2021-05-20

自分軸で生きるために「血液型人間学」の意義を再認識してみよう


「血液型人間学」は役に立つのか?


現在、血液型のそれぞれの特性については、能見正比古が集中的に行った並々ならぬ努力によって、ある程度のところが分ったと言ってもよいと思っています。

とはいえ、それを学者たちに認めさせようとするとき、血液型と人間行動の因果関係における、生物科学的な決定的証拠となるようものが、まだ見つかっていないと言われればそうかもしれません。しかしそうしたことは、血液型に始まったことではないのです。私たちの”意識”にしたって、それがどのようなしくみで発生しているかは、いまだ現代科学で解き明かすことはできていないし、脳の働きについても、心臓が動くしくみについても、実は全てを分かっているわけではないのです。

人間が今の段階で出来ることは、少なくも現象として明らかになっていることを整理分類し、少しでも役立つものなら、人間の活動に役立てることでしょう。

こう説明すると、更には次のような質問がかえってくることがよくあります。
「血液型にそれぞれの特性があるというのは分かりましたよ。しかし実際のところ、どんなふうに役立つというのですか?」

それは、この血液型人間学に馴染んだことのない人にとっては、あたりまえの素朴な質問かもしれません。そういう方に、どのように分りやすく説明すればよいのか――。私自身が今一度、今の社会を鑑みながら整理しておきたいと思います。


分類することは悪なのか?


2000年の始め頃、血液型の話題がメディアを通して再び沸騰することがありました。すると、その流れを押しとどめようとする反発が、知識人たちを中心におこりました。このとき特徴的だったのは、血液型と人間行動の関係性についてはもはや全否定できないと分かったからなのか、論点はそこではなく、人間を『分類』することへの抵抗でした。国連では、「人間をいかなる方法(特にジャンダーなどの生まれながらに変えられないものに対して)でも分類してはならない」という人権法が設けられた頃でもありました。

そもそも、こうした基準などを制定することは、逆にやっかいな問題を引き起こしかねないというのは、現在の米国の状況を見ればわかります。米国バイデン大統領は就任直後、ジェンダーフリーに関わる法令を発しましたが、たとえば男女別のトイレはもはや必要ないし、肉体が男性であっても女性の心であるトランスジェンダーは、女性として女子のスポーツチームに参加できたりするというのです。果たしてそれは、社会にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。

とにかく世界は、21世紀に足を踏み入れたとたん、どうも的外れな方向へ向かっていたようです。我々が提唱する血液型人間学に対する強い批判というのも、おそらくこの流れに乗ったものだったということが、今振り返ると見えてくるのです。反論者のとある知識人は、「血液型というのは、生まれながら持っていて変えられないものでしょ。そういうのを言ったらだめなんだよ」と、まさに先の人権法に準拠するようなことを発言していました。

しかし、本当に、分類することは”悪”なのでしょうか。科学者なら、決してそうは言えないはず。科学とは、森羅万象のあらゆる現象を観察し、分類することから始まっていくからです。一見、雑多で混沌としている状態を、一旦分類し、整理することで、さまざまな知識や知恵を得てきたのです。「分類すること」は、我々人類が知の探究をする限り、必要不可欠なことです。

「分類」と「差別」は、本来は別々に扱いたいところです。しかし、あえてこの2つの行為を組み合わせてみるとするなら、それぞれをどう感じるでしょうか?

①「分類」しないで「差別」する
②「分類」して「差別」する
上の2つは、いずれにしても「差別」するわけで、それはやはりするべきでないと感じます。

③「分類」しない「差別」しない
おそらく人権法や血液型人間学に反発する知識人たちは、この考えなのでしょう。一見、よさそうにも思えますが、米国を例にしたように、それは混乱を促し、むしろ新たな分断を引き起こす要因になりはしないでしょうか。

④「分類」して「差別」しない
私たちは、これを推進していることになります。もしかしたら、「分類しても差別しない」という取り組みは、今の人類社会では、まだ少しハードルが高いのかもしれません。しかし、私たち人類が、今よりも成長し進化したいのであれば、これを目指すべきだと思うのです。

そして加えていうなら、③のケースは、私たちの思考を止め、進化を拒むことにはならないかと、今一度考える必要があるのではないでしょうか。

地球上の自然界は、実に多様性に富んだ世界ですが、そうした多様性の中には、ある一定の整列や秩序があることも分かります。それを発見したとき、人間はその美しさをより深く感じて感動してきました。ヒトもまた、ひとりひとり異なる個性の多様性の中にあって、自然の秩序に準じたいくつかの色があるのも事実なのです。


「許す」ことは「理解する」こと


「血液型人間学」を活用してくださる人たちに尋ねると、まず何が良かったかといえば、人との付き合いが楽になった、楽しくなったといいます。それは特に、夫婦などの日常を共にする密接な関係性で、効力を発揮するといいます。

私たち人間は、全て自分を通して外部を認識しています。つまり自分を基準にしか考えられないという大前提があります。もちろん大局的には、ある社会の教育や規範の中で育っていくので、そこで身に付く共通のモラルや認識というのがありますが、しかしそれさえも、自分の感受性で受け取っているものであり、それは兄弟姉妹や親子でさえ、ひとりひとり異なるのです。

私は子どもの頃、3つ離れた姉と本の貸し借りをして、その本に対する感想を言い合ったりしたのですが、同じ本を読んでいるというのに、こんなに受け止め方が違うものかと、子どもながらに不思議に思ったものでした。

そういうわけなので、私たちが人と接するとき、相手の言動に対してどうしても自分の価値判断で見てしまいがちになります。しかし、そこに『血液型』というフィルターのようなめがねを媒介させてみます。このフィルターは、対象を曇らせるような種類のものではなく、色弱者のためのサングラスのようなものです。

もともと人間力、人間観察に優れた人なら、血液型めがねなど必要ないのかもしれませんが、しかしながらそういう人物は少ないのです。凡人の私たちは、この媒介を通すことで、そこには自分とは異なる思考行動原理で活動する人々がいることに気づかされます。

私が「血液型人間学」を学び伝えながら確信したことは、人は、理解することで寛容になるということです。人間は、知らないこと、理解できないことに直面すると、一種の恐怖を覚えます。つまり恐怖心がさまざまな攻撃につながっていくのです。ところが、相手の不可解な言動の理由をちょっとでも理解することで、にわかに寛容になれるのです。

B型男性と結婚して数十年になるというA型女性は、B型の夫にだいぶ辟易していたのですが、彼女がB型性を理解した後にしみじみ言いました。
「私は彼を心から好きになることはないかもしれませんが、許すことはできるようになりました」

「許す」という行為は、「理解する」ことでもあるのです。

また、人間関係においては、トラブルや衝突が生じたときほど、役に立つといえます。普段、仲が良いと思っている相手でも、それは案外、表面的な面しか接していないことも多いのです。人間というのは自分を基準にしてしか外部を認識できないわけだから、相手に対しても、自分と共感する部分だけを見て納得していることがままあります。スムーズに進んでいるときはいいのですが、何かのきっかけで、自分には理解しがたい面を見せられることがあります。そんな時にトラブルが発生するのでしょう。そういうときこそ、「血液型人間学」の出番があるというものです。

ただし、この血液型めがねを通した見方というのが『理解する』ことに大きな効果があるのはたしかでも、かといって、そう簡単に血液型人間学の理論が身に付くかというと、実はそうではありません。正直にいうと、やはり、それなりの月日と実践経験が必要なのです。つまり、本を読んだだけでは、活用しきれないのです。

まあしかし、『理解』とまで及ばなくても、「人間を客観的に観察する」という行為なら、すぐにでも実践できるはずで、ほとんどの人が、その利を得るに違いありません。

人々が、なぜささいなことを発端に衝突し、ネガティブな方向へ向かってしまうのかといえば、それは、同じ環の中にどっぷり浸かってしまうからです。それは人間の思考の特徴でもあるのですが、ネガティブな思考はループする性質があるのです。"Negatibu"には、消極性、進化したくない、という意味が含まれているのですが、今ある状態を繰り返すことを良しとする思考でもあのです。

ですから、物事をよりポジティブな方向にシフトさせたいなら、その環の中から出る必要があります。血液型を通して観察することは、そうした人間関係のネガティブなループから一歩外へ出て、客観的な視点を持つことを助けることになります。


自分自身を知ることの意義


「血液型人間学」を人付き合いに生かすことは、興味さえ持てば、比較的簡単に取り組めることだと思います。それに、これまで何気なく眺めていた周囲の人々を、違った視点で見ることは、思った以上に面白く、人間の知的好奇心をくすぐるのです。

ところが、これを自分に当てはめようとしたとたん、そのフィルター機能が上手く働かなくなってしまうことがあります。自分の言動や思考の特徴を客観的に眺めることが、どれだけ難しいかということでもあるのでしょう。

それに、ABO血液型の場合、なぜ人々が素直に面白がるかというと、案外、表面に見えやすく分かりやすいからなのです。それはABO血液型の特徴が、ちょっとした言葉や行動のクセのようなところに表れたり、何か全体の雰囲気のようなところにそれを感じたりするからです。しかし、自分自身に対してそれを感じとるのは、無意識なだけに少々難しくなってしまうようです。私自身、これだけ長くこの分野に関わっていながら、やはり自分のこととなると、おろそかになっているのが事実です。

しかし本当は、自分自身を知ることにこそ、血液型人間学を活用する意義があります。自分がどのような人間で、何を求め、何が好きで、どんな強みがあり、どんな弱点を持っているのか、それらをよく知っていたとしたら、自分の能力の伸ばし方や弱点の乗り越え方を、適切に検討することができるし、自分の人生に対する取り組み方は、今より更に良いものになるに違いないからです。

私たちは、自分の肉体でありながら、自分のことをあまりに知らな過ぎたのではないだろうか。ならば今こそ、「血液型人間学」を自分のために活用することを、もっと真剣に考えなくてはならない。私がそう提案したい思いは、今の人間社会に押し寄せている、大きな変化のうねりを感じるたびに、沸々と大きくなっています。


これからの社会は自分軸で生きる


「変化」ということを、私はもう何年も前から、事あるごとに口にしたり何かに書いたりしてきました。事実、変化しているのですが、目に見えるそれは緩やかなのか、私が訴えるほどには、人々は感じていなかったかもしれません。けれど、今世界全体で起こっているパンデミックによって、いよい大きな波が迫りくるのを感じざるを得ないのです。

コロナ騒ぎで充分すぎるのに、これからまだ何か来るの?と思うかもしれませんが、コロナが終息するときこそが、社会が大きくチェンジするターニングポイントになるはずです。今、このウィルスによって、人々は行動を著しく制限されていますが、それは人々に、見極めの時間を与えられているようなものだと感じています。

この期間に私たちは、今までの社会がどれだけ欺瞞に満ちたものだったか、政治も行政もどれだけ機能不全に陥っているか、人々の思想や意識がどれだけ停滞しているか、グローバリゼーションとは何だったのか、メディアの在り方とは何か、など、実にさまざまな現状を、まるでスローモーションのように、見せられている気がします。

「このままいくとこっちに進んでいきますよ、いいのですか?」
という具合に、人類の集合意識に選択を促すかのように、まざまざと提示されているような、そんな気さえしています。

これまで築かれていた社会の枠組みは、一旦、見直さなければならない。そのように感じている人たちは少なからずいます。そういう人々が、一定以上の数に達しているとすれば、おそらくコロナ後の世界は、元どおりに戻ることはないのでしょう。

では、どう変わるのか。そもそもこれまでの社会は、外部に軸があったといっていいでしょう。人々は、できるだけ社会の枠組みに自分を合わせていくことで、安全で安心できる生活を送ることができました。ところが、もしもその枠組みが失われ、新たな社会を構築していくとするなら、今までおいていた軸をいったいどこにおけばいいのかとなります。

問題がおきても誰かがやってくれるだろう。ウィルスはじっと待っていれば消えてくれるだろう。そう思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そのように考えを進めていったとき、自ずと見えて来る道とは?
私が見えている道とは、「軸を自分においた新しい生き方」です。

これまで、大半の人々が社会の枠組みに合わせている中で、自分軸で生きるという選択をするのは、何かと生きづらいものがありました。しかし、多くの人が自分軸で生きるようになるなら、それが社会の在り方となっていく可能性があります。

ただしそれは、自分という存在を改めて見直さなければならないことでもあり、決して楽ではないかもしれません。しかしそこには、ネガティブな無限ループから飛び出した、新たな可能性が大きく広がっているように思うのです。

そんな未来予測をしながら、「血液型人間学」の活用を、今一度、思うところであります。

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