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能見正比古の蔵書~彼の頭の中を覗いていみると

A型は歴史小説?B型の好むジャンルは?

その人の本棚を見ると、その人の価値観や興味の対象が分かる、というのは、よく言われることです。

そういうことで、改めて自分の本棚を眺めてみると、なるほどねえと、我ながら苦笑してしまいます。
純愛小説とか、そういうたぐいのものは一切無し!料理本とか趣味の本、女流作家の本もまるで無し!
あるのは……?ああ、これじゃあ、まるでオトコの本棚ですよね。つまり私がモテないのは、私の頭の中のせいなんだと、妙~に納得するのであります。

自分のことはさておき、話を本題に戻しますと、私の仕事場の本棚には、先代、先々代の、師匠の蔵書もたくさん残っています。
事務所移転の度に少しずつ整理(断捨離)をしてきたので、当初に比べると1/4ぐらいに減ってしまったのですが、それでも運よく?生き残った本たちが、仕事場の本棚でひしめき合っているわけです。
そこで年明け早々、たまには本棚の整理でもするかと思い立ち、縦に横にと雑然と並んでいた本たちを並べ替えることにしました。
能見正比古が読んでいた本ともなれば、新しい本でも1970年代。古い本だと昭和ひとケタ
発行で、横書き文字を右から読むというような、年代物になるわけです。この辺になると、言語もかなりクラシカルで、私には到底、スラスラ読むことなどもはや不可能ー。

ざっとタイトルだけ見ると、能見正比古の蔵書類は、実にさまざまなジャンルに広がっています。
人物伝、純文学、人文学、ロシア文学、ノンフィクション、事典類、科学系、SF、叙事詩…etc
B型らしいとも言えるのでしょうが、能見正比古の興味が、実に多方面に広がっていたというのを、彼が手にした本たちを眺めていてもよく分かります。
しかし、本を手に取りながら、題名と著者を見て、さてこの本はどこに分類しようかと、中味をチラチラと確認しているうちに、私は、その一見すると、分散しているかのように見える能見正比古の蔵書類から、ひとつの、確かな共通性を感じとったのです。

「やはり能見正比古は、人間について、ず~っと、ず~っと、研究してきたのだ!」

そうなんです。
そのジャンルがどうであれ、本棚にずらりと並んでいるこれらには、「人間とは何か?」と探求する、彼の大きな大きなテーマが、しかと横たわっているのです。
薄い本にも、分厚い本にも、専門書にも、少年少女向けの本にも、「人間」とか「温もり」とか、私は全ての本に、何かそういう肌合いを感じたのです。

能見正比古が、B型について書いているこんな部分があります。
「B型は、興味が次々と移り、無意味に分散し、飽きっぽいだけだと周りから見えるが、そのB型にとっての根底にあるテーマは、案外一貫していることも多いのだ」

能見正比古のテーマは、「人間とは何か」
ただただ、それに尽きたのに違いないのです。
(本を見ながらその想いに浸り、ちょっぴりウルウルしてしまいました。)

そしてまた、ちょっと面白いジャンルも再発見しました。
写真に写っている本類がそうですが、今でいうなら、オカルト系とでも言えましょうか。
『宇宙』とか『未来』とか、そういうタイトルがやたら目につきます。
中でもアダム・スキーの「宇宙からの訪問者」などは、宇宙人に直接出会ったと公言し、欧米諸国を騒然とさせた人物の手記です。
すると能見正比古は、人間の探求には、”宇宙”も想定内にあった…ということなのかもしれません。

せっかくですので、もうひとりの師匠、A型、能見俊賢の蔵書もご紹介。
これはもう、タイトルも著者も、表紙を見ただけで一貫しております。
あれもこれも…ほとんどが歴史小説、それ一辺倒です。
A型は歴史好きが多いですが、能見俊賢はそれを看板にできそうなほど。

それにしても能見俊賢の頭の中は、実にシンプルでスッキリ整理されていたのかもしれません。
確かに、能見俊賢という人物は、そういう方でもありました。
彼が私に、常に警告していたことがあります。
「余分な知識ばかり詰め込んで、決して頭でっかちになるな!」
この厳しいお言葉のおかげで、ギガ生意気な私が、メガ生意気ぐらいですんだのだと、思うたび感謝しています。

そして面白いことに、あれだけジャンルの広い能見正比古の蔵書には、歴史小説はほとんど見当たりませんでした。ここはA型とB型の、袖を分かつポイントなのかもしれないですね。
ところがですよ。これまた面白いことに、両者の好む本に、共通のジャンルがひとつだけあったのです。
それは、SF小説でした。
SF小説の本に関しては、どうやら2人は共有していたようです。
「ケン坊、これ面白かったぞ、読んでみろ」
「オヤジ、これ面白かったよ、読む?」
みたいな感じですね。

お2人は、血液型人間学の未来について、よく語り合ったと聞いています。
考えてみれば、科学者たちは未だに、血液型の真相の、”シ”の字もつかめていないわけですし、だとすればこの分野って、今のところSFのようなもの、とも言えるのですよね!

いまだに続く血液型ネガティヴキャンペーン〜その行方は?


先日、テレビ朝日のバラエティ番組で血液型の特集が放映されました。
当センターもこの番組が企画された最初に取材を受けました。
血液型をテレビの番組で取り上げるとき、大方の場合、一度はこちらに問い合わせがあります。もちろん、それでこちらの意図が通るか、与えられる情報があるかないか、あるいはその企画が実現するかしないかは、まだ分からないという段階です。
それでも何でも、正直に言うと、テレビからの問い合わせや取材は、仕事の中で最もストレスが大きいのです。

「どうか、どうか、少しでも事実を伝えるマシな番組になりますように...」
と、祈るような気持ちになってしまうわけです。
自分でも少々過敏すぎるかもしれないとも思うのですが、過去ウン十年、何十本もの番組に協力してきて、胸を撫で下ろしたのって数回くらい...しかもそういうのはたいてい地方テレビだった、というこれまでの実体があるものですから、まあ仕方ないところもあるのです。
あまりにもエネルギーを消耗するものだから、その後、その企画がどうなったのかというところを、あまり追及しないことにしています。
後は流れに任せてなるようになれという、投げやりというか、居直りというか、そんな気持ちでいるのです。

それで、結局どうなったかを知らずにいたのですが、どうやら企画が通り、放送されたようで、研究員やら友人ら、周囲の人々が観たよと報告してくれました。
そして、私の友はキッパリ言いました。
「え?何これ?って内容だっのよ」
私はほとんど察しがついたので「きっと中途半端な番組だったんでしょ?」と言うと
「そうなの、その通りよ。何が言いたかったのか分からないしさ、観て損したって感じよ」

ああまったく...。
テレビは相変わらずなのだなあと、またおんなじようにがっかりするハメになりました。

結局、何が上手くいかないのかというと、優柔不断な番組づくりをするからなのでしょう。
血液型のことはテーマにしたい。(視聴率もあがるんだし)
けれど科学的裏付けを示さないと(今時のご時世)やれない。
という、2つの意図で行ったり来たりしながら、肯定したいような、批判したいような、変にあやふやな内容にするからなのです。
先ほど、地方テレビは胸をなで下ろす番組....と書きましたが、上質なものばかりでした。
理由は簡単で、地方テレビは、主要メディアに比べたら、ずっと素直に取り扱ってくれてきたからなのです。
そしてそういう番組は、観ている視聴者を安心させ、気分よくさせるのです。
どういうことかといいますと、たとえば、未熟な俳優さんの演技を観ていると、ハラハラして疲れるじゃないですか。しかし、役に成り切った上手な俳優さんの演技は安心して楽しめますよね、それと同じなのです。
そうしてみれば、何というか、主要メディアがどれだけ冒されているか、ということでもありますが。(何に冒されてるんだ?)

とにかくまあ、結局、現代科学の幻想に囚われて権威に頼っているうちは、メディアはそのジレンマから脱却できないでしょう。

もちろん、血液型人間学は科学として研究するテーマであり、遺伝子や物理学や、細胞学や、人間科学が進歩しなければ解明されない研究です。
けれどその、誰かれさんらが崇拝する現代科学が、どこまで人間の本質を理解しているのやら、です。
それがもし、人間の数%しか分かっていないのだとしたら、その中で話せる事など大したもんではありません。

能見正比古が凄かったのは、当時の科学をはるかに越えた先を見通しながら、データと観察で事実を突き止めたからです。
それは彼の想像力+創造力の賜物です。
人間の本当の優れた能力とは、既に証明された事実を捏ねくりまわす事ではなく、いかに創造し、新たな真実を追究するかというところにあるのではないでしょうか。

そして大事なことを加えるなら、私は知っているのです。
能見正比古、俊賢が、どれほど純粋な人間愛で、この研究を進めたのかを。
そうしてつくづく思うのは、愛に基づいた彼らの活動は、未だに根付いている、分離の甚だしい世界では、活かすことが難しいのだろうかと。
人々が、本当に愛ある世界を築こうと目覚めたとき、そのときやっと、真実を見ようとするのかもしれないのです。

今しばらく、辛抱強く待つことにしますか。

能見正比古の「血液型人間学」が統計であるかないかということに、どれくらい意味を持たせるかというところの真実

能見正比古の「血液型人間学」は統計に支えられていたに違いはないが…


能見正比古という人物について、若い人のほとんどは知らないのでしょう。
ところが、60代以上の人々が集まる会合などに出席すると、「本を読んだ」「講演を聞いた」という人が、必ず何人かはいらっしゃるのです。
そんなとき、当時(40年前)、老若男女問わず、どれだけ日本の人々に強い印象を与えていたかというのを再確認します。

彼はもちろんタレントではないですから、有名人的な存在としてテレビでもてはやされたとか、そういうものではありません。
彼の本を読んで強く共感を得た人々が、とにかくたくさん居たわけです。
能見の分析や理論は、画期的でもあり、新鮮でもあり、驚きでもあったのですが、それはおそらく、ここ数年の、流行りの最新××科学とか、最新ナントカとか、そういうのとも全然違ったと思うし。…書きながら何か似たような現象がないかと探しながら、そういえば…前々回の記事で「記憶喪失現象」について書いたのですが、日本の人々が記憶の一部を取り戻したような感じ、なのかもしれません。
「そうそう、確かにそうだよ!」と、能見の、的を得た分析に、モヤモヤしていたところの霧が晴れた、みたいな感動ではなかったかと思うのです。

まあ、ところが、既に世の流れは思考の画一化に向かっており、科学や哲学の統一化というか、規格化というか、世界の知識は欧米諸国を中心に、そういう偏狭な方向に進み始めてもいたのです。
それで、能見の分析に純粋に共鳴する人たちも多くいたにはいたのですが、中には、"統計"だから、ちゃんとデータを取っているから信用できる、と、"科学性"というところを信頼して、支持する人たちも結構にいた模様です。

そして能見もまた、東大工学部卒ということでもあったので、科学性であるとか、統計手法であるとかは、嫌というほど学んでもいたろうし、本人自身が、そういう客観的な物差しでもって証明しないと気が済まない、という性分でもあったので、彼はデータを集めに集めまくったし、何千何万というデータと睨めっこして、取り組んだのは間違いありませんでした。
そんなことで、「血液型人間学は統計学である」というのが、一人歩きした感も無きにしも非ずと言えます。
けれど、ちょっと考えれば分かるでしょうが、統計学だけで、人間の行動が細かに分析できるはずは、ありません。

それでその後、能見の血液型人間学理論が高まるにつれ、批判的、反論的な意見が、特に学者らの中、とりわけ心理学者らを中心に現れるようになりました。
そして、「能見正比古のデータから意味のあるものは見つけられない」、「彼の統計はデタラメである」、というような意見を、彼らは発信し始めました。
中には、「そんなデータはとっていないし、嘘八百を述べている」、などと風聴する輩まで現れて(今もいるのですが)、それにはさすがに我々も呆れ果て、「日本全国民を、そんな"ホラ"で騙せる肝っ玉があるなら、親父はとっくに政治家にでもなってるよ」などと、能見俊賢は苦笑いしていたのでした。

すると先日、たまたまこんなサイトを見つけました。
http://transact.seesaa.net/article/109878065.html
このサイトは、「能見正比古は統計なんかとっていない」とタイトルにあります。

私はタイトルだけ見たとき、「へえ、そうなんだ、どういうこと?」なんて、何だか他人事のように素朴な疑問が生まれたので、ちょっと読み進めてみたのですが、こちらのサイト運営者は、能見の本を読んだけど、性格を分析するのに統計データをとったとはとても思えない、というような説明が書かれていたのでした。

それはあま、そうでしょう。
そもそも、彼の本は論文ではないですし、そういう審査を受けるべく書いたものではないのですから、判定しようにもできないだろう、とも思います。
本の場合、それが一般書であれば尚のこと、著者の結論的見解を述べるのが普通だし、その過程を細かに示すことはページ量的にも不可能ですし、またその必要もないわけです。
ただし、熟読していけば、それについての説明も一応ちゃんとしてあるのですけど、それで能見は、疑問に思われるならいつでも問い合わせて下さい、とも念をおしているのですが、賛同した人が訪ねてきたことはたくさんあっても、反論する人が訪ねてきたことは滅多にない、というのが実のところなのです。

それで、話を中心に戻して言うと、何だか、統計とかデータとかいうところに、やたらこだわる人々が多いのだと、改めて感じたので、じゃあ、能見は何をもってして、「統計的検証をした」としたのかを、ここに改めて説明しておこうかと、思った次第です。

まず最初に言っておくべきことは、能見は本に書いてある通りの数だけ、データを取りました。むしろ控え目に書いているぐらいです。
これについてはウソも改ざんもないですし、その、あまりに馬鹿げた憶測に対して反論したことはあまりないのですが、能見親子の名誉のためにも、ここに書いておきます。

そして次に、血液型と人間性の関係を云々言うにあたって、順を追って説明していくと、まずは、①血液型と人間との間に、何らかの関係性があるのか無いのかを、どんなデータからでも探し出してみようということになります。
能見が注目したのは、業界や職業分野や、ある特殊な集団と血液型分布の関係です。
何らかの偏りが見られ、有意性があれば、それは統計的に何らかの関係性があるとして良いわけです。
それで能見は、100件以上の分野に有意性のある偏りを見つけました。
本来、何らかの関係性だけを示すのであれば、数件でも見つかれば良かったぐらいなんですが、確かな真実を求めようとした彼は、それを100以上にも増やしてしまいまいた。
おそらく、面白いくらい見つかるので、勢い余って突き進んだのではないか?とも思われますが。
それに中には、その時代背景に影響されている分野もあります。
社会状況は常に変化しているので、そこで活動する人間の様態も変化するのが当然です。その有意性は一時的なものであることもあり得るため、そうした流動性を考慮しても、100も見つければ、まあ充分だろう、ということだったのです。

この段階で、血液型と人間の活動には、何らかの関係性あるというのを証明したわけです。

それで次の課題は何かというと、では、②具体的にどのような内容で関係しているのか?といのを精査してゆかねばなりません。
これには、単に分野ごとの血液型分布の偏りだけ見ても大したことは言えません。
歴史作家にA型が多いからと言って、A型の、何のどんな部分がそれに関係するのかは言うことができません。
それで能見は、各血液型の性質を詳しく探るためにアンケートを取ることにしました。

さてしかし、このアンケートがやっかいです。
あなたは歴史が好きですか?
と訊かれて、まあ確かにA型の人は歴史好きが多いですが、それだけじゃ、あまりに芸がなさ過ぎるし、それに、自分で申告する好き嫌いが、どれだけ社会活動に反映されてるかとなると、少々疑問が残ります。
もっと、四方八方から攻めて吟味する必要があるわけです。
すると、様々な質問が生じてきます。(以下は実際に行った設問ではなく、私が書きながら思いついたものです。)
過去の記憶をよく覚えているか?
過去への郷愁は?
資料をコツコツ集めるのが苦にならないか?
緻密な思考性は?
想像力は?
などなど。

”歴史”というテーマにまつわるだけでも、数限りなく浮かんできます。
そして、質問の仕方には、いくつかの工夫もほどこされました。
アンケートは自己申告なので、事実が正しく回答されない恐れもあるため、なるべく、回答者が善悪などの固定観念に惑わされないような設問に置き換えて、自分のことを少しでも客観的に捉えて回答できるようにするわけです。それは大抵、事実を述べるしかないようなものや、行動のクセを探るような質問です。(アンケートについては、近く全内容をホームページなどで公開する予定です。)

まあ、そんな感じで、ある一つのデータを元にしただけでも、質問はどんどん広がっていくわけですが、その質問は、4型に対して同時に広がりを見せるのであって、たとえば、”緻密”というキーワードを探るための設問に対して、意外な血液型の傾向が、ふと現れたりすることもあるのです。
「おや?これは何だろう」ということで、更に追求する幅が広がるという感じです。
また、せっかくだから、一回のアンケートで出来るだけたくさんの設問に回答して頂きたいということで、回答する人が楽しんで飽きずにやれるよう、ときどき、特に意味もないユニークな設問なんかも入れておきます。
たとえば、「幽霊を信じる?」とか。
すると、そういうのに限って、期待していなかった偏りが見られたりすることも多いのです。
この、楽しんで回答できるという要素は、非常に大切なことだと思います。
それがよくあるような、”性格診断”のアンケートのように堅苦しいものだと、回答者は「これで自分が評価される」のような、ある種の緊張を感じながら回答することが多くなりがちですが、能見の作成したアンケートは、何やら面白くて楽しいので、リラックスして行えたのです。
また、これは個人の診断ではなく、”血液型”の調査であるということで、自分もこの研究に協力し貢献しているという、回答者のポジティブな意識を促進したので、みなさん、非常に積極的に、そして誠実に答えて下さったのでした。(私は、こうしたアンケートの取り方ひとつにおいても、能見正比古の特異な才覚を感じざるを得ないのです。)

というわけで、非常に信頼度と内容の濃いアンケート集計に成功したわけです。
アンケートに対する有意差検定というのは、ひとつひとつの設問に対して行うことになりますが、本でそれ紹介するときには、有意差がある無いに関わらず、本の話題の流れに合致する、ある程度の偏りや分かり易いものを選ぶことになります。
まあそうなると、紹介できるものはほんの一部で限られてきます。
すると、その他のデータは、全て能見のメモと頭の中に保存されたことになります。

そして能見はまた、③人間活動の観察と取材も同時に行い続けていました。
自分自身の周りの人間関係はもちろんでしょうが、知人からその知人を紹介してもらい、そのまた知人....。彼は人と会うことには、何のためらいもなく、図々しいくらいに訪ねて行っては、何でも聞いてきたのです。
能見の本は、芸能人や著名人の話が多くて何だかイヤラシイ、みたいな印象を持った人もいるらしいのですが、能見が放送作家という仕事をしていた関係で、そうした職業の知人友人が多かった、という事情もありました。
それにその方が、本を読む人も顔が浮かんでイメージしやすいだろう、とも考えたのです。

あるいは、そういう人々は特殊な世界だから特殊な傾向になるのであって、一般論に当てはまらないのでは?と考える人もおられるのですが、それは実際のところ、そうでもないのです。
何かの特性や本質を探ろうとするときには、抜きん出た特異な部分を見つけ出すことが早道なのです。
集合体の中で慣らされ平均化された8割の部分からは、あまり多くの真実は、もはや見いだせなくなってしまうからなのです。それより、その平均枠からはみ出した数パーセントの中に、物事の本質が見え隠れするのです。(この点については、先端物理学などの学者さんたちも言及しております。)
ですので、特殊な環境に置かれた人たちや、特殊な分野で活躍する人たちを観察することは、案外意味があるということになります。
ただ、ここが少々難しいのは、そうした特殊な部分というのは、データが少ないので統計的な処理が叶わなくなりがちです。
なので、ある血液型のある傾向を示唆する補完データとして、能見のメモに残すしかありません。
加えて、④幼児たちの観察記録は、能見の分析に大きな貢献をしたのは間違いないでしょう。子供たちは、大人に比べたら遥かに素直に、素の自分を表現しているのですから。

こうして、能見のメモと能見の頭の中には、膨大なデータが記録されていくことになります。
そして後は、⑤能見正比古コンピューターが、その網の目のように広がったデータを、処理していったというわけです。
能見は、一つの特徴を見定めるのに、100ぐらいの質問やデータが関わっていると本にも書いています。

これらが能見正比古が行ったデータ収集やアンケート集計、観察、分析の概略となります。
このことから、結論的に何が言えるのかというと、能見が行った分析というのは、統計的な処理、データ結果が土台になっていたし、あるいは分析内容を示唆する大きな支えにもなっていたのは確かです。
ただし、だからといって彼の分析や理論について、逆に統計的検証をしようとしても、おそらくあまり正しい結果は得られないでしょう。収集した大量のデータを、どのように整理し、どのように性格行動に関連付けたか、また、その表現方法についても、能見の頭脳と感性で行われたものである、ということだからです。
実際、統計とはそういうものです。
統計の数値を眺めて、どう解釈しどう分析するかは、それを行う人次第なのです。
そこにはその人の頭脳と感性が、大きく貢献(影響)することになります。

⑥能見正比古の研究調査の最終段階は、彼の分析を、人々に問う作業でした。
それにはできるだけ、多くの人々の目に留まるような形にする必要があります。本やメディアで…。すると、多くの読者たちからの反響があった、というわけです。
そうして今度は、⑦読者たちからフィードバックを受取れるようになり、更に内容を煮詰めていく、という作業が、幾度か繰り返された、ということになります。

以上(①~⑦)が、能見が行った一連の、研究調査、分析作業でした。
私はとりあえず、こうして事実を述べましたが、では、これを読んで、能見が提唱してきた「血液型人間学」を統計に基づいたものであると捉えるか、そうではないと捉えるかは、結局、受け取る側の、その人によるのかもしれません。

そして私は、人々の多種多様な価値観や、考え方を尊重したいとは思いますが、よく調べられていない偽事実の情報が蔓延することには、異を唱える必要があります。
それで私は、時おり思うのです。
残念ながら反論する方々の、ただひとりも、直接問い合わせて下さったことは、過去47年ないわけで、能見親子に訊いてくれれば、私に訊いてくれれば、同じ反論や反証をするにしても、だいぶ良質な内容になるのではないか、と思ったりするわけです。
まあ、そんなの大きなお世話、とも言われそうですが。

それにしてもあの当時、コンピューターなんて無い時代に、よくもまあ、3千枚、5千枚、というアンケート用紙と睨めっこして、データ整理をしたものだと、能見正比古(B型)の熱意と労力には、ひたすら驚愕いたします。
今のコンピューター時代に能見正比古が生きていたとしたら、どれだけ喜んだことだろうかと、しみじみ思うのであります。

そして最後に、ことあるごとに書いているので、しつこいですが
能見正比古の人間に対する愛情がなければ、こうした繊細な分析は出来なかった、ということも、今一度、付け加えておきたいと思います。



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