思うのです。
残念ながら反論する方々の、ただひとりも、直接問い合わせて下さったことは、過去47年ないわけで、能見親子に訊いてくれれば、私に訊いてくれれば、同じ反論や反証をするにしても、だいぶ良質な内容になるのではないか、と思ったりするわけです。
まあ、そんなの大きなお世話、とも言われそうですが。

それにしてもあの当時、コンピューターなんて無い時代に、よくもまあ、3千枚、5千枚、というアンケート用紙と睨めっこして、データ整理をしたものだと、能見正比古(B型)の熱意と労力には、ひたすら驚愕いたします。今のコンピューター時代に能見正比古が生きていたとしたら、どれだけ喜んだことだろうかと、しみじみ思うのであります。

そして最後に、ことあるごとに書いているので、しつこいですが、能見正比古の人間に対する愛情がなければ、こうした繊細な分析は出来なかったということも、今一度、付け加えておきたいと思います。



2016-11-11

血液型に対する人々の反応

ABO血液型についての日本の皆さんの反応の仕方には、いくつかのパターンがあるようです。
①「やっぱり血液型って関係あるよね」と、素直に面白がってくれる人々。
②「関係あるのかもしれないけど、血液型で決めつけられるのは嫌なんだよね」という人々。
③「迷信でしょ。科学的に証明されていないでしょ」という、科学信仰の強い人々。
④そもそもそういう事に興味が無い人々。

おそらく、①と②で7割を占めるのだと思われます。
そして②の人々が案外多いのかもしれないな、と、最近感じています。
それは分かるけど、あんまり気にしたくないんだよね、という雰囲気でしょうか。

たとえば、血液型の特徴を少し話すと、「あぁ、やっぱりそうなんでしょう」と言って、そこにはどこか、ちょっとした閉塞感が伴う雰囲気を感じます。

血液型は変えられない

と考えるので、どこか自分のオリジリティーや可能性を狭められたような気になるのでしょうね。

しかし、そうではないのだと理解して欲しいのです。
確かに血液型は特異な状況がなければ変わりません。(臓器移植など)
しかし、血液型の遺伝子というのはあくまでも素材的な要素でしかないのです。それをどのように使いこなすかはあなた次第なのです。
私たちはよく料理にたとえて説明しますが、同じ材料でもいろんな料理ができるように、あるいは、同じ料理を作っても美味しくなったり不味くなったりするように。
貴方がどのように自分を料理にするかでさまざまな個性が出来上がるのです。
美味しい料理にしたければ、素材の性質をよく知っていた方がいいに決まっています。

そして更には、素材の事を知り尽くすことで、全く新しい料理を作れることさえあります。
日本京都のお寺に伝わる精進料理などは、野菜素材だけで肉の食感やボリュームたっぷりの見事な食膳を創り出しますね。

私たちの思考や行動、個性も、工夫次第で素材の性質を超えた能力を発揮することが可能なのです。
また、そうした無限の可能性に対応出来るだけの柔軟さが、それぞれの血液型遺伝子には備わっています。

いえこれは、血液型だけのことを言っているのではありません。
私たち人間は現在のところ、30〜40%ほどしか持てる能力を使っていないと言われています。
残りは全て、今後の進化の可能性なのです。
私たち人類は、今現在も進化の過程にある事を忘れないで欲しいのです。

昔、地球は平らだと信じられていたことはご存知でしょう。
当時、地球が平らだと信じていても生きていくのには困らなかっただろうと思います。
現に今も、地球が丸いことを意識する必要性はあまり無いと言ってもいいのですから。
でも、丸いという事実が判ったことで、私たちの科学技術や意識は進化しました。
知らないより知っていた方が、やっぱり良かったと思うのです。

血液型もおなじです。
血液型を知らなくても生きていくには困りません。
けれど知らないより知っている方が、ずっといいのだということなのです。

そして、進化を考える上で更に大事なことがあります。
私たちの世代で獲得したことは、次の世代にも受け継がれるということです。
私たちひとりひとりが、自分の能力を磨くことで、その性質は次世代に受け継がれていくのです。
そして、ひとりひとりが人類全体の進化に貢献する事になります。

現代人の私たち人間は、自分が死んだら全て終わり。自分が居たって居なくたって、何も変わりもしないと、非常に自分を無力で取るに足らない存在だと信じています。
しかし、それは違います。
私たちは、ものすごくパワフルな存在であり、ひとりひとりが、無くてはならない重要な役割を持ってこの地球に生まれてきているのです。

自分を大切にして下さい。
自分を知るために、人間を理解するために、血液型の知識をぜひ、役立ててください。

2015-12-02

「ABO血液型がわかる科学」山元文一郎氏の本

生物学者の視点から、ABO血液型について書かれた本。
実は、生物学者とはいえ、ABO血液型に対しては誤解している人が多いのだけれど
さすがに専門が糖鎖に関する分子遺伝学ということで、ABO血液型遺伝子についても造詣が深い。

本書の結論から言えば、ABO遺伝子についてはまだまだ謎が多いが、興味深い面も多いとのこと。
ABO式血液型の発生順序にしても、当初の見解(A→O→B→AB)とは違うかもしれないとも言っていて、遺伝子研究もそう簡単ではなさそうだ。

また、血液型と性格の関係についても触れているが、今は明確な答えが出てはいないが、今後研究が進めば、いくつかの部分で関係性を示せるものは見つかるかもしれない、とも言っている。

もし、1つでも2つでも、性格との関係性を示せるものが見つかれば、それで充分だと思う。
おそらく、能見正比古が本に表したような複雑な人間の性格行動を、遺伝子からすべて見出すのは不可能かもしれない。

多くの学者たちが、充分に検討することもなく、血液型と気質の関係性に対して反対をしてきた中で、山元氏の誠実な見解はありがたい。

気質や行動性について云々は、フィールドワークなのだ。
これからも私たちと皆で、互いに観察しながら調べていけばいい。
それより、体と血液型の関係が、早く分かるようになって欲しい。
筋肉の違い、ホルモンバランスの違い、ストレスの違い、エネルギーの違い、etc
そういう事が解ってきたら、病気や痛みに対する対処法がもっともっと、改善するに違いないのだから。
amazon


2015-11-04

愛を理解したいなら血液型を知って損はない

恋愛は「愛の登竜門」

能見正比古は、血液型と人間の関係について、さまざまな角度から眺めて考察しました。
政治、ビジネス、子育て、夫婦の問題、男女の恋愛、人生について、スポーツ機能…。
ABO血液型は人間が関与する、あらゆる活動に関係性を認めることができるからです。

どの分野も役に立つ情報はたくさんあるのですが、日本では女性誌でよくとりあげられたせいか、男女の恋愛関係が中心になって広がった感じがあります。
そういうムードがあるからなのか、血液型のことをいうと、「女性は好きだよね」と、男性に言われることも多いのです。

「あら、そう?すると男性は愛に興味がないの?」

もし本当に興味がないとすれば、それはつまり、男性っていうのは人間のことなんて興味がないよ、と言っているようなものなのだけどな。
もちろんそれが自分たちの人間オンチを自慢しているのと同じだとは、言った本人も気付いていないのでしょうが。
男子たるもの、血液型に関心を持つのは恥ずかし、いとでも?
などと、いちゃもんをつけたくなる私。

しかしそういう私も、男性たちが時々そんな風に言うのを聞いているものだから、企業関係の講演なんかに呼ばれたときには、聴講者が男性ばかりなら、やっぱりビジネスのことを聞きたいんだろうかと、仕事に役立ちそうなことをあれこれ考えて話してしまうのです。
ところが、講演の後に食事会などに出席すると、男性陣から次々に出る質問は「いや、妻がA型なんだけどね、最近上手くいってないんだよねえ、ご機嫌とるのが大変で…」
というようなたぐいのものばかり。

だからそうでしょう?
男性も、人間のことがもう少し分かりたいと、心の奥底では思っているし、分かったら、もう少し妻と上手くやれるんじゃないかとも思っているのですよ。

とにもかくにも、血液型を軽くみるのは間違いだけど、男女の愛を軽くみてもいけません。
私たち人間の、本当の探求が何かと考えれば、それは結局「愛」なのです。
「愛」とは何かを理解し、愛を具現化したいが為に、さまざまな人生を送っているといってもいいかもしれないのだから。

もちろん、愛といっても、もっと広い意味の愛であり、男女の愛に限ったことではないのですが、愛の中でも男女の愛は、愛を知る入り口としてはとても分かりやすいのです。
そして、男女の深い愛情なら、夫婦のように長い年月をかけて学んでいくことになるのですが、その最初の出会いとなる「恋愛」は、そのまた序幕と言えるのかもしれません。

マザーテレサのように最初から人間愛に目覚めた聖者もいるかもしれませんが、多くの人々にとっては、恋愛は愛に目覚めるための登竜門になるはずです。(そうあってほしいと思います。)
あなたと私の違いを認め、認めながらお互い心を開いて、受け入れ合ったり、時を共有したり、その過程で「愛」が何かを学ぶ、とても貴重な体験。

そして血液型は人間に関心があるか無いかのリトマス試験紙のようなものでもあります。
もしもそこに、人間に関する情報が詰まっているのだとしたら?無視するの?
能見正比古は、若い女性に「どんな男性と結婚したらよいのか」と相談されたときに答えたそうです。
「血液型について話してごらんなさい。相手が何の関心も示さず、ましてやバカにするような態度だったら、その人との結婚はあまりおすすめしませんな」

それに実際、血液型の知識があることで、男女間で起こり得る行き違いの、半分は防げたり、許せたりするのです。
以前、若い女性に、血液型のちょっとした知恵を伝えたことがあります。すると彼女はさっそく試してみたのだとか。しばらくすると「すごいですね、魔法の杖を授かったみたいです」と報告してくれました。
なぜ血液型の知識が恋愛で効力を発揮するのかといえば、血液型というのが、より体質的な根っこの部分に根差しているがために、社会に出て気を張っている場面よりも、むしろ日常のちょっとしたクセや、油断している無意識の行動に表出しやすいからなのです。

ところが、この女性のように本気で実践してみうようとする人が、案外少ないのも残念な事実。たとえば雑誌などで血液型の記事を目にして、「そうそう!私の彼氏と同じやないの~」と、共感して面白がっていても、なぜかみなさん、そのあとすぐに忘れてしまうらしいのですよね。

う~ん、ここだけの話…、みんなどこか、誤解し合ったり、怒ったり、ケンカしたり、「男ってさ」「女はねえ」のゲームを、楽しんでいるのかも?
つまるところ、恋愛は「愛」の登竜門だとは言っても、そうだと意識して取り組まないなら、永遠に真の愛を学ぶことはない…ということでもあります。
(そして改めて小さな声でいいますが…恋を実らせたいなら、血液型、役に立ちますよ。


・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・
「愛」について本気で理解してみようと思うなら、こちらの本はおすすめです。

★★★「愛するということ」
エーリッヒ・フロム著

本が好き!書評
※本の読書感想を投稿しています。

2015-10-01

【研究の道のり①】血液型と気質のパイオニア古川竹二の無念

忘備録として

「血液型と性格」について、日本の社会では誤解や中傷が多々ありました。そのため、この研究がこれまでどのように行われてきたのか、どのように社会に浸透、拡散していったのかを、人々が正しく知る機会がなかったように思います。私の知る限りではありますが、研究側にいたものとして記録に残しておこうと思います。


血液型と気質(三省堂)
昭和7年1月30日初版発行
著者:古川竹二

血液型と人間の気質について、日本で最初に研究をしたのは古川竹二という教育心理学者(現在の御茶ノ水女子大)でした。
彼が研究に着手したのは昭和元年頃と思われます。
血液型の発見が1900~1901年ですから、それから20年ほど後のこととなります。

当初は、数十人の学生を対象に始まったようですが、8年後にこの本を出した時には、数百人~千人前後の調査数で行っています。(古川氏はわずか数十人のデータで分析したのだという誤報が流れていることがあります。)

研究の道のりは、非常に苦難であったことが、本の前書きを読むとよく分かります。
当時も他の学者らから、さまざまな誹謗中傷があったようです。

(以下は、上記写真の本のまえがきです。)

しかし、この本を出版する頃には、古川氏の研究賛同者も現れました。
また、当時、血液型と気質の関係について言及する学者は、古川氏以外、あるいは古川氏以前にもいたのだということも聞いています。
いずれにしても、研究成果をひとつの形で残したのが古川氏だったわけですが、パイオニア古川氏にとって最も強い支持者となってくれたのは、法医学の草分けと言われる古畑種基氏(東京大学医学部)でした。
古畑氏は、血液型の情報をいち早く日本に持ち込んだ張本人だとも言われており、ABO式血液型の日本全国分布図作成は、古畑氏を中心に行われていたのです。
古川氏にとって、非常に心強い味方ができました。

しかし、その安堵もつかの間で、支持していた古畑氏が突如として考えを覆しました。
理由は明らかです。
その頃、古畑氏の法医学に対する功績は非常に大きかったわけですが、彼は周囲から押し上げられるような形で、学会の頂点へ上り詰めようとする勢いでいたのでした。
すると、古畑氏にとっての非常に大事な時期であるがゆえ、「血液型で性格を云々~という、訳の分からない研究を支持するのはどうしたものか」と、周りから忠告を受けることになったのです。
実際、法医学会全体において、古川氏の研究に対する意見は2つに分かれていたと聞いています。

ここで、教育心理学の古川氏がなぜ法医学会なのか?と言うと、"血液型"という共通材料を扱うという点に加え、まだ日本の学問分野が(欧米諸国に比べて)発展途上だった当時、法医学会だけは大へん優れた成果を残しており、学会全体においても力を持っていた、という事情もあるからです。
とにかく、ABO式血液型の法医学的研究を日本で開花させた功績を持ち、次期トップとして押し上げられている古畑氏は、その対立を収めねばならない立場に立たされたというわけなのです。
そして古畑氏は、否定側に立つことを選択しました。
それは、鶴の一声となったのです。
その時、古川氏の研究内容は、ほとんど何の検証も行われなかったのだと、当時を知る者から伝わった話が残っていたのを聞いています。

古川氏は、即座に研究の取りやめを迫られました。
「やめなければ辞職してもらう」とまで言われたとも聞きます。
今のように簡単に独立したり職を探したりできる時代ではなく、それは一家を養う道を失うことに他ならず、諦めざるを得なかったのです。
彼は、血液型と人間の深い関わりを確信していたに違いないのです。いったいどれほど無念であったろうか。

当時はまだ、どの学問分野にしても、何もかもが、まったくの模索中であったはずなのです。それは現在も同じですが、何が正しく何が間違っているという決定を下すには、早すぎたはず。
実際、その愚かなる決定のおかげで、「血液型と性格の関係は学会で完全に否定された」という愚かなる噂が、学会中をめぐり、それ以後、血液型と性格を関連付けるような研究は全てタブー視されるようになっていったのです。
つまり「古川氏のようになってしまうぞ」という恐怖の幻想が、ずっと長く、現在に至るまで、学会にはびこるようになっていったということです。

もちろん、さまざまな当時の事情が、もっと他にもあったのかもしれません。今となっては、真実を確かめることはできませんが、古川氏の無念な気持ち、それだけは真実に違いないと思います。
------------
その後この研究に関しては、大学生たちのうわさ話程度に、断片的に人々の間に伝わるようになったと思われます。
そして、古川氏が教鞭をとっていた御茶ノ水女子大学には能見正比古の姉、幽香里さんも通学していました。幽香里さんが通っていたとき、既に古川氏は退職していたのかもしれず、古川氏の授業を受けた事実はありませんでしたが、学生たちのうわさ話は残っていたに違いありません。
そしてある日、幽香里さんは弟の能見正比古に、血液型のちょっとした話を聞かせることになります。能見正比古はまだ中学生でした。
しかし能見正比古は、その話をずっと気にして覚えていたのでした。
その後、能見正比古は、この研究を再発見することとなり、「血液型人間学」を提唱しました。古川研究の後、40年ほど経った1972年のことでした。
----------------
古川竹二…A型(自身の本より)/古畑種元…B型(自身の本より)/能見正比古…B型