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2022-06-26

【考察】神道『四魂』とABO血液型を重ねて神話のミステリーに迫る!?


ABO視点で深読みしたくなる神道の教え

神道を知る人なら、『一霊四魂』というのを聞いたことがあるでしょう。

わたしは神道に通じているわけでもなく、何年か前に本で知ったばかりなので、理解があまりに表面的で、記事にするのはためらっていたのですが、たまにこの言葉を見かけると、やはり気になる。そんなわけで、忘備録としてまとめておこうと思いました。


『一霊四魂』とは、端的にいえば字のごとく、「人には一つの霊と四つの魂がある」というもので、一つの霊とは図の円にある「直霊」という天と真っすぐつながる御霊。それは四つの魂を携えており、それらをバランスよく磨くことでよき人格を形成し、大義を成せるという教えです。江戸時代の国学者、本田親徳(ほんだちかあつ)が、提唱したといわれています。


そもそも、日本古来から伝わる概念に、相似四相というのがあります。この世のさまざまなことは四つの相で成り立っていて、四相で解釈することが重要だとして、代表的なのは東西南北、右左上下、などです。その考えのもとに、神道でいう四魂も生まれたのではないかと想像します。


ネットで四魂と検索すると、上記の画像に似たものがたくさんでてきます。それぞれ、魂についての解釈やその活用法などに多少の違いがあるようで、コレという定められた完成形があるわけではないようです。というのも、四魂の由来は、古事記や日本書紀に書かれている神々の物語りを読み解いて構築したものなので、基本概念以外は、様々な解釈ができるということなのでしょう。

各魂の基本的なところは次のようになります。

荒魂(あらみたま)
荒魂「アラミタマ」という神様の名前。
行動力、達成する力、努力、奮起、克服する力、など。
「勇」という文字で表すことができる。

和魂(にぎみたま)
和魂「ミギミタマ」という神様の名前。
調和、平和、安定、統治する力、など。
「親」という文字で表すことができる。

幸魂(さちみたま)
幸魂「サチミタマ」という神様の名前。
育成、進化、相互理解、受容、など。
「愛」という文字で表すことができる。

奇魂(くしみたま)
奇魂「クシミタマ」という神様の名前。
探究、観察、真理、叡智、など。
「智」という文字で表すことができる。


それで、なぜここに血液型を関連づけたいかといえば、まずはABO血液型も、相似四相に違いないからです。そしてまた、四つの魂の特徴が、ピッタリ同じとはいわないまでも、どこか各血液型の気質に重なるところがあるからです。

各タイプの基本気質を以下に示します。

O型の基本気質
生命力(バイタリティ)がある。目的達成力がある。理想を掲げ、目的を達成するための努力は惜しまない。

A型の基本気質
調和を大事に考え協調性がある。安定を好み守りに強い。秩序を重視し、組織力が高い。

B型基本気質
興味を持ったことに対する探究心が非常に強い。物事や事象の観察力に長けている。科学的客観性を重視する。

AB型基本気質
平和主義。物事の公平性を重視する。バランス感覚に優れ、相互理解、調和をはかることに長ける。

これを四魂に重ねてみると、O型は「荒魂」、A型は「和魂」、B型は「奇魂」、AB型は「幸魂」と、おおよそ合致させることができるのです。

また、ABO血液型の場合、各タイプによって、その役割が分担されていることになりますが、しかしだからといって、他のタイプの特性を持ち合わせていないというわけではありません。どの血液型の人も、上記にあげたすべての特性を内在させており、表出させることはできるのであって、ただその度合い、他と比較して抜きんでて目立つところを、4タイプの特徴として分類しているのです。

一方の「四魂」の考えで説明すると、一人の中には、そもそもこの四つの魂の特性があるが、そのどれを強く発揮するかによって、その人の全体的な性格を見ることができるというものです。

なんだか結局、観方が異なるだけで、同じことを言っているように思います。四魂の方は、それを「御霊」「魂」、あるいは「神」と捉えて語り、ABO血液型は、それを「遺伝子」「糖鎖物質」と、サイエンス的に捉えて語っているのです。


それってABO血液型の発生のこと?

この、不思議な関連性をみると、ついつい深追いしたくなるのは人情かもしれません。ではそもそも、その四魂を表す”神”が、どこからやってきたものなのか、古代文書の解説から、わたしなりに読み解いてみようと思います。

その由来は、日本国を創ったとされている「大国主命(オオクニヌシノミコト)」が始まりといいます。

大国主命は最初、天の主から、少彦名命(すくなひこなのみこと)の二人で、地上建設を命じられました。2人は、国づくりの仕事に励みます。この2神が、「荒魂」と「和魂」だと考えられます。ところが途中、少彦名命がお亡くなりになり、「黄泉の国」へ帰ってしまいます。大国主命が落胆していると、光の玉が現れて、「幸魂」と「奇魂」を与えられます。その2つの魂の光は、大国主命の中に入ったと記述されています。

これをABO血液型に当てはめてみると、「最初に「荒魂」(O型)と「和魂」(A型)がありましたとさ。そして「奇魂」(B型)と「幸魂」(AB型)が生まれましたとさ」となります。

面白いことに、血液型の発生順序にもうまく合致しています。ABO血液型も、最初はO型、A型です。O型が先かA型が先か、という点については多少の論争があり、いまだに遺伝子学的には判明していません。(わたしの考えでは、その性質、あるいは世界の血液型分布などからみて、O型が先であったと予測していますが。)次に発生したのはB型です。そしてB型があって、はじめてA型とB型の交流によりAB型が生まれることになります。

「一霊四魂」の考え方とは、まず生きるに必要なのが「荒魂」であり、それとともに「和魂」という和の精神が大事であり、次には「奇魂」によって探究し智を磨くことが必要であるとし、最後はそれら相互理解によって統合させるべく、「幸魂」によって愛をもたらすべきである、というものです。

この概念もまた、ABO血液型に通じるところが大いにあるわけです。血液型人間学の視点でいうなら、各血液型は社会や人類が成熟する過程において、それぞれに重要な役割があるのです。

お断りしておくと、ABO血液型物質それ自体は、地球上に生物が発生したずいぶん初期の段階から、動植物に既に存在していたと考えられています。しかしその遺伝物質が、人間の体内にも入り込み、そしてそれが、人間の体質や気質に影響を及ぼすような現在の形に進化したのは、ずいぶん後になってのことだと予測します。すると、日本神話にある神代の時代、つまり数十万年~数万年前が、「人間におけるABO血液型の発生」と見ることもできるわけです。

ここで考えたいのは、古事記や日本書紀に書かれている日本の神話というのは、単なる神々の物語りではなく、そこには地球創生、人類誕生、あるいは物理法則の真実が、随所に盛り込まれている可能性があるということです。

また、こうした古代文献には、さまざまな神が登場しますが、その”〇〇神”というのは、”ひとりの神”ではなく、言ってみれば、役職名のようなものである、と指摘する研究者もいます。たとえば「大国主命」という役職があり、それを仰せつかった存在が、世代交代しながら数名ないし数十名いたのでは?ということです。日本の各地に、似たような名で、似たような活躍をした神々がたくさん散らばっているのも、そう考えるなら納得できます。

そうだと仮定すると、「四魂」とは、一つの霊に与えられた四つの魂というより、4種類の特性を持った神々(人々)が、この世界創造を完成させるため、必要に応じて、順次現れたと考えることもできます。それが、ABO血液型遺伝子物質のことであったとしたら、それは非常に興味深いわけです。

ついでに加えると、なぜ当初、少彦名命は黄泉の国へ帰ってしまった(死んでしまった)のか、ちょっと気になります。その理由が書かれていないので何ともいえませんが、つくり話なら、ここで突然、少彦彦名命を死なせてしまうのは、かえって話を不自然にしてしまうだけなので、やはり何らかの事実を示しているのだろうと思われます。

それをABO血液型に関連付けるのは、少々深読みしすぎかもしれませんが、ABO血液型には、遺伝子学者も説明できないなぞがあるのです。それはO型の塩基配列ですが、O型の塩基配列は、あるところで突然フレームシフトを起こしている箇所があり、それによって、その先が不活性となり、よってO型は、H型という、全血液型の土台の部分しか活性していない形になっています。

O型遺伝子に、いったい何が起こったのか?もともとは活性していたかもしれないその部分を、何かの理由で、その活性を失わせなければならなくなったのだろうか?しかも、その失われた部分というのは、A型の塩基配列に非常によく似ているというのも、興味深いところです。しかしそれらは、いまだになぞのままです。このO型遺伝子のなぞの部分が、少彦名命の突然の死と関係あるのでは?と想像してしまうのは、だいぶ飛躍しすぎかもしれませんが…。


以上が、わたしの妄想からはじまった、日本神話とABO血液型のミステリーでありました!最後までお読みくださったあなたに、感謝を申し上げます。



2022-06-19

血液型分布をみればわかる~この40年、日本の政治は激変した!

 

派閥政治からの脱却は、日本の政治に何をもたらしたのか?


はじめに、ヘンな言いわけをさせていただきますと、社会性に乏しいうえに、政治オンチのわたしが、最近、政治についてときどき触れて、生意気なことを書いていることについて、わたし自身、ほんとうに申し訳ない気持ちでいるのです。「そうなら書くなよ!」ということなのですが、「血液型人間学」という研究をしていると、どうしても、データや社会動向を見なければならない状況が生じ、それらについて、オンチなりにも理解しておかなければならない、という事情があるのです。

ですので、ここに書かれていることは、あるひとつの見方、あるいは珍しい考え、というぐらいに思ってくださればと思います。ただもちろん、そうした珍しい考えが、数十年後には、「なるほど」ということになっていることもあるので、そのへんは、寛大にみていてくだされば、幸いに思います。

本題に入りますと、日本の政治が大きく変化した時期があります。といっても、日本の歴史は長いので、ここでは戦後の政治ということになりますが、よく言われることは、それまで日本独特の政治体制であった派閥政治からの脱却というものでしょう。

その予兆は、高度成長期を終える頃から、徐々に見え始めていましたが、2000年代に入ると、ますます”派閥”の悪影響に対する批判が強まるようになり、小泉内閣の頃には、「派閥をぶっ潰す!」と小泉首相が旗を振ったことをきっかけに、それは拍車をかけたといえそうです。

当時の小泉首相が、具体的に何を目指していたかといえば、主には「○○民営化」。そうしたしくみの大改革をするにあたって、日本の”派閥政治”が、大きな壁になっていたのでしょう。そして世論の多くも、果たして小泉内閣の政策がどういう結果をもたらすか、まではわからずとも、それに賛同したのだと記憶します。

では、こうした流れの中で、国会議員(ここでは衆議院議員のみ)の血液型分布は変化したのでしょうか。

(日本人の血液型分布 O=30.7%|A=38.1%|B=21.8%|AB=9.4%)

■1978年に調査した衆議院議員の血液型分布
O型(36.0% )A型(30.9%)|B型(18.3%)|AB型(14.8%)
■2003年に調査した衆議院議員の血液型分布
O型(29.6% )|A型(34.4%)|B型(23.1%)|AB型(12.9%)
■2017年に調査した衆議院議員の血液型分布
O型(25.5% )|A型(38.5%)|B型(24.8%)|AB型(11.2%)    

なんと見事に、その移り変わりがわかります。戦後の派閥政治が盛んな時代は、日本人平均に比較すると、O型とAB型が多く、A型とB型が少なかったのですが、現在は、その勢力図が、逆転している形になっています。

この40年あまりの衆議院議員血液型分布の推移については、研究会メンバーの著書、『デジタル時代の「血液型と性格」(金澤正由樹)』に、その鮮やかな推移が詳しく書いてあります。金澤氏によると、石油ショックやリーマンショックなどの大きな世界的経済状況の変動が影響し、この逆転現象に拍車をかけていると推測しています。


なぜ血液型分布が激変したのか?


では、血液型分布のこの推移は、何を意味するのでしょう?わたしは国会内部に精通しているわけでもありませんし、そもそも政治オンチ。分析がどこまで正しいかは分からないのですが、研究会などで談義した内容などもふまえれば、”政策”を掲げる選挙活動が活発化した結果だろうというものです。2000年代には、”マニフェスト”というカタカナ言葉も頻繁にきくようになりました。

時代の流れと共に、派閥政治のマイナス面が浮上しはじめ、同時に、マニフェストが論点となってきたのは間違いないでしょう。現在の選挙活動の内容をみていても、「政策は何か?」と問うのが、当たり前のようになっています。

マニフェスト(公約の政策)を掲げなければならない、となると、やはりA型の強みが生かされます。A型の理路整然とした思考性や説得力のある説明が、人々に理解しやすい形で伝わります。また派閥というのは、国民に見えないところでヒソヒソと行われる、何やら怪しいイメージがつきまとっていたわけで、A型の清々し誠実な雰囲気もまた、評価されやすくなったのではないでしょうか。

B型が増えているのも、やはり政策重視の流れに乗っていると考えます。B型は、常にアイディアを持っている人たちなのです。政治に関心のあるB型であるなら、こんな政策、あんな政策を、いくらでも掲げることができるでしょう。それにB型は、なかなかの人情派。B型のその気さくさで、地域の人々と親しくなるのは、どの血液型より秀でているのです。

前回の衆院選では落選してしまったようですが、立憲民主党の顔でもあった辻元清美さん。辻元さんはB型ですが、こんな話を聞いたことがあります。
「いろいろ批判されていても、地元のオジチャン、オバチャンたちからは、とても愛されているキャラなんだよ」
なるほど。そのへんは、かつての田中角栄さんや、小沢一郎さん、二階俊博さんなども、似たようなB型ではないでしょうか。

一方、O型が、見事な下降線を描いているのはどういうことでしょう。O型はそもそも、自分の生活利益に直接関わる政治に対して、関心の高い人が多いのです。過去には、そうした政治意識の高さが、シンプルに議員の血液型分布に反映されていたのだと思います。ところが、「政策が~」「清廉潔白さが~」などと、やたらにスマートさが歓迎されるようになってくると、どうもやりにくくなってきたのかもしれません。そういうと、O型がスマートでないような物言いになってしまい申し訳ないのですが、A型の絵にかいたような”誠実さぶり”と比較すれば、やはりその点、A型に分があるかなと思います。

そしてまた、O型は、まずは派閥のような小さなグループで、仲間との信頼関係を育み、師弟関係を結び、そうした集団の力を上手に使いながら上り詰めていくことを得意とするのです。派閥の力が弱まるにつれ、O型の拠り所は危ういものとなり、結局、生き残れなくなるO型が多くなったのかもしれません。

AB型については、減ってきているとはいえ、まだ日本人平均以上はいるわけです。周囲の状況が変化しても、それなりに立ちまわれるAB型の器用さが、O型のような極端な減り方をしないのかもしれません。それにそもそも、集団密着度の薄いAB型の場合、派閥政治が向いていたわけではないのでしょう。能見正比古の分析のとおり、派閥の端っこにいることで、調整役としての役割を果たしてきたのだと思います。


派閥の弱体化は、日本国民の要望だったのだろうか?それとも外圧だったのだろうか?


派閥政治に、政策がなかったということではありません。しかし派閥が重視された時代は、自民党という巨大政党の中で、更にあるリーダーの人間力や理念に共鳴し、仲間意識と強い結束力のもとで、いくつかのグループが形成されていたのです。自民党という党内の政策としては、ある程度の統一性があるのであって、その中で力を持った派閥が全体を仕切ることで、政策の進め方がやや異なってくる、というものではなかったでしょうか。しかしそれは徐々に、”古めかしいもの”という印象を、国民に与えていくようになりました。

ふりかえって、「日本の政治は日本人のためにあるもの」というのは、ふつうの感覚では当然のことのようですが、現実には、日本の政治や経済が、世界の動向と無関係でいられるはずはありません。金澤氏の分析のとおり、石油ショック以降、世界はグローバル社会へ徐々に進みながら、2000年代のIT革命時代に突入し、グローバル化の勢いは強まり続けたのでした。

経済的には先進国でも、米国に従わざるを得ない日本の微妙な立場を考えれば、なおのこと、(欧米主導の)世界の流れに、逆らうことなど不可能というものでしょう。だとすれば結局、日本の派閥政治解体の流れというのは、国民の要望というより、外圧だった可能性の方が高くなってきます。

だとすれば、もし日本国民が、最近までの政治体制の変革を、真に熱望したのではなかったのだとすれば、わたしたち国民は、日本にとってのより良い政治の在り方とはどんなものか?ということを、再考しなければならない時期にきているのかもしれません。


日本の政治のゆくえ


個人が自分の主張を強く持たない日本の風土においては、派閥政治は案外、うまく働いていたしくみかもしれないという気もします。個人の主張が強くないとはいっても、やはりいろいろな考え方、いろいろな信念があります。それこそ日本は、血液型にしても欧米諸国と違って4タイプがせめぎ合っているのですから、”イロイロ”というなら、欧米諸国よりバラエティーに富んでいるともいえるのです。

この、「個々の自己主張は強くないけど、実はイロイロいる」という、日本独特の状況を、上手くとりまとめていたのが派閥だったようにも思えます。親分がまとめてくれるなら、オヤジがそういうなら、アニキにならどこまでもついていくよ、という、義理と人情の任侠的仲間意識は、派閥のような小さな集団でなければ生まれないでしょう。そしてそうした信頼関係に裏付けられたなかにいるとき、人は自我や我欲を薄めることができるのではないでしょうか。

まあしかし、今更、派閥政治に戻した方がいいというわけではありませんし、そうしようにも、今の時代には不可能でしょう。これはわたしが女性だから遠慮なくいえるのですが、女性議員がどんどん参加するようになった時点で、派閥政治は崩壊する運命にあったと言っていいかもしれないのです。女性はその資質上、任侠的な仲間意識には不向きなのですから。

とにかく、血液型パワーバランスが、この40年で激変しているのは間違いないことで、それが日本の政治にどう影響しているのかは、考察する必要がありそうです。政策重視の政治に変わることで、たとえ外圧があったにせよ、結果的に政治がうまく機能しているなら、それはそれでいいのでしょう。ところが、「政策」「政策が大事」と、叫んできたわりに、その結果はいかに。どうみても、少なくもこの30年間、日本の経済や暮らしが良くなったと思えることなど何ひとつもないのです。

結局のところ、政策を掲げたところで、果たしてそれは、国会で実現してきたのでしょうか。振り返ってみれば、前述したように、派閥解体の旗を挙げてその先陣をきったともいえる小泉首相のときには、それがたとえ強引すぎたとはいえ、政策を実現させたといえるかもしれません。そういう意味では、さすが小泉さんは「実行力のA」ともいえます。もちろん、小泉内閣の政策が、良かったのか悪かったのかは、ここでは論じないことにしますが。

しかしその後の日本の政治は、ほとんど機能不全に陥っているのではないでしょうか。A型が多くなると、既に定められた指針のある、安定した状況下では、非常に協調的で統一性のとれた組織運営になると考えられます。ところが、現在のような大変化の状況下では、逆に分裂することの方が多くなりそうです。A型どうしの強い信念や理念が衝突するからです。そういうときのA型がやっかいなのは、そうした反目が水面下で行われるため、表に出にくく、とにかく、はたから見ていると、グダグダと、無意味に時間がかかってしまうのです。

しかし、わたしがもっと憂慮するのは、やはりO型が少なすぎることです。O型が少ないということは、その組織に活気が失われていくことに直結します。A型と対照的な性質のB型の存在があることで、議論は活発になったとしても、何かを押し進めるのに必要になってくるエネルギーが、どうしても不足気味になるのです。今日の日本において、O型が元気がないのは、もしかしたら政治の世界だけではないかもしれません。それについては、ここでは深ぼりしませんが、とにもかくにも、今の日本の政界が不健全なのは、血液型分布をみても、よ~くわかるということなのです。

では、どんな政治なら良いのだろう。わたしには、その答えはわかりません。けれど、どのように社会を批判しようとも、それらを創っているのは、わたしたちひとりひとりであり、そしてその集合意識の結果が、目の前のカタチになって現れているのだと、わたしは考えています。

そろそろ参議院選挙も近づいてきました。ひとりひとりが、これからどのような意識で動いていくのか、それぞれが自分の舵取りをする、良い節目なのかもしれません。


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愛を込めて。




2022-06-13

血液型を活用する3つのポイント



能見正比古は、1971年に記念すべき「血液型でわかる相性」を出版した後、1973年に「血液型人間学」という2冊目の著書を出版しました。そしてこのタイトルの通り「血液型人間学」を新しい学問として世に提唱したのでした。その後は、「血液型活用学」「血液型愛情学」「血液型政治学」・・・など、各テーマに沿って主要な書籍を全部で12冊ほど世に送り出しました。

これらの書籍を熟読すれば、人生のさまざまな側面に応じた血液型活用法が、およそのところは理解できます。そしてもちろん、どう活用するかはその人の工夫次第なので、中には素晴らしい活用法を実践してきた方もいると思うのですが、多くは、その中身の濃さ程には、活用できていないという事実もあります。

あるいはこれは血液型人間学だけでなく、世にあるノウハウ本の全てに共通するかもしれないですが、頭で理解したのと同じようには、自分のリアルな生活に活かせないというのがあるようなのです。
そんなことで、ではどうしたら本当の意味で活用できるのだろうか?というのを私自身の経験も踏まえながら考えてみました。それには大きく3つのポイントがあります。

●ポイント1

人間を理解する姿勢

これは最も重要だけど最も難しいともいえます。そもそも血液型ありきではなく、人間ありきでの血液型なのですから、たとえ血液型の特徴だけ知り尽くしたところで、人間そのもに寄り添う気持ちがなければ使い道を誤る可能性もあります。

ただしここでの問題は、そもそも私たち人類が、どこまで自分たち人間のことを理解できているのか?というところもあります。
まあ、ですから、今の私たちに出来ることは、「理解しよう」「理解したい」という、人間に対する興味と関心を真摯に、純粋に向ける姿勢が大切なのだと思います。

●ポイント2

ディスカッションする

人間の行動や思考、あるいは心の動きについては、デリケートな面があり、なかなか自由な発言が出来ないという現状があります。
血液型についても、下手に口走ると誰かを傷つけるかも?うさんくさい(と信じている人も居るので)事に関心がある人だと思われるかも?というように、躊躇してしまうこともしばしばあります。

実は私はこれまで、「自分の中で静かに活用するのが賢い使い方です」と言ってきたのですが、むろん、それはひとつの側面では正しいのです。けれど、自分の中だけで納得してしまうと、間違った認識かどうかを確認することが出来なくなります。それが血液型特有の特徴なのか、その人固有の特徴なのか(また別の働きなのか)を見分ける微妙なラインも多く存在するからです。

するとやはり、意見を交換する場がどうしても必要になります。それは当然、血液型人間学を学びたいという同じ気持ちを持った人たちと交流するのが良いでしょう。そして血液型人間学の場合、他の人たちとディスカッションする中で、「あ、そうか!」と気づくことが実に多いのです。

●ポイント3

気長にじっくり学ぶ

ある程度、血液型で人間を観察し始めると、ちょっと分かったような気分になります。
「B型ってこうなのよ」「あ~、A型だと思ったわ、やっぱり」みたいな感じで。
おしていつの間にか、自分独自の枠組み(カテゴリー)を構築してしまうのです。人間の脳って、そういう風にできているんでしょうね。

ところが、8割がたはその枠に収まるかもしれませんが、収まらないこともままあります。
何年経っても、「あ、こういうA型さんもいるんだなあ…」というような場面に出くわすのです。

固定観念をつくらない為に、こうした人間に関する学びは永遠に終わらない、ということを悟る必要があります。それに「人間」という、流動的で変化に富んだ存在を対象にする場合、正解は無いようなものでもあります。気長に、柔軟に、学ぶ姿勢がとても大切なのです。



「血液型人間学」が、人類の連帯と、人間愛を育むための学びになりますよう、心から願います。

2021-11-30

量子の世界が始まるときABO血液型アンテナの働きも見えてくる


見えない世界を意識する時代へ


最近、ある本を読んで、"細胞のアンテナ"という意味について、改めて考えてみようと思いました。

その本とは、『思考が物質に変わる時』/ドーソン・チャーチ著/ダイヤモンド社(原題:Mind to Matter/Dawson Church)というものです。出版されたのは2018年(米国)で、日本語に翻訳出版されたのは2019年。

著者のドーソン・チャーチ氏は、神経外科医に学び、エネルギー療法の研究開発や、健康・心理などに関する本を出版し、どちらかといえばスピリチュアル方面で活動しています。”スピリチュアル”というと、その言葉だけで敬遠する人がいるのは知っていますが、もはやそうした見えないものを無視し続ける時代は、終わりを告げるかもしれないのです。

本書は、”エネルギー”や”フィールド”、”波動”など、物質的観点からは理解し難い現象や治療法について語っていて、多くのエビデンスも紹介されているのですが、それでも今のところ、『似非科学』というふうに分類されてしまうのだろう、とは思います。

ただし、ここで語られている多くの現象は、量子物理学的には否定できないものばかりです。現在、「量子コンピューター」というのをよく耳にすると思いますが、それは、ごく近い将来、今の私たちには想像もできないような技術が、私たちの生活に取り込まれるということです。量子の世界は、これまでの理論が通用しない世界です。たとえば、時間や空間に縛られない世界。

おそらくそれは、人々がインターネットやスマホを手にするようになった技術革命とは、レベルの異なる領域です。これまでのように、「それはコンピューターの中のことでしょう」「それはごくごく微小な世界のことでしょう」、「だから私たちには関係ない」とは、言っていられなくなるに違いありません。

そういう時代が間近に迫ってきているのを感じながら、ABO血液型について、再検討してみる必要があると思ったのです。ABO血液型は、細胞の表面にある糖物質で、『糖鎖』と呼ばれるもの。糖鎖が”細胞のアンテナ”だということは、今ではもう、細胞や糖鎖の研究をしている人たちの共通認識となっているようです。アンテナだとすれば、いったいどのような仕組みで情報をキャッチしているのだろうか?

本書によれば、人には磁場のようなエネルギーフィールドがあり、たとえば思考するだけで、その性質がある種のエネルギー情報として周囲に伝達されるといいます。それは数メートルにも及び、それだけでなく、数百キロも離れた誰かにさえ、そのエネルギーを送ることができるというのです。

今の私たちの意識では、にわかに信じがたいことではありますが、量子物理学の世界では、そうした事実が既に証明されてもいるのです。先ほども書いたように、量子の世界は時間と空間の制約を受けないのです。


ABO血液型アンテナは何をキャッチしているのか?

それはさておき、少なくも、そうであるなら、細胞表面に無数にあるアンテナが、何かを受信していると考えるのは突拍子もないことではないでしょう。そしてそれは、A型アンテナ、B型アンテナ、O型アンテナ、というふうに、異なる物質によるアンテナを持っているのです。

体の内部、胃や腸の中なら、糖鎖の受容体が体内に入ってきた物質に反応するので、物理的にそれが行われていることが分かります。では、体の表面ではどのようなことが起こっているのでしょう。目には見えない空間の、”何か”を受容している可能性はあるでしょうか。

数年前、ポーランドからメールが届きました。そのラボは抗体に関する研究を行っているとのことで、興味深い内容を教えてくれました。

それによると、O型の人が居る部屋に、A型の人が入室しただけで、O型の人のA型抗体が増加したというのです。そのラボでは、人の発汗を感知したのではないか?という結論を出していたようですが、しかし、目には見えないエネルギーフィールドというのを信じるなら、O型の人の細胞表面糖鎖が、A型物質から発散される特有のエネルギーを感知するのは不思議ではありません。

研究会メンバーのひとりは、幼稚園児の頃、すでに血液型の違いに対する感受性を持っていたといいます。もちろん誰からも血液型の話など聞いたことはなく、ただ単に幼稚園の仲間たちを眺めていて、「自分とは異なる種類の子たちがいる」と、直感的に感じ取ったというのです。能見正比古はその数年後に本を出し、中学生頃になってそれを読むことになり、そして自分が幼い頃感じた異質感にようやく納得したのだそうです。

子どもの感受性が大人の数倍強いことは、誰もが理解していることでしょう。同じ場、同じ状況、同じ体験をしていても、アンテナの受信機能が異なれば、異なる感じ方をするのはしごく当然のこと。しかし今のところ、「抗原・抗体」という視点でしか説明することはできないのかもしれません。

ポーランドの実験が事実だとするなら、O型(H型)抗原しかもたないO型の人は、A型物質とB型物質に反応するわけで、それらが体内に物理的に侵入しなくても感知し、抗体を作り始めたことになります。するとA型やB型、加えてAB型が存在する場に居るとき、O型の人の体内は、何とも忙しいことになっていると予測できます。


OとABの対照性と矛盾点

O型の人が、日常生活では他のタイプに比べてもずいぶんおっとりとしているのに、なぜか人間関係だけには細かい神経を使っているようだと、能見正比古は分析しました。その理由を、O型の力関係への敏感さ、あるいは敵か味方かという本能的な習性、というふうな説をたてていましたが、その大元の原因が『抗体・抗原』にあるのだとすれば、もっとシンプルに説明できそうです。

他のタイプと出会うと同時に、抗体を作り出すのだとすれば、それはつまり、体は警戒態勢に入っているといえます。それが自分に害を与えるものなのか、そうではないのか…。体は神経質にならざるを得ないのです。O型は、O型同士でいるとき、もっとも自然体でいられるのかもしれません。O型が多い国のO型たちを見ていると、喧嘩こそしているものの、笑い声の絶えない、常に大らかな雰囲気に包まれているのです。

だからといってO型同士でいるのが良いと言っているわけではありません。異なるものを受け入れることは、自分の成長やコミュニティの発展に必要不可欠だからです。人間は、お互いの相互作用があってこそ、意味のある人生を送れるに違いないのですから。

さて、もうひとつの例として、O型とは対照的なAB型について考えてみます。AB型は、A型抗原も、B型抗原も、そして量は少ないながらH型抗原も持っています。すると、異なるタイプと同じ場に居たとしても、体の中ではさして何も起こっていないことになります。

ところが、ここで相反する興味深い現象があります。O型は、人に警戒心を持つ一方で、仲間意識は非常に強く、仲間との親密な関係を求め、人に対して解放的でもあるのです。ところがAB型は、仲間づくりにはさして積極的ではなく、むしろ距離を置いた人間関係を好みます。しかしAB型は、他のどのタイプより公平性に秀でていて、多様性を受け入れる感性を持ち合わせてもいるのです。

この矛盾をどう説明すればよいのやら。無理やり理屈で説明することは可能かもしれませんが、今の段階では保留にしておきたいと思います。人間は、やはりもっと複雑なのです。ただし、こうした複雑性と矛盾性の中に、ある種の法則のようなものがあるのも確かなことだと、付け加えておきたく思います。

いずれにしても、このように、フィールドやエネルギーといった、今までは語ることをタブー視されていた視点からも、仮説を立てていくことができる時代に、今後は進んでいくのではないでしょうか。まだまだ人間の探究は続きます。


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2021-05-20

自分軸で生きるために「血液型人間学」の意義を再認識してみよう


「血液型人間学」は役に立つのか?


現在、血液型のそれぞれの特性については、能見正比古が集中的に行った並々ならぬ努力によって、ある程度のところが分ったと言ってもよいと思っています。

とはいえ、それを学者たちに認めさせようとするとき、血液型と人間行動の因果関係における、生物科学的な決定的証拠となるようものが、まだ見つかっていないと言われればそうかもしれません。しかしそうしたことは、血液型に始まったことではないのです。私たちの”意識”にしたって、それがどのようなしくみで発生しているかは、いまだ現代科学で解き明かすことはできていないし、脳の働きについても、心臓が動くしくみについても、実は全てを分かっているわけではないのです。

人間が今の段階で出来ることは、少なくも現象として明らかになっていることを整理分類し、少しでも役立つものなら、人間の活動に役立てることでしょう。

こう説明すると、更には次のような質問がかえってくることがよくあります。
「血液型にそれぞれの特性があるというのは分かりましたよ。しかし実際のところ、どんなふうに役立つというのですか?」

それは、この血液型人間学に馴染んだことのない人にとっては、あたりまえの素朴な質問かもしれません。そういう方に、どのように分りやすく説明すればよいのか――。私自身が今一度、今の社会を鑑みながら整理しておきたいと思います。


分類することは悪なのか?


2000年の始め頃、血液型の話題がメディアを通して再び沸騰することがありました。すると、その流れを押しとどめようとする反発が、知識人たちを中心におこりました。このとき特徴的だったのは、血液型と人間行動の関係性についてはもはや全否定できないと分かったからなのか、論点はそこではなく、人間を『分類』することへの抵抗でした。国連では、「人間をいかなる方法(特にジャンダーなどの生まれながらに変えられないものに対して)でも分類してはならない」という人権法が設けられた頃でもありました。

そもそも、こうした基準などを制定することは、逆にやっかいな問題を引き起こしかねないというのは、現在の米国の状況を見ればわかります。米国バイデン大統領は就任直後、ジェンダーフリーに関わる法令を発しましたが、たとえば男女別のトイレはもはや必要ないし、肉体が男性であっても女性の心であるトランスジェンダーは、女性として女子のスポーツチームに参加できたりするというのです。果たしてそれは、社会にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。

とにかく世界は、21世紀に足を踏み入れたとたん、どうも的外れな方向へ向かっていたようです。我々が提唱する血液型人間学に対する強い批判というのも、おそらくこの流れに乗ったものだったということが、今振り返ると見えてくるのです。反論者のとある知識人は、「血液型というのは、生まれながら持っていて変えられないものでしょ。そういうのを言ったらだめなんだよ」と、まさに先の人権法に準拠するようなことを発言していました。

しかし、本当に、分類することは”悪”なのでしょうか。科学者なら、決してそうは言えないはず。科学とは、森羅万象のあらゆる現象を観察し、分類することから始まっていくからです。一見、雑多で混沌としている状態を、一旦分類し、整理することで、さまざまな知識や知恵を得てきたのです。「分類すること」は、我々人類が知の探究をする限り、必要不可欠なことです。

「分類」と「差別」は、本来は別々に扱いたいところです。しかし、あえてこの2つの行為を組み合わせてみるとするなら、それぞれをどう感じるでしょうか?

①「分類」しないで「差別」する
②「分類」して「差別」する
上の2つは、いずれにしても「差別」するわけで、それはやはりするべきでないと感じます。

③「分類」しない「差別」しない
おそらく人権法や血液型人間学に反発する知識人たちは、この考えなのでしょう。一見、よさそうにも思えますが、米国を例にしたように、それは混乱を促し、むしろ新たな分断を引き起こす要因になりはしないでしょうか。

④「分類」して「差別」しない
私たちは、これを推進していることになります。もしかしたら、「分類しても差別しない」という取り組みは、今の人類社会では、まだ少しハードルが高いのかもしれません。しかし、私たち人類が、今よりも成長し進化したいのであれば、これを目指すべきだと思うのです。

そして加えていうなら、③のケースは、私たちの思考を止め、進化を拒むことにはならないかと、今一度考える必要があるのではないでしょうか。

地球上の自然界は、実に多様性に富んだ世界ですが、そうした多様性の中には、ある一定の整列や秩序があることも分かります。それを発見したとき、人間はその美しさをより深く感じて感動してきました。ヒトもまた、ひとりひとり異なる個性の多様性の中にあって、自然の秩序に準じたいくつかの色があるのも事実なのです。


「許す」ことは「理解する」こと


「血液型人間学」を活用してくださる人たちに尋ねると、まず何が良かったかといえば、人との付き合いが楽になった、楽しくなったといいます。それは特に、夫婦などの日常を共にする密接な関係性で、効力を発揮するといいます。

私たち人間は、全て自分を通して外部を認識しています。つまり自分を基準にしか考えられないという大前提があります。もちろん大局的には、ある社会の教育や規範の中で育っていくので、そこで身に付く共通のモラルや認識というのがありますが、しかしそれさえも、自分の感受性で受け取っているものであり、それは兄弟姉妹や親子でさえ、ひとりひとり異なるのです。

私は子どもの頃、3つ離れた姉と本の貸し借りをして、その本に対する感想を言い合ったりしたのですが、同じ本を読んでいるというのに、こんなに受け止め方が違うものかと、子どもながらに不思議に思ったものでした。

そういうわけなので、私たちが人と接するとき、相手の言動に対してどうしても自分の価値判断で見てしまいがちになります。しかし、そこに『血液型』というフィルターのようなめがねを媒介させてみます。このフィルターは、対象を曇らせるような種類のものではなく、色弱者のためのサングラスのようなものです。

もともと人間力、人間観察に優れた人なら、血液型めがねなど必要ないのかもしれませんが、しかしながらそういう人物は少ないのです。凡人の私たちは、この媒介を通すことで、そこには自分とは異なる思考行動原理で活動する人々がいることに気づかされます。

私が「血液型人間学」を学び伝えながら確信したことは、人は、理解することで寛容になるということです。人間は、知らないこと、理解できないことに直面すると、一種の恐怖を覚えます。つまり恐怖心がさまざまな攻撃につながっていくのです。ところが、相手の不可解な言動の理由をちょっとでも理解することで、にわかに寛容になれるのです。

B型男性と結婚して数十年になるというA型女性は、B型の夫にだいぶ辟易していたのですが、彼女がB型性を理解した後にしみじみ言いました。
「私は彼を心から好きになることはないかもしれませんが、許すことはできるようになりました」

「許す」という行為は、「理解する」ことでもあるのです。

また、人間関係においては、トラブルや衝突が生じたときほど、役に立つといえます。普段、仲が良いと思っている相手でも、それは案外、表面的な面しか接していないことも多いのです。人間というのは自分を基準にしてしか外部を認識できないわけだから、相手に対しても、自分と共感する部分だけを見て納得していることがままあります。スムーズに進んでいるときはいいのですが、何かのきっかけで、自分には理解しがたい面を見せられることがあります。そんな時にトラブルが発生するのでしょう。そういうときこそ、「血液型人間学」の出番があるというものです。

ただし、この血液型めがねを通した見方というのが『理解する』ことに大きな効果があるのはたしかでも、かといって、そう簡単に血液型人間学の理論が身に付くかというと、実はそうではありません。正直にいうと、やはり、それなりの月日と実践経験が必要なのです。つまり、本を読んだだけでは、活用しきれないのです。

まあしかし、『理解』とまで及ばなくても、「人間を客観的に観察する」という行為なら、すぐにでも実践できるはずで、ほとんどの人が、その利を得るに違いありません。

人々が、なぜささいなことを発端に衝突し、ネガティブな方向へ向かってしまうのかといえば、それは、同じ環の中にどっぷり浸かってしまうからです。それは人間の思考の特徴でもあるのですが、ネガティブな思考はループする性質があるのです。"Negatibu"には、消極性、進化したくない、という意味が含まれているのですが、今ある状態を繰り返すことを良しとする思考でもあのです。

ですから、物事をよりポジティブな方向にシフトさせたいなら、その環の中から出る必要があります。血液型を通して観察することは、そうした人間関係のネガティブなループから一歩外へ出て、客観的な視点を持つことを助けることになります。


自分自身を知ることの意義


「血液型人間学」を人付き合いに生かすことは、興味さえ持てば、比較的簡単に取り組めることだと思います。それに、これまで何気なく眺めていた周囲の人々を、違った視点で見ることは、思った以上に面白く、人間の知的好奇心をくすぐるのです。

ところが、これを自分に当てはめようとしたとたん、そのフィルター機能が上手く働かなくなってしまうことがあります。自分の言動や思考の特徴を客観的に眺めることが、どれだけ難しいかということでもあるのでしょう。

それに、ABO血液型の場合、なぜ人々が素直に面白がるかというと、案外、表面に見えやすく分かりやすいからなのです。それはABO血液型の特徴が、ちょっとした言葉や行動のクセのようなところに表れたり、何か全体の雰囲気のようなところにそれを感じたりするからです。しかし、自分自身に対してそれを感じとるのは、無意識なだけに少々難しくなってしまうようです。私自身、これだけ長くこの分野に関わっていながら、やはり自分のこととなると、おろそかになっているのが事実です。

しかし本当は、自分自身を知ることにこそ、血液型人間学を活用する意義があります。自分がどのような人間で、何を求め、何が好きで、どんな強みがあり、どんな弱点を持っているのか、それらをよく知っていたとしたら、自分の能力の伸ばし方や弱点の乗り越え方を、適切に検討することができるし、自分の人生に対する取り組み方は、今より更に良いものになるに違いないからです。

私たちは、自分の肉体でありながら、自分のことをあまりに知らな過ぎたのではないだろうか。ならば今こそ、「血液型人間学」を自分のために活用することを、もっと真剣に考えなくてはならない。私がそう提案したい思いは、今の人間社会に押し寄せている、大きな変化のうねりを感じるたびに、沸々と大きくなっています。


これからの社会は自分軸で生きる


「変化」ということを、私はもう何年も前から、事あるごとに口にしたり何かに書いたりしてきました。事実、変化しているのですが、目に見えるそれは緩やかなのか、私が訴えるほどには、人々は感じていなかったかもしれません。けれど、今世界全体で起こっているパンデミックによって、いよい大きな波が迫りくるのを感じざるを得ないのです。

コロナ騒ぎで充分すぎるのに、これからまだ何か来るの?と思うかもしれませんが、コロナが終息するときこそが、社会が大きくチェンジするターニングポイントになるはずです。今、このウィルスによって、人々は行動を著しく制限されていますが、それは人々に、見極めの時間を与えられているようなものだと感じています。

この期間に私たちは、今までの社会がどれだけ欺瞞に満ちたものだったか、政治も行政もどれだけ機能不全に陥っているか、人々の思想や意識がどれだけ停滞しているか、グローバリゼーションとは何だったのか、メディアの在り方とは何か、など、実にさまざまな現状を、まるでスローモーションのように、見せられている気がします。

「このままいくとこっちに進んでいきますよ、いいのですか?」
という具合に、人類の集合意識に選択を促すかのように、まざまざと提示されているような、そんな気さえしています。

これまで築かれていた社会の枠組みは、一旦、見直さなければならない。そのように感じている人たちは少なからずいます。そういう人々が、一定以上の数に達しているとすれば、おそらくコロナ後の世界は、元どおりに戻ることはないのでしょう。

では、どう変わるのか。そもそもこれまでの社会は、外部に軸があったといっていいでしょう。人々は、できるだけ社会の枠組みに自分を合わせていくことで、安全で安心できる生活を送ることができました。ところが、もしもその枠組みが失われ、新たな社会を構築していくとするなら、今までおいていた軸をいったいどこにおけばいいのかとなります。

問題がおきても誰かがやってくれるだろう。ウィルスはじっと待っていれば消えてくれるだろう。そう思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そのように考えを進めていったとき、自ずと見えて来る道とは?
私が見えている道とは、「軸を自分においた新しい生き方」です。

これまで、大半の人々が社会の枠組みに合わせている中で、自分軸で生きるという選択をするのは、何かと生きづらいものがありました。しかし、多くの人が自分軸で生きるようになるなら、それが社会の在り方となっていく可能性があります。

ただしそれは、自分という存在を改めて見直さなければならないことでもあり、決して楽ではないかもしれません。しかしそこには、ネガティブな無限ループから飛び出した、新たな可能性が大きく広がっているように思うのです。

そんな未来予測をしながら、「血液型人間学」の活用を、今一度、思うところであります。

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2021-05-11

ABO血液型は細胞のアンテナ


 ABOは糖鎖系血液型

血液型には何種類もの分類がありますが、大きくは、たんぱく質系と糖鎖系に分けられます。ABOシステムやPシステムなどが糖鎖系で、その血液型物質を構成する成分を糖鎖が担っています。糖鎖は、グルコースやガラクトースという単糖の連なりで出来ています。

『糖鎖』については、今までよく分からなかったのです。


なぜ分からなかったかというと、糖鎖は常に形を変化させて活動しているので特定することが難しく、研究が進まなかったからです。


話しが少しそれますが、現代科学の研究というのは、量子論などの理論化学を除くと、「研究できる分野」から研究されていく、ということを、一般の私たちも理解しておく必要があるかもしれません。どんなに重要な分野でも、研究の手法が分からないことは手つかずなのです。つまり、研究されないから重要でない、ということではないということです。

「そんなに重要なことなら、とっくに誰かが研究しているはずだ」という声を時々聞くのですが、そういうわけでもないのです。


DNAの解析が完了した2003年、人類は、何もかも手に入れられるかのごとく騒がれましたが、それによって解ったことは、

「人類は何も分かっていない」ということが解った!


というものだったのです。とにかく我々人間は、世界の5%ぐらいのことしか理解していなかったのです。そういう訳で、糖鎖についても長い間、きちんとした研究フィールドが提供されることが無かったのですが、ゲノム解析の後に、その重要性が解ってきたので、最近では研究者たちも力を注ぎ始めています。


どんな事が分かってきたかを、いくつか挙げてみます。


  • 糖鎖はアンテナのような働きをしている。

  • 細胞の表面に顔を出している糖鎖の先端が、細菌やウィルス、ホルモン情報などの様々な情報を受け取り、細胞内に伝達している。

  • 糖鎖は細胞同士の連携を行っている。

  • 細胞表面の糖鎖が触れ合い連絡し合うことで、細胞同士のネットワークが構築され細胞が正常に働く。

  • 身体の不具合、病気の原因は、ほぼ全て、細胞同士のネットワークが上手く働かないことから起こっている。

”糖鎖”で検索するといろいろ情報がありますが、いくつか目に留まったのを紹介しておきます。

分子科学研究所

ある農学博士のブログ弘前大学の研究(PDF) 


糖鎖については、サプリメントや薬品開発を行っている研究室が力を入れているようですが、とにかく可能性のある分野として期待が高まっています。


糖鎖の働きを考えると、おのずとABO血液型の働きや重要性も見えてくる気がします。しかし私も糖鎖に関して知識は深くないので、とにかく今の時点で最も分かり易いのは、『アンテナの役割』だということです。


そんなふうに大雑把すぎる説明をすると、学者さんたちに叱られるかもしれません。

「そんなに単純なものじゃない」って。

しかし一旦、シンプルに捉えてみることも大切だと思います。自然界の理は「単純であり、複雑である」という、フラクタルな現象が多いのですから。


”アンテナ”の性能の違いがABO血液型の性質の違いだ、と捉えることで、だいぶスッキリした状態で観察できるのではないでしょうか。


A型には可笑しいギャグでも、B型にとっては少しも面白く無いという現象があったとしても、キャッチするアンテナが違うのだから当然と言えば当然なわけです。これは、責めたり悲しんだりするような部類のものではないんですね。


細胞の働きの大切さについて、最先端細胞学博士のブルース・リプトン氏がユニークな見解を展開しています。

ブルース・リプトン(Bluce Lipton/英語版Wikipediaより)は、「人間の信念によって遺伝子やDNAを操作できるというアイデアを持つアメリカ発達生物学者」として知られています。 彼はベストセラー『The Biology of Belief』の著者であり、スタンフォード大学の医学部、元研究者です。


リプトン博士については、別の記事でも書きましたが、彼は今、学者を引退して意識開発、意識改革という、どちらかというとスピリチュアルな方向で啓蒙しているようです。


彼は顕微鏡で細胞をじっと見つめているとき、「細胞そのものが、DNAを動かしている!」ということに気が付いたのです。そして思考や意識がいかに大切かというところへ至ったとき、実験室からは離れることにした、ということのようです。

それでも、そもそも生粋の学者だし、A型でもありますし(本の中で書いています。)、自分で納得する理論を重視する姿勢は変わらないでしょう。現在、彼と共に行動しているのは、多くは科学系の人たちのようですが、尚且つ現代科学の枠組みを飛び越えて突き進んでいる方たちばかりです。

どうやら真実を求める人たちは、現在、そういう方向へ向かっている模様です。


私は、ABO血液型に関していえば、それは肉体に根ざしているところが大きいと考えています。ABO血液型の特徴が感情や言動にも表れているとするなら、それは肉体から派生する、二次的な働きのはず。ところが、二次的なものだというのに、血液型カラーはあまりに色濃く表出されているのです。


考えを巡らせるうちに、鶏と卵の理論に陥りそうです。全てを理解するには、私たちがまだ分かっていない残り95%のことが分かるようにならなければ、難しいのかもしれません。それには、未知の世界、神秘の世界にもっと足を踏み入れていく必要があるのかもしれません。


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