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2020-09-30

血液型視点で日本の集団意識を考えてみる

 コロナ禍で改めて見えた日本人の集団性


今年(2020年)早々に起こった新型コロナウィルスによる世界的パンデミック。まさかウィルスひとつがこれだけ世界中を騒がせ、あらゆる活動を停止させてしまうとは、想像もしなかったことです。

およそ6カ月が過ぎて、ようやくこのウィルスについて理解し始め、各国がだいぶ落ち着きを見せてきたこの頃ですが、冷静に振り返ってみると、日本国の感染状況というのは、世界の中ではずいぶんマシだったようです。

その理由は諸説あり、未だに議論は決着していないようですが、とにかく欧米諸国は多いところでは100万人あたり5~600人の死亡者が出ているというのに、日本は100万人あたり10人程度という少なさなのです。(アジア地域は日本と同じように死亡者数が少ないようです。)

そうした疑問はさておき、とにかく日本に限って言えば、実は大量の感染者を受け入れるなどの医療体制や、防疫に対する対応が、あまりにも整っておらず、医療崩壊の危険は常にあったそうです。そのためむやみにPCR検査を増やすことも避けてきましたし、また、一定期間の非常事態宣言を行ったとはいえ、他国のような強制力はほとんどなく、一貫して国民への自粛要請のみでした。

日本政府の対応は、遅すぎる、甘すぎるなど、批判も多くありましたが、にもかかわらず、この結果に抑えられていることに、欧米諸国などからはむしろ賞賛されているのです。それは、さまざまな災害時の時に見られた、日本人の民度の高さだとも言われています。まあ、褒められるのは喜ばしいことですが、この間の日本の状態を改めて振り返ってみようと思います。

確かに、政府の「要請」だけで日本国民は、充分に外出を避けて自粛していたように思います。そして、どこへ行っても外でも中でも、特に街なかは100%に近い人がマスクを着用していました。これにはさすがに呆れるほど驚きますが、実際のところ、そうするより仕方ないムードが国中に漂っているのです。

たとえばワタシなどは、人の少ない地域に住んでいるのもありますが、「外を歩くときまでマスクは不要」という考えで、マスクを常にしているわけではありません。しかし店などに入ろうというときには、入り口に「マスク着用」と書かれていれば尚更だし、周囲を見渡して小さな子どもたちまで健気にマスクをしている姿なんかを見ると、仕方ないなと、やおらポケットからマスクを取り出し、内心「ホントに必要?」なんて思いながらも、やはり協調する気持ちの方を優先させてしまいます。

普段「オレの勝手だろ」なんて感じで生きてる人でも、「自分がうつらないためでなく、人にうつさないためだ」なんて言われてしまうと、結構日本人は納得してしまうんですね。そういう利他的なところは、やはり日本人の良さなんだろうなと思ったりします。

しかし一方で、自粛警察とか、マスク警察とか、過激な行為もありました。また、都会から離れた地方の地域においては、他県ナンバーの車を見つけると傷をつけたり、東京から家族が里帰りしているのが近所に知れると「帰れ!」と叫ばれたりして、万一、その地域で感染者にでもなったら、もうそこには住めないぐらいの雰囲気になるらしく、中には本当に引っ越してしまった家族もあったそうです。

これにはちょっと行き過ぎの感じがします。米国のようにデモや騒ぎが起こったり、中国武漢やイタリアのような医療崩壊の危機に陥ったりの騒動はほとんどありませんでしたし、メディアが不安を煽り続ける中でも、政府に対する不満がありながらも、全体的にはいたって静かに、みんなでマスクをつけて、手洗いをして…、淡々と、自粛が行われていたのでした。そういう中で、陰湿な面も、見え隠れしていたということです。

こうしたことの、プラス・マイナスを含めて、全て日本的な集団性というものかもしれません。それは良しにつけ悪しきにつけ、日本古くからの集団意識の特性といえるのだと思います。

日本は少し前まで、「村社会」とも言われていました。更に昔に遡れば、「村八分」というのが「制度」としてちゃんと存在した村々も結構あったのです。それは、変り者を仲間外れにして村中で"いじめる"という感情的で低俗なものではなく、村人たちが争いことをなくし、暮らしを安定させるに必要なルールとして、皆が合意の上で制度化させたものでした。

ですから、村のルールを破ったら、その者自身も、そこでは生きられなくなることを充分承知していたのです。それはかなり厳格なところがあって、どんな同情的な事情があろうとも、「これは村の決まりだから仕方ないんだ。気の毒だが出て行ってくれ」というふうに、追い出される他なかったとのことです。

それは、日本の自然環境下では必要だったからでしょう。そもそも日本には、「和」の思想があったからでもあるでしょう。そんないろんな要素が重なって、日本の集団的特性が、形成されたのだと思います。

日本の「血液型黄金比率」が凄いわけ

そういうなかで、ひとつの見方として持ち出したいのが、「血液型黄金比率」です。
日本の血液型分布は、【A型…38% O型…31% B型…22% AB型…9%】となっています。この数値を調査したのは80年ほど前の事ですし、小数点以下は変化している可能性があるので1~2%ぐらいの曖昧さがあるでしょう。とはいえ、A、O、B、ABの割合が、およそ【4:3:2:1】で構成されているのだと大ざっぱに言うことができます。そして実はこれ、世界でも他に無いのです。

能見俊賢(故)は、各血液型の特性や表現力などを「血液型パワー」として換算すると、最も多いA型を1とすれば、O型はその1.5倍、B型は2倍と見える。従って、実際の力の配分は、いずれも拮抗している、またAB型においても少ないとはいえ1割いることで充分AB型の特質を社会に表現できているのだとし、日本は非常にバランスのとれた血液型分布であると考えました。

また一方で、国家という大きな共同社会を構成する際、異なる特性を持つ各タイプが、整然と一定の割合ずつ存在し、しかもそれが社会性の強い順位(A、O、B…)に並んでいるというのも、これまたよくできたもので、日本の血液型分布は、まさに「黄金比率」といえるのです。

これは偶然か?それとも神の采配か?
しかし、この比率が、いったいいつから続いているのか、古代からのものなのか、歴史のどこかで大きな変動があったのか…。全く分かっておりません。そもそも、人類のABO血液型が、どのような経路と経緯で発生したのか、それさえ未だ謎に包まれたままなのです。

その議論はともかくとして、現在までの日本人という国民性が、世界の中でも特徴的な集団性を持っているというのは世界に知られていることで、そしてそれは、「血液型黄金比率」に関係しているかもしれないと考えているのです。

ABO血液型は、それぞれお互いが影響し合っているので単純には語れませんが、それでも数の多さがある程度、その集団性を特徴づけられるところがあります。

各タイプの集団性をまとめると
  • O型の集団性…敵に対する団結、力の結集。仲間意識。各自の自己主張が強くボス争い、派閥争いは起こりやすい。
  • A型の集団性…ルール、秩序を軸にした協調性、調和性。完全性、安定性を追求した組織づくり。堅固になる一方で型にはまりやすい。
  • B型の集団性…個の力が優先。よほど大きな目的がないと集団的な結束はおこりにくい。
  • AB型の集団性…集団性というよりバランス。集団における力のバランスを調整する存在として機能することが多い。

O型の集団は、明確な敵が存在するときに最も結束します。集団の意思やカラーが明確で主張も強くなります。現実的で実利を重用視する傾向もあります。また、A型の集団は、秩序正しくまとまりやすくなります。O型に比べると理想主義的な面が多くなります。

欧米諸国の多くは、これらO型とA型が8~9割を占めるので、OA社会と言ってよいでしょう。O型とA型は、数の多さからいっても、共に社会性や集団性を強く意識した行動になります。まとまり易さはありますが、思想や文化がある一方向に偏っていく傾向もあります。ヨーロッパ諸国の文明や文化が、わりと統一的で整然としているのは、その理由があると思います。

そして欧米諸国の中でも、O型がやや優勢のイギリスやアメリカは、O型色が強くにじみ出ており、ドイツや北欧などは、A型色が強くなっているのが見てとれます。

ではB型の多い集団はどうかというと、世界の中で、B型が数の上で最多を占める国というのはそう多くありません。世界のB型のほとんどは、ユーラシア大陸の遊牧民がルーツだとも考えられそうで、モンゴルやインド北部、中近東などの多民族国家に集まっています。それらの国ではB型率が3割前後と多くなり、次いでアジア諸国にB型は広がっています。

B型の集団性で考えるなら、彼らは本来、個の力を自由に発揮する方がよほど性に合っていて、国家や組織より遊牧生活を愛する人々なのです。集団性といっても部族単位ぐらいが最もまとまり易いというのが本当のところではないかと思います。

日本はどうでしょうか。
日本は数でいえばA型、O型の順で、この2タイプで7割になります。上の例でいうなら、ドイツや北欧型に近いのですが、日本の場合は、残りの3割にB型、AB型が存在します。AB型は、その性質から調整役で、集団では中立的存在になりそうですが、B型の2割は、多くはないけど少なくもない、意味のある存在になります。

たとえば、10人の会議が行われていて、意見が2つに割れてまとまらないとします。そこへどちらの意見に忖度するでもなく、全く異なる視点で新しいアイディアを提案する人が存在するとしたら、その行き詰った会議は新たな展開に進むことが可能になるでしょう。日本の2割のB型の存在というのは、そんな重要な役割を果たしているのだと思います。

そういう場面でのAB型の役割は、B型の斬新なアイディアをA型やO型が理解できるように翻訳するようなものです。そしてAB型は、それぞれの異なる意見のエッセンスを上手く調合し、よりバランスのとれた形に仕上げるのを得意とします。

これはある意味、4タイプの完璧な合議性であり、完璧な共同創生でもあるのです。各血液型は、その特性が集団において最も機能的に働くように配分されていて、それぞれが、それぞれの役割をあたかも知っているかのように、自然に循環し、完成された形に仕上がっていくのです。

この循環においては、誰も阻害されてはおらず、役割を果たせれば対立は起きにくくなります。いえ現実には、その過程においてはむしろ対立は起こるのですが、4つの血液型の循環性が、それを徐々に融合させてゆくのでしょう。


上の図は、血液型の相関図ですが、ある集団を見るとき、4つのタイプが適度に存在することではじめて循環します。各タイプの役割が上手く機能するためには、上図の矢印が示す相互作用も重要になるでしょう。(リード=おもり関係

こうして、日本の絶妙な血液型バランスは、日本の集団意識を形成する上で非常に大きな意味を持っているのです。これが、O型A型社会の欧米諸国とも、B型の多いアジア諸国とも異なる、日本特有の集団性を形成していると考えます。

これまで、日本は島国で、単一民族で、排他的だという識者たちが多かったように思います。しかし近年のさまざまな研究からは、日本は古代から、外からやってくる移民たちも、文化や宗教も、寛容なくらい受け入れてきたことが分ってきました。ところがそれらは、いつのまにか、日本流にアレンジされるなどして同化し、日本化されてしまったのだといいます。

もし日本に、陰の権力者がいるとするなら!?

ドイツのマルクス・ガブリエルという哲学者は、「日本はソフトな独裁国家のようだ」と分析しています。彼が何を言いたいかをまとめると、「日本という国は、秩序が完璧なほど保たれていて、何もかもが非常になめらかに機能している。その秩序を乱す者がいれば、それを正す役割やあるいは誰というでもなく、それを整える力が自然に働いている。それがソフトな独裁国家なのだ」とのことです。

また彼は、「日本文化は美意識が高くとても発達している。しかし悪い面もある。問題を起こしてはいけないなどの抑圧の力が、人々の精神性までも抑え込んでいる」というようなことも言っています。

確かに、見た目には、彼のいう通りなのです。しかし、ソフトであれ独裁国家というからには、何らかの権力者がそこにはいるはずです。ところが日本には、そんな存在はどこにもありません。そこが日本の摩訶不思議なところ。そのひとつの答えが、日本特有の「血液型黄金比率」による循環システムでは?ということなのです。

たとえば、欧米社会のようなOとAの社会では、集団は一方向へ向かいやすくなります。しかしそれが行きすぎると、あるところで流れをせき止める力が強く働きます。デモや革命はこうした働きによるものです。

あるいはB型の多い社会では、そもそも気ままに暮らしたい人々の、その奔放さを制御するために、全体主義を敷くことがあります。あるいは宗教による統一性を試みたり、あるいは民族同士の争いに始終することも多くなります。

ところが日本は、国民全体が、それこそ円(和)を描くような循環性を形成しているので、いろいろな事象は環の中に徐々に呑み込まれていきます。そして一旦、その循環に乗ると、そこから抜け出すのは案外難しいかもしれません。その環は、完成度が高く、神聖にさえ思えてしまうのです。

ドイツの哲学者がいうように、日本が一見、独裁国家に見えてしまうほど、どこかに陰の権力者がいるとしたら、その正体は、おそらくこの循環の環(日本流にいうなら調和です。)でしょう。あるいは、まるで全体主義国家のような強い集団性が見えるとしたら、それもまた、この循環の環が作用しているからです。

日本はよく、諸外国に比べて何事も決定されるのが非常に遅いと言われています。それは、この循環の環に上手く呑み込まれるまでに時間がかかるからではないでしょうか。さまざまな機関を調整するのに時間がかかり、ある程度の民意を得るのにも時間がかかるのです。ところが調整が終了すると、何もかもが迅速に動き出し、循環の環に完全に取り込まれてゆきます。

または、社会状況の変化によって、すぐに不必要になるものもあるし、いずれ古くなるものもあります。その場合、流れに乗って回転している環の中から、それを取り除くことも容易でなくなってしまうのです。近年、IT化の流れで世界の動きはどんどん速くなっていますが、日本がこの数十年の流れにすっかり乗り遅れているように感じるのは、そんな理由があるのかもしれません。

つまり、その"循環の環"というのは、結局のところ、日本人の"総意"ということではないでしょうか。国民は、政府や行政の批判をしたり、権力者が好き勝手にやっていると思いがちですが、日本の場合、他国に比べると、そうした権力の集中は思ったより強くないのです。それよりも循環の環(=総意)の方が、よほど強力なのです。権力者も含めて、全てがこの循環の環の中にいるからです。

このように、「血液型黄金比率」を考えながら日本の特殊な集団意識を見ていくと、以上のようなことが言えるのです。

それに、たとえ血液型のことを考えなくても、日本人の集団意識の特殊性は、多くの人が感じていることでしょう。そしてこれは、ある面では良く働き、ある面では悪く働いています。そのプラスとマイナスの両方を、我々日本人自身が、嫌というほど感じているかもしれません。

しかし私は、ひとつの希望を持っています。今まで私たちは、これらがあまりにも無意識に行われていたので、そうとは知らずに、成り行き任せに、循環の環(=総意)を形成していました。けれどこの事実を理解して、私たち日本人が、もっと意識的に循環の環を形成し、賢く利用したとしたらどうでしょう。間違いなく、プラスの作用を増大させることになるでしょう。それは、日本が次のステップへ飛躍する道ではないかと思います。


2020-09-20

神秘的な「Y染色体」が持つ意味と可能性

 Y染色体は何万年たっても薄まらない?


日本の皇室は、初代天皇とされる神武天皇御即位の皇紀2680年前から万世一系を維持してきました。ところが近年、皇位継承資格者が少なくなってきたことで女系天皇容認論がいわれるようになり、2004年には有識者会議が開かれ、皇位継承問題として今も論争が続いています。

この問題、ABO血液型とは関係ありませんが、万世一系とは生物学的にいうならY染色体のことでもあり、”DNA”を考える上では全く無縁なことでもない気がしたので、一旦整理しておこうと思ったのです。

今や、いろいろな方が語られているので、『Y染色体』の特殊性について知る人も多くなってきたと思います。これはヒトの23対46本の染色体のうち、男子を決定する遺伝子が座している染色体です。図にあるようにY染色体(対の短い方)は、対になるX染色体とはほとんど交わらないため、何世代たっても同じY染色体として受け継がれてゆくのです。一方のX染色体は、世代が代わる度に少しずつ交わりながら変化していくので元の染色体はどんどん薄まっていくのです。そのため、女性の時系列を調べるときにはミトコンドリアが使われます。

何でも最近のゲノム時系列の研究によると、現在のサラブレッドの95%が、1700年に生まれたダーレーアラビアンという一頭の種馬であることが判明したそうです。ただしサラブレッドの場合は、皇室の万世一系のように誇れることというより、遺伝子の多様性が低くなることへの懸念の方が取りざたされているようなのですが。

(上図は、Willで発信した竹内久美子さんの解説動画からお借りしました)



最終的には国民がどうありたいのかが問われる

話を皇位継承に戻すと、2680年もの間、このY染色体が受け継がれてきたと考えると、やはり万世一系によって日本の皇室が保たれ、それが国体を担う要となってきた意味は大きいのだと思います。

もちろん、神武天皇のDNAを調べることが出来ない今、100%正当性を証明することはもはや不可能です。研究者の中には、2度ほど皇位奪取された可能性があるという説を唱える人もいるようです。しかし知り得ようがないとはいえ、万一、百歩譲って、そういう史実があったとしても、それで万世一系を崩壊させて良いと考えるのはあまりに短絡的でしょう。

それに、そうはいってもまさかその時代、そこいらへんで畑仕事をしている農夫の子どもを連れてきたわけではなかろうし、その時の朝廷と全く縁もゆかりもない人物が天皇になったとは考えにくいわけです。

女系天皇を容認するということは、まさに、そういうことが起こってしまう恐れがあるということです。例えば、ワタシに息子がいたとして、仮に突然変異的に優秀な子だったとしてもいいですが、何らかのご縁で皇位継承者のどなたかと恋愛関係になり、結婚したとします。すると、ワタシの息子のY遺伝子が受け継がれてゆくようになるわけです。そして同時に、ワタシの父の系譜が以後、皇室となってしまうわけです。例えがあまりに酷くて申し訳ありませんが、極端にいえばそういうことで、それはいかがなものかと、誰もが思うことでしょう。

また、ゲノムだのY染色体だの、当時は知りようもなかったではないか。それなのに後からこじつけた論理で正当性を訴えるのはおかしいという方もいるようですが、そこはやはり、人間の歴史や知恵というものをあまり低く見てはいけないのであって、例えば薬草などの効用なんかも、その組成など科学的には知り得なかった時代でも、現代人以上に古代の人は解っていたという事実など、溢れるほど存在するのです。

実際に私たちは、近年代々の天皇陛下をご拝見していて、国民が尊敬するご人格と品格を、かくも期待する以上にお持ちになられていらっしゃることを充分承知しているのです。そこに真実が存在するのであって、そうだとすれば、あとは私たち国民が、天皇と国民という信頼関係の長い歴史をふまえて、何を基軸にしたいかということになるだろうと思います。

最終的には、国民がどうありたいのかであり、私たちひとりひとりの意思が問われることになのではないでしょうか。

遺伝子をあなどるなかれ

ここでまた遺伝子に話を戻すと、このY染色体について、ゲノムが解析された当初は、性別を決める遺伝子以外の意味は他に何もなくて、ガラクタ遺伝子の集まりのように考えられていました。ところがこれも最近、他にも重要な働きがあるかもしれないことが分ってきたというのです。

こうやって、何度も何度もガラクタ説をくつがえされると、結局私たちの身体には、必要のないものなどひとつもないのだと考える方が、ずっと真実に近いのではないかと確信してきます。それに、ある遺伝子はひとつの働きだけでなく、必要に応じて多様な働きをしている可能性もあるのです。

そして更に重要なことは、遺伝子は、あらゆることを記憶しているということです。単なる機械のパーツのように機能しているだけではないのです。何千年、何万年、それ以上にもっと古来の人類誕生のときから、移り変わる地球環境の中で、その土地で、その地域の文明と文化の中で、その民族で、その一族で、経験してきたあらゆることを、情報として蓄積しながら受け継がれているという考え方です。

遺伝子には、それぞれいろいろな役割があるわけで、たとえばABO遺伝子の場合は、外部とのコミュニケーションや免疫のしくみを担っている可能性があると考えられます。そしてY染色体に関する遺伝子を考えるなら、それはやはり、何かを継承するものを担っている可能性があります。Y染色体が薄まらないのには、人類の進化にとって何か重要な理由があると考えてみた方がいいとも思えます。

そうだと仮定するなら、皇室においてY遺伝子が永遠と受け継がれるということは、天皇とは何たるかを、歪みなく継承するために必須であるということになるでしょう。

今年春、大嘗祭が執り行われました。この神秘的な儀式は、ご即位される新天皇が、神武天皇以来代々の天皇らと、天照大御神らの神々と、お食事を共にし、その叡智を降ろしていただくというものです。そしてここに生きる天皇陛下も含めた我々は、肉体を持っています。それはつまり、天と地のさまざまな情報を入れ込む器のようなもの。器なら何でもいいということではないでしょう。天皇として脈々と受け継がれてきたY染色体には、神々の壮大な叡智を受け取るだけの秘められた何かがあるのだと信じる方が、ずっと自然ではないかと思います。

いずれも私の都合のよい解釈かもしれません。けれど、ABO血液型遺伝子について長年眺めてきた私としては、人間のいまだ解明されない可能性は、想像するよりはるかに大きいのではなかろうかと、常々感じているのです。

いつか…それが100年後か、千年後かは分かりませんが、日本や世界のしくみは少しずつ変わってゆくのでしょう。日本の国体も、永遠に続くものではないかもしれません。けれどそれは、一歩一歩確実に、その歩みを私たちの遺伝子に、しっかりと刻みながら進みたいと願うのです。その歩み方は、何万年後の人類の遺伝子に、受け継がれてゆくのですから。


2018-03-28

細胞は思考するーブルースリプトン博士が到達しようとするその先は?

細胞は賢い!そしてABO血液型も賢く働いている?


以前にもこのブログで簡単に紹介したことがある「思考のすごい力(原題:The Biology of Belief)」という、細胞生物学博士ブルース・リプトン氏の著書を再考察します。

リプトン博士の発見は、生物学における「セントラルドグマ(中心教義)」という概念(現在はこれが強く言われることは少なくなった)を、ある意味覆すことになるものでした。セントラルドグマとは、遺伝子の情報伝達においての中核的な教義で、あらゆる生物の生成は「DNA→(mRNA)→たんぱく質」という一方向の順に情報が伝達されるという基本原理のことです。


そしてリプトン博士自身も、その日その時までは、「セントラルドグマ」に従って研究を進めていたし、生徒たちにもそのように指導をしていました。ところが、生徒たちに教えるためのノートをまとめている最中に、リプトン博士は、はたと気づきます。


「細胞は、DNAの命令に従っているわけではない!」


細胞生物学者である博士は、何年もの間細胞を観察していて、その働きの独立性や知性については充分知っていました。ところが、ある壁(細胞膜)があることで、その神秘を説明して次の展開に進むことができずにいたのです。しかしその瞬間、その鍵を探し当てます。まるで電光が射し込むように…博士の知性の扉が開く瞬間でした。1985年の出来事です。


その後リプトン博士は、医学生の教育現場から医学部研究室に戻りますが、彼は「セントラルドグマ」に異議を唱え始めます。それを他の生物学者らが嫌がったのは言うまでもありませんが…。博士は、何年もかけて「魔法の細胞膜」を説明する方法を改善しながら、"生命の秘密を解く鍵"について訴え続けることになります。

本書が本国で出版されたのは2005年ということは、博士の最初の"気づき"から既に20年もの月日が流れています。その間、博士の理論を裏付けるような研究発表が次々と行われ始めます。そしてヒトゲノム計画(DNAの解読)の終了が発表されたのが2003年。その時、マウスとヒトの遺伝子の数は同じ…つまり、遺伝子だけ調べても人間の複雑さは分からないということが明らかにされたわけですが、本書の発表はその数年後になって、やっとその時を得たということでしょうか。

リプトン博士がこの本を出版したあと、同様の研究者にこう言われたそうです。

「しかし君、これは特に新しい発見というわけではないのじゃないかね?」
細胞学者にとっては、細胞が外部の情報を受け取って内部に伝達しているということも、細胞の賢さも、遺伝子が全ての支配権を握っているのではないことも、既に周知のことなのでした。しかリプトン博士が彼らと違ったのは、その細胞の働きを単なる物質の働きと捉えるのではなく、それが"思考"していていると捉え、それがいったい何を物語ることになるかというところまで、発展させたところにあるのだと思います。

本書を読んで、教義に異を唱えたリプトン博士が味わったその数十年の経緯を見ていると、学者たちというのは、どうしても自分の専門分野を超えない範囲でしか見ない…というか、現状、見れないシステムになっている、というのがよく分かります。「セントラルドグマ」という教義が既に古くなったと分かっていながら、誰も(リプトン博士以外)それについて触れようとしなかったのは、たとえば細胞学者からすれば「細胞が情報の伝達をやり終えたあとのことは、DNAをいじくり回す人がやってくれ、私たちここまでだから…」という感じだからです。お互いの領分は侵さないという不可侵条約みたいなものが、暗黙に了解されているかのような雰囲気です。


ここで本題にもどると…

本書では、細胞ひとつひとつがまるで脳であるかのように、複雑さ極まりなく賢い様を、分かり易く説明しています。"遺伝子が支配していない"という説明では、たとえば細胞からDNAが収められている「核」を取り除いても、細胞はだいぶしばらくの間それまで通りの活動をします。もちろんいずれその細胞は死に至るのですが、それは核からの情報指令が失われたからではなく、再生し増殖する能力が失われたからです。つまり細胞が核にある遺伝子に再生要請をすることで、遺伝子ははじめて情報を生み出すからです。となれば、遺伝子は生命の中核を成す脳というより、むしろ生殖器のようなものである、と博士は冗談めかします。外界の情報を受け取って「これが必要」「それを送れ」と脳のように指令を出しているのは、細胞膜のたんぱく質の方なのです。

そして、我々が生命を維持するのには、内側というよりも外側からの入力が重要であるとも言っています。「環境→細胞表面・細胞膜→核(DNA)→新たなたんぱく質の生成」という順路で生命維持は行われるのだと。
もちろんこれらは留まることなく循環している作業ですから、どれが鶏か卵かというところもあります。博士は、「セントラルドグマ」の古臭い概念を崩したいがために「遺伝子は生殖器のようだ」と言ったのですが、そもそも、どこに中心をおくとか、どこに支配権があるとかいう、一方向的な支配構造概念を、私たちは取り払わなければならないのかもしれません。

こうした考えに似た理論は、生物学者も遺伝学者も、既にいろいろな本に著しているとは思います。けれど同じ現象を観察して説明したとしても、その人の知性や視点によって捉え方は異なり、最初はその差はわずかに思えても、いずれ大きく離れていくことになります。これまでの科学はそんな微妙な分岐点を、あるところで見過ごしながら進んできたのではないかという気がします。


では、するとABO血液型は、この賢い細胞上で、どのような働きをしているのでしょうか?
博士は本書の中では、細胞膜やたんぱく質全般について話しているのであって、ひとつひとつの特徴的な働きや細胞表面についてまでは言及していません。しかし、細胞の膜とその外側における、むしろ環境からの入力をどう処理するかが、私たちの生命を維持したり、活動を制御したり、知性を発達させたりしているのだ、ということは明確に示しています。

何度もお伝えするように、ABO血液型は細胞の表面に乗っかっている糖鎖であり、レセプター(受容体)です。ガラクトース(B型に関与)やNアセチルガラクトサミン(A型に関与)などが、その代表的なものですが、これら糖鎖が外部の情報を細胞内へ受け渡す役割を担っているのです。外側の情報をどのように知覚しどのように受け渡すか、というその鍵は、糖鎖が握っている、ともいえるのです。リプトン博士の言うように、生物としての細胞が思考(信念)を持つならば、ABO血液型のそれぞれも、それぞれの受け取り方、それぞれの振る舞いの中で、何らかの信念形成に関与していると考えられます。


そして今後の研究と可能性

私はこの本を数年前に読みましたが、あらためて再読し、記事をここに再度残そうと思ったのは、昨年終わり頃から放映しているNHKスペシャル「人体」という番組を観たからでした。

この十数年、一方では(今の)科学の限界が言われ続けていました。

「もう充分研究したが、この先何を発見すればいい?人間の頭脳で検証できることは全部やったし、今分からないことはこれからも、人間には分からないのでは?」
ところが、意外なところからその壁を打ち破る方法が生み出されている、ということを、この番組を観て知ったのです。

MRIなどを観る際の画像処理技術が画期的に改善されたことで、今まで部分的にしか観れなかった血液循環の様子など、その範囲が大幅に拡大し、体内を流れる血液の中で実際に何が行われているのかという全体像が明らかになってきたのです。それは驚きでもあり感動でもある光景です。たんぱく質らやレセプターらは、ひとつの情報をキャッチするやいなや、光の速さ(実際、光って見える!)で指令を出し、それらは次々と連携してゆき、体内の総てが共同で連動し合っているという事実を目撃するのです。

こうなってくると、私は××の研究だけしていればいい、とは言えなくなってくることでしょう。もはや、血液の研究者も、脳の研究者も、免疫の研究者も、あらゆる分野の研究者たちが総動員しなければならなくなったのです。人間というのはこの目で見たものしか信じない…という愚かしい信念がありますが、人間による理性ではなく、画像技術が生物学界の不可侵条約を打ち破ったというのですから、少々皮肉でもあるような気がします。
考えてみれば、むしろそれに関わっていない私たち一般人の方が、「部分的な研究じゃなくて、お互い連携し合って研究すればもっとよく解るんじゃないの?」と、ずっと長い間思っていたかもしれません。

とにかく、この全体像を観測できるようになったことで解っていくことは、革命的な人体科学の進歩になるだろうということです。ご覧になった人も多いと思いますが、テレビでは視聴者の身近な関心事にうったえるため、まずは癌の治療法が画期的な解決に至るであろうという点を大きく取り上げていました。それは本当に、多くの人が安堵する、素晴らしいことです!

そしてABO血液型について話を戻せば、この研究に対しても、部分的に調べていたのでは、おそらくいつまで経っても分からないだろうというのを、能見俊賢ともよく話していたことでした。血液学者が血液をどんなに調べても、免疫学者が免疫システムどんなに論じても、遺伝学者がDNAをどんなにいじくりまわしても、何も出てきやしないのです。彼らはいつも、「ABO血液型物質はそんなに重要な働きをしていない」としか言えず、「悪いけど、私たちにはもっとやらなければならない重要な研究がたくさんありますので…」と、鼻で笑って見過ごしてきたのでした。
ところが、こうして全体像が見えてくるようになれば、リプトン博士のように電光に目が覚め、そこに光をあてる学者が出てくる可能性も高くなります。

そしてまた、現在、糖鎖の研究が進み始めていることも、ABO血液型にとっての朗報です。糖鎖研究に関わる研究者たちは、この糖鎖の働きがいかに重要かということを解り始めているのです。おそらく「糖鎖」とインターネットで検索すれば、今はたくさんの情報が出てくると思います。数年前までは、ほとんど情報が無かったし、あってもサプリメント関連で取り上げているような位置づけでしかなかったのです。これについての研究者側の言い分は、細胞にはたんぱく質と糖鎖があるが、糖鎖は次々とその形を変えて複雑なため、観察するのも複製するのも、再現するのも困難だったということです。これもやはり、近年の観測技術の進歩によって次のステップに進めたということなのでしょう。


このようにして、ABO血液型について真に研究できる舞台が、徐々に整いつつあります。

そして、本当の研究が行われたとしたら、今度はその結果をどのように我々が活用するのか、そのことが最も重要なことかもしれません。そのとき訪れるであろう微妙な分岐点を、どうか見誤らないで欲しいと願うばかりです。

リプトン博士の本から話がだいぶそれましたが、リプトン博士の細胞の研究に対する期待もさることながら、私は個人的に…、リプトン博士の物の見方、捉え方に共鳴しています。ですから今後、ABO血液型についても何か示唆を与えてくれるのではないかと期待をふくらませているのです。

実のところ、現在リプトン博士は、研究現場からは退いているようです。おそらく、学会に属していたのでは自分の真の目指すことが出来ないということになったのでしょう。

リプトン博士は、細胞が環境の情報を受け取って独自に"思考している"ということが分かったことで、私たち人間は、その情報の受け取り方次第、その思考の仕方次第で、いかようにもなれる"すごい力"があるということを、生物学者という物理の科学者として理解したのでした。そして人間だけでなく細胞同士がうごめくこの世界は、それが今は目で見えなくても、全てが繋がっている共同体なのだということに焦点をあてるようになります。するとその先へ進むには、もっとスピリチュアル(精神性)な視点を広げなくてはならなくなります。その見方は、いまだに多くの人が避けている道でもありますが、リプトン博士は今、そうしたスピリチュアル的概念に背を向けていた世界に居た一生物学者として、ひと肌脱がなければならぬという思いで啓蒙活動に忙しくしているようです。

私も、ABO血液型遺伝子という物理的な働きにおいては、実証できる(現在の)科学的研究が成されるべきだと考えていますが、実際に私たち人間がこのABO血液型の知識と知恵を活用するためには、スピリチュアル的な概念を理解していかなければならないとも強く思っているのです。

それは私だけが独断でそう思っているのではありません。この研究の創始者、能見正比古も、「愛」をもってしてでなくてはこれを使うべからずと、何度も何度も訴えてきました。しかし能見正比古が、「愛」とか「人間の連帯意識」とか、そういう見えないもの、スピリチュアル的要素を多分に含む観念(能見正比古がスピリチュアルという言葉を意識したかどうかは別として)を土台にして人間を観察していたことを、多くの人は知らなかった(あるいは気に留めなかった)と思います。しかも困ったことに、そっちを強調すると「やっぱりまやかしだ」「トンデモ科学だ」「ただの占い」というふうに、違った方へ矛先が向かってしまうのです。能見正比古は、このどうしようもない思い違いに深く苦悩しながら、著書の最後のほんの隅っこに、その想いを綴っていたのでした。

私自身、そんな迷路のような行ったり来たりのあれこれを、長い間ずっと考えてきたわけですが、これからは、さすがに次のステージに進めるのではないかと希望を持っています。
そのためには、リプトン博士のように、科学とスピリットの橋渡しをするような、あるいは科学と精神性の統合をめざすような、そういう学者がどんどん現れることを楽しみにしているのです。そして、それぞれの血液型の、その血液型にしかない素晴らしい役割や思考、あるいは隠されたスピリットというのを、人々が理解する日を待ち望んでいます。



2017-09-03

科学が先か?意識の進化が先か?


学生時代、学校の授業にすっかり魅力を感じなくなってしまった私は、居眠りするか、ボンヤリするか、そんなふうに毎日時間を持て余して過ごしていました。
そんな授業中のあるとき、相変わらず上の空の私の頭の中で、止めどもなく思考が巡りはじめ、こんなことを考えていたことがあります。

人類が、もしも違う選択をしていたなら、違う進化を遂げたかもしれないじゃない?
地球の状況は今と全然違う形になっていたかもしれないのよね。
人間の見た目だって、違う感じになってたかもしれないじゃない?
お金というものが無い世界になっていたかもしれないし、電話とかの通信手段だって、全然違う形になっていたかもしれないじゃない。
石油を掘り出すなんてことを、もしも誰も思いつかなかったとしたら?
それとは違うエネルギーを発見したかもしれないのよね。

そうよ。人間が何を選択するかってのは、すごく重要なことなのよ!

数年前、ロボット工学博士と話す機会があり、その博士が私にこんな質問をしました。
「もしもロボットが何でも出来るとしたら、どんなことして欲しいですか?」
「うーん、掃除とか洗濯とか家事全般!」
「それはもちろん出来ますよ。他には?」
「そうですねえ、ああ、私の質問に何でも答えてくれる頭のいいロボットが欲しいですね。それが一番欲しいかな?」
「そんなのは最も簡単ですよ」
「へえ、、じゃあ、出来ないことってないんですか?」
「まあ、無いといってもいいかもしれませんね。もちろん、理論的にはですよ。実現させるにはそれなりの道のりがあります。それから、社会が何を求めるかによって、どの技術に力を向けるかというところで、開発の程度も違ってきますね」
「それは利益になるかとか、そういうことも絡んできますよね」
「まあそういうことですね」

目新しモノ好きな私は、ただただ感心するばかりだったのですが、ここ1、2年で、博士の言っていたことが早くも実現しそうなニュースを次々と聞くようになりました。

それはそれで、好奇心的には楽しみでもあるのですが、一方でふと考えさせられることもあります。
科学は本当にそこまで進化したのだろうか?という疑問です。そして、様々な疑念が沸き起こってきます。

たとえば脳のことは?
AIロボットはつまり、人間の脳に変わるものとして開発しているわけですけど、人間の脳について、人類はどこまで分かったのだろう?
シナプスについてホントに理解したの?
人間の身体についてはどうなの?
遺伝子の何が分かったというの?何十歳も若返る薬を開発しているというのを聞いたけど、それをどう使うつもり?
それより、いったいいつになったら癌の治療法が見つかるの?

たとえばね、宇宙旅行っていうけれど、それは私も行ってみたいですけど、そんなの人類が勝手に決めてもいいのかしら?
だって、行った先に誰か先住の者が住んでいたら許可を得るのが礼儀ですよね?
そもそも、火星に生命が居ないっていっていうのを私は信じていないし。
火星の隅から隅まで確認できたわけじゃないのでしょ?
ねえ、ほんとに大丈夫?

何だか、なにもかもが、ものすごく、アンバランスを感じてしまうのです。
本当の進化とは何だろう?
技術の進化だけではないはず。
心、精神の進化は?
私たち地球人は、いまだに戦争しよう、人殺ししようなんて言ってるのに!?
飢餓で死んでしまう人たちがたくさんいる世界ですよ!?

実は、理論上の量子論やAI技術など、一部の科学を除いて「科学」は頭打ちなのが実態。
一見、進歩したように見えるのは、それを技術で補っているからなのです。
医療も、脳科学も、遺伝子工学も、精密な顕微鏡ができたり、スーパーコンピューターができたりしたことで進んだように見えるだけ。
その中身といったら、戦後あたりから大きな進歩はないのです。
何かが欠けているから進歩できない、理解できないのです。

人間が、本気で人間の真実を理解したいと考えたとき。
心を、本気で進化させたいと考えたとき。
この地球と人々を、本気で幸せにしたいと考えたとき。
私たちがそのように、意識を進化させていくことができたなら
行き詰った「科学」は、飛躍的に進化するはず。

AB型的妄想モードに入った私は、憂いる人類の現状を振り払い、
ひたすら、未来の美しい地球を思い浮かべるのでした。

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写真は映画「美しき緑の星」からお借りしました。
PS:この映画を見て、あなたもぜひ「切断」を!!






2017-07-16

自分の意思を表明しない日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

Facebookの「いいね!」で分かったことがある


私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。ずい分と、インターネット通だと思われるかもしれないのですが、きっかけは単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかを問われていたようですが、警戒心の薄弱な私自身は、そういうことにあまり不安はなかったのですが、取り敢えず、それなりに広がりは見せたようです。

そして、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみました。まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう?というような事です。

たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがあります。「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。」というような記事もあったと記憶しています。それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。

まあ、そもそも知り合いの数は少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは…キレイな景色の写真を上げた時、美味しそうな食べ物の写真を上げた時、などです。

私の活動を報告するような投稿は、その次ぐらいに多いように思います。私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。

そして、最も少ないのは、私が自分の意見を主張した時、政治や社会情勢に言及したとき、何らかのメッセージ性のある呼びかけをしたとき、などです。そいうときは、まるでその場から人々がスーッと消えたかのように...もしかしたら、私がその投稿ごと消えたかのごとく、周囲からは見えなくなってしまったように、とにかく、ことごとくスルーされてしまう。

日本人と外国人では”Facebookの使い方が違う”という記事には、”日本人は自分の意見を発言する投稿が少ない”、というような事が書いてありました。

うーん、たしかにそうね…こんなにウケが悪いんじゃあねと、自分の投稿の分析をしながら納得せざるをえません。「そりゃ、単にアンタの投稿内容が悪いだけじゃない?」と、自分自身にツッコミを入れたい気もしなくはないなですが、敢えてそれは無視してやっぱり考えてしまいます。何というか、今流の表現で言えば「空気読めよ!」的なムードさえ感じます。Facebookは社交場であり、公共の場と捉えれば、そういうものかもしれません。

これ以上深読みしても、どこまで的を射ているかわからないので、Facebook分析はこのくらいにして、しかし日常でも、あるいは仕事を通しても、『日本人の意見を表明しない状況』というのをしばしば感じてきたので、いろいろと芋づる式に思い出すです。

日本人の奥ゆかしさには深い秘密があるのかもしれない!?

ある日私は、長年親しんでいるヨガのグルが、インドから訪日するというのでその会場に喜び勇んで行きました。このグルは、世界中に1億人もの支持者がいて、尊敬されるだけでなく、人々にとても”愛されているグル”です。日本では初めての講演ということで、関係者らも相当に頑張ったようで、1000人規模の会場を用意していました。それなりに人も集まっています。集まった方達は、ヨガに関心がある人と、その家族や知人というところでしょうか。ヨガもグルもインドが拠点なので、日本に滞在しているインド人たちも2割ぐらいきています。

グルから平和な世界へ向けた講話があり、話のクライマックスに、会場の皆んなにこう呼びかけました。
「平和を愛し、実現するという人は、手をあげて下さい!」

私は即座に、元気良く、小学生のように「はい!」と手を挙げたのですが、何とも白けたことに、私と同じ人は会場の2割ぐらいです。そして残りのうち半分くらいの人が、恐る恐る「ハ…ィ」と、いかにも遠慮ぶかげに反応していたのでした。つまり、手を挙げなかった人も4割くらい居たわけです。元気よく手を挙げた人々というのは、結局ほとんどがインド人たちというわけです。

「あらまあ…そうなの?」と私が不審に思って周囲を観察していると、グルも微笑みながら、穏やかな口調ではありましたが、こういいました。

「ここでは、全員に手を上げて欲しかったんですけど・・・」
そりゃあ、そうですよね!?

平和に賛同するかどうかの意思表明ですよ。考え込む余地は無いと思うし、誰に責められることも、責任を問われることもないのです。だからといって、日本の人々は平和を望んでいる人が少ない?とも思えないのです。

私は、あの時の残念さというか、摩訶不思議さというか、もやもやした気分を、今でもよく覚えています。日本の人たちはこんな時にも、自分の意思を表明することをためらうのでしょうか?私の感覚では、グルの今回の講和の意図とこの会場の目的を考えたとき、賛同の意を表明しない方が、よほど空気が読めていない気がするのでした。

私は、『日本人の本当の気持ち』が表明されない、そんな歯がゆい経験を度々重ねながら、いつか、その根幹を追求し、日本人を見つめ直したいという思いが、ずっとありました。もちろん日本人をイタズラに非難したいわけではないのです。それにここで「日本人」と表現しているのは、個々の人を指しているのではなく、『日本人の集合意識』です。

そしてこの、日本人の不思議な感性を客観的に眺めてみる。冷静に観察すれば、これらはある種の調和性というか、協調性の変形とも見えます。周囲の状況をよく吟味してから一歩を踏み出すという、慎重さの表れのようでもあります。またある種の、奥ゆかしさとも捉えることが出来ます。

そんなふうに見直していけば、決してネガティブな面だけというわけでもなさそうで、『自分の意思を表明しない状況』には、コインの表と裏のような面があるのかもしれません。

では、こういう日本の集団的特性において、血液型との関係はどうなのでしょう。一見すると、そういう奥ゆかしさ的な感じはA型性を想像するかもしれませんが、安易には語れないところもままあります。集団意識としては、他の血液型も同調しているに違いないからです。
集団的特性に対する血液型ごとの反応の違いは、日本人としての集団的特性を理解した上で考えなければならないのかもしれません。

結局、今のところ、考えても答えは見つかりそうにありません。

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2017-07-09

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part2


数日前に書いた、伊豆山神社のお参りお道中の続き、ということで今日は「Part2」を載せたいと思います。
「続き」といいますのは、伊豆山神社には、もっと奥に”本宮”があるということが分かった次第で、まあ、いずれにしても前回は、あまりにも思いつきで行ったため、下調べもせず、また服装や靴の準備も不十分だったものですから、再挑戦しようと思っていたのです。
資料館の脇に、それらしき道があります。
結構な、道のりのようです。
説明を見る限り、1時間ほどかかります。
「修行のための道であったため、険しい道が続きますのでしっかりした服装で!」というような注意書きも。

大丈夫です!
今日は覚悟して参りましたよ。

トキは、朝の6:40分!
出発します!
わぁ~~
とはいえ、ほんとだわ。

このような感じの山道が、永遠と続くようです。
この時間ですから、人っ子一人おりません。

「あ、忘れた~~」
準備万全といいましたけど…
虫刺され防止スプレーが必要だったみた。
蚊がすごいです。

AB型は、O型に次いで蚊にさされやすいらしいのです。
私も本当に、蚊に好かれます。

フーッ
登って、登って…登って…
20分くらい歩いたのかナ…

小さな神社を祭ってあります。
すこ~し
休憩させてもらいました…

…が、長く留まっていると蚊にさされます。
とにかく、まだまだ、
どこまでも、登り続けるようです。

もしかして、半分くらいは来たのかしら?
という当たりに、石が
←こんな風に積みあがっていました。

みんなやっぱり、この辺りで
あーあー、まだなのかしら~
という感じで、一息つくのかな?

何も無い山道で、こうして、人が歩いた形跡を見つけると、ほっと、安心します。(アリガトウ)
それより私は
自分でも自信を持って方向音痴なので
(…というか、とにかくなぜか、人と違った方に進みたがる行動傾向にあるのです。←これは、AB型のせいではないんだと思うのだけど。)

ああーー、でも良かった。
こういう道しるべに出会ったということは
一応、行くべき道へ進んでいるということですよね。
もう少しなのかなあ…
でも、頭は空っぽだし、息は絶え絶えだし、携帯を取り出して、時間を見る気もしないし、もちろん写真を撮る気になんかに、ならない。
立ち止まると、蚊が集まってくるし、、、無心で歩き続けました。

ああ、もしかして
着いたのかもしれない?
「ここからは聖域です」
という小さな看板が…

そして向こうには入口らしき鳥居も見えます!!
わーぃ

心なし、足どりが早くなるワタシ



しかし、やはり喜びすぎるのは、誤りでした。
あー、ホントに、ワタシという人は、いかんせん、早とちり早飲み込みが多い!
いくつになっても改善されない悪癖~
どうやら、ここから、更に上に登るような雰囲気です。
留目の、最後の道のりか!
ようやく、今度こそ到着です!!
無事に、本宮に、たどり着くことができた。

伊豆山神社本宮は、静かに、ひっそりと佇んでおりました。


トキは、朝の8:00頃

太陽も高く顔を見せてくれました!

1時間も山道をハイキングしたのは…
もしかすると、中学生の時、以来かもしれません。

近くに富士山を頂く伊豆の山々は、何か、神聖な空気が漂っています。
今日は満月。
何もかもが満たされています。感謝ー

2017-07-03

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part1




梅雨の晴れ間
伊豆山神社にお参りに行ってきました。

熱海に移り住んでおよそ1年。
散歩コースの途中にある来宮神社ぐらいしか行ったことがなかったのですが
熱海の人から「伊豆山神社という由緒ある神社があるよ」と聞いていたので
一度行ってみたかったのです。
そのオジサン曰く「すご~~い長い階段の参道だよ、大変だよ、バスで近くまで行った方がいいな」
私曰く「その参道を登るからイイんじゃないの?」

そんな会話が交わされてから、半年も経ってしまいました。

その日の早朝、「よし!バイクで行くぞ~」と思い立ち
私の相棒、原付バイクでGo!

ナビで場所を確認すると所要時間は10分くらい。
すぐじゃん!
方向音痴だけど着けたゾ(途中道を一本間違えて戻ったけど…)

ここだわ!
ああ、確かに、由緒ありそうな雰囲気。

階段は170段と書いてありました。

「な~んだ、そんなに長くないじゃない」
オジサンの話を思い出した私は、安易にそう思いました。

*本殿前です。
写真を撮りたかったのですが、赤ちゃんを抱いたご夫婦が楽しそうに撮影されていたので遠慮しました。
私は近くですからいつでも来れます。

*茅の輪くぐり
くぐり方⇒こちらで参照
八の字に「左に回り→右に回り→左に回り」とくぐります。
心身を清めるのだそうです。
この八(8)(∞)の字まわりというのは
本当に意味があるんですよ。
円を描くことで時空のエネルギーに乗れるのです。

*光る石!
座ってなでなでしてみました。


*この高さから見える景色です。
気持ちがい~い

少しのんびり楽しみたいところですが、仕事もあるし(オンライサロンの準備をしなくちゃ!)、本日は帰ろうっと!

ということで、170段の階段をおります。

おーし、帰るぞ!
と駐車場に停めた私の相棒に声をかけ
エンジンをかけます。

……ぶ~~----ん...
……ぶ~~----ん...あれ?
……ぶ~~----ん...か、かからない!?
あららら。

まあ、実は初めてのことではありません。
相棒は、そろそろお年も召してきまして、ときどきそういうことがあるのです。
久しぶりの登り坂全開エンジンだったので、疲れちゃったんですね。
う~ん…と、下り坂を、エンジンなしで自転車のように転がす…という方法もある!
が…、あーだめ、だめ!
この場所でそれを試すのは、さすがにリスキーよ。
道はどっちを見ても狭く険しそうな上り下りが入り乱れており
万一かからなかった場合…どうすんの?

仕方ないので、1時間ほど時間をつぶして待ってみることに。
で、飲み物でも買おうかと、鳥居の向こう側を見渡すと…
あれ?
この、下に長く降りている階段は、何だ?

よく確かめると、この階段も参道らしい?

私は「そっか!」
と、オジサンとの会話を再度思い出しました。
大変って、、、この階段のことを言ってたんだ。
ははは…

じゃ、私はあれですね
オジサンお勧めの、ショートカットをしたってわけですねwww(ナビはいろんな意味で、エライね~)
←ほれ、ちゃんと書いてあるじゃないサ

OK~
どのみち相棒を休ませる時間が必要なんだ。
よしゃ、降りて、そして登ってこようじゃないのさ!

参道を登る覚悟で、その為に、せった履いてきたんだから!(?)
それに、あのオジサンに万一会ったら
「行きましたよ!もちろん長い参道を登りましたよ!」
と言ってやらねばなりません。


そういうことで
降りて↓登る↑覚悟で階段を見下ろしますと…

う…
ぜんぜん先が見えない…
(先が見えない、っていうのは、AB型的には、とても辛いんです)


あれ~まだ?終わりが見えないじゃん!


どこまで続くのか…。



お、もしかして、このアングルが最後?
あの先に見えるのは道路?

そしてその先に海が~

見えた~
先が~

終わりの「先」が見えたら、急に元気になりました。(AB型だよ、あまりにも)

この後、この長~い階段を、登るんですけどねえ。
でも、先の見えない階段を下り続けるより
ぜーんぜん、苦にならないわけですよ...
(わぁ~~アタシったら、AB型全開じゃん!)

で、登り↑↑↑↑ましたよ。
途中息切れして、2度ほど立ち止まりましたけど。
下から、ひとり、おじさんが、スタスタ登ってきていました。
(元気いっぱいに…;)追い抜かれる勢いです。

猫ちゃんも一緒に登ってきたみたい…
あんた、涼しそうな顔してさ、息切れしてないの?
…猫が息切れしてるのはあんまり見たことない。

…しないの?


フ~~~~
登ったーーー



1時間ぐらいは経ったかなあ…

私は、相棒のエンジンをかけてみました!
…プス ……プス …
あーーあ、まだ、だめじゃん!!
どうするかなあ…

と考えあぐねているところ
後ろから女性が驚く声が…
「あらあら~大丈夫!!?」

振り返ると、男の人が倒れている?
老年の女性が慌てて駆け寄っています。
私も行ってみました。

あら?もしかして
さっき、私を追い越す勢いで、あの長ーーい参道の階段を登っていたおじさん?

どうやら立ちくらんで、倒れて、頭を打ったみたい…
「大丈夫、いや大丈夫!」とおじさん。
私とおばあちゃんで、「あ、あ、すぐに起き上がったらだめよぅ、、、」
騒ぎに気付いた近所の女性らもやってきて…
でも、救急車、、、までは要らないみたいな様子。
駅で友人たちと待ち合わせているので連れもいらっしゃるみたい。
その女性らが、親切に、ドライアイスを持ってきてくれて、念のためと近くの大きな病院の電話番号も渡してくれました。

おじさん曰く「いやあね、昨日のみ過ぎちゃってさ、この参道一気に登ってさ、アルコール飛ばそうと思ってさ」
私曰く「飛ばないでしょーーよ」

「ははは、アルコールじゃなくてさ、頭が飛んじゃったよ」

でしょうよ。

で、おじさんはタクシーに乗り
私もとりあえず相棒を置き去りにして、一旦バスで我が家に戻ることにしました。

その後、ひとりぼっちにしたら可愛そうなので、夕方相棒を迎えに、もう一度行きました。(バスで!!)
10時間も休ませてあげたんだからね~
絶対…とは言い切れませんが、私は相棒を信じています!

ハ~イ!
エンジンOK!
ようやく無事に一緒に戻ることが出来ました!

フ~~ッ
なんだか、変なリズムになっちゃた時のAB型に、ありそでなさそな、チグハグな一日でした。(うまく説明できませんが)

でも、相棒も、あの急坂を、頑張ってくれたのです。
おじさんの、ヘンテコなジョークも聞けましたし、たぶん、、頭の方も大丈夫でしょう。

そして、ココ、ご縁の神様に、「オンラインサロンで出会うだろう方たちに、一緒に光を送って下さい」と、お願いもできました。

まあ、ヨシ、としようか、ね。

(by Ichikawa)

2017-05-15

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”



近頃、日本人について、つくづく考えています。その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえといえばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを感じざるを得ない、と思うことが、しばしばあるのです。だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれませんね。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもプンプンするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、わたしもそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろんわたしは、心の中では思っています。「…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいな」と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。


『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

わたしもそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同時に、重度の記憶喪失現象に陥っているのかもしれない、とも思い始めました。

そういえば、かつては”黄金の国ジパング”と呼ばれたこともあり、”神の国”と呼ばれたこともあったわけです。もちろん、できるなら今でもそう呼びたいところですが、今の我々日本人が、とうにそういう意識は薄れ、そんな呼び方をしてよろしいものかという、懸念というか、後ろめたささえあるものだから、「かつて」と言わざるを得ません。

その上、今となっては、なぜに何をもってして、”黄金の国”だったのか、”神の国”だったのか、言い伝えの根拠はまちまちで、断言するほどの勢いも無いわけです。だからと言って今更、黒船が…、敗戦が…、教育が…と、いろいろ理由を挙げたとしても、誰かのせいにするのはいかがなものか、とも思います。結局は、我々日本人自身が、どんな経緯にも責任をもたねばならないのです。

それで行き着くところ思うのは、とにかく日本人は、重度の「記憶喪失」現象を起こしていることを、認めることが先決のような気がするのです。日本人が重度の「記憶喪失」現象に陥っていると、半ば確信を持ったのは、とあるデータを閲覧したときです。それは「社会実情データ図録」というサイトで、本川裕さんという方が日本や世界のさまざまな統計データを収録、分析してくれているものです。ここで目にとまったのは「神の存在、死後の世界を信じるか?」というものです。

さて、日本人はどうかというと、神の存在も、死後の世界も、「信じる」という回答が少ないとあります。そしてもうひとつ、日本人の特徴は、「わからない」と回答する率が非常に多いという事です。この、「わからない」「どちらともいえない」という回答の多さは、日本人特有の傾向なのだそうで、それは他の設問においても、常に多いらしいのです。

本川氏は、この日本人の曖昧さを、『和』や『中庸』の精神だろうと分析しており、わたしもそれには納得するのですが、別の側面から見ると、正直なところホントに「わからない」のではないかとも感じているのです。それはまさに、「記憶喪失」者の回答そのものでもあるからです。

そう言っておきながら、記憶喪失者に会ったことは無いので、自分がもしそうなったらと想像するだけですが、記憶が封印された箇所について訊かれても、そうであるような無いような…というように、モヤモヤと曖昧で「わからない(=覚えていない)」と回答するしかなのではないかと…、そう考えたからです。

それでその、モヤモヤした中で、「黄金の国?」「神の国?」と、(?)マークを付けながらも、薄っすらではあっても、あながち単なるホラではないかも?という思いが、日本人の心の奥底に漂っているのかもしれない、という気もしているのです。これに関連して「神、宗教心」について本川氏がコラムを別途掲載しています。「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」

本川氏の解説を参考にしながらざっくり考えると、日本人は、「宗教的な心は大切だけれど、現存の教義は今ひとつ不確かで、信心するに至らない」ということなのかもしれません。少し言い換えると、日本人は、信心するべき”何か”、があるような気はしているのだけれど、今のところそれが何かはよく分からない、と考えているのだという感じでしょうか。まあだから、何度も言うのはしつこいですが、重度の「記憶喪失」現象に陥っているからではないかと。

ここまで書いてきて、血液型の話から、ずいぶん遠のいた感があるかもしれないですが、実はこの、日本人の曖昧さ加減(=記憶喪失現象)が、「血液型人間学」への扱われ方にも、たいへんよく似た状況を起こしてきたのです。

血液型と人間性には、”何か”、ただならぬ関係があるような気もするけれど、それが何なのか、明確に証明するお墨付きも無いし、今のところ曖昧にしておくのが無難、というような感じです。

記憶喪失”現象”という言い方をしているのは、内容によっては、実際に記憶を喪失していることもあると思うのですが、白黒つけようもなく分からないので記憶喪失のフリをしている、という意味合いも含んでいます。

そして血液型人間学に関して言えば、最初に研究した古川竹二さんまで遡ればおよそ100年ですが、能見正比古が事実現象を公開し、一般の人々に知られるようになって46年。これだけ人々に広まっていながら、およそ半世紀もの間、この曖昧さに対してとことん追求しようとする向きは一向に訪れず、宙ぶらりんのまま今に至っているのです。

それに、先代の能見俊賢にしても、わたしにしても、こうした日本人的性質にむやみに抵抗しないよう、ゆるやかに進めてきた、というところもあります。タラレバ話をするなら、B型の能見正比古がもっと長く生きていたなら、私(AB)や能見俊賢(A)のように”ゆるやかに”とはならなかったかもしれません。そもそも研究した張本人でありますし、あのB型的な勢いで邁進し続けたなら、今とは状況が変わっていたのかもしれません。

とはいえ、”時のカミ”がいるのだとしたら、タラレバを言うのは無意味なことで、それは起こるべきときに起こるのですから、全ては流れのまま進んできた、ということなのでしょう。

話は日本人が記憶を喪失した「神」に戻ります。ここ数年、スピリチュアルなことに若い人たちが強い関心を示すようになっているようです。私の住処の近くに在る有名な神社など、休日ともなれば中高年者と同じくらい若いカップルたちも多くて、正月並みの行列になるほどの賑わいぶりなのです。だからといって、そういう人々が信心深く、神がかっている、という風にはもちろん見えなくて、誰もが、お祭りに来ているようなはしゃぎようと気楽さなのです。

まあ、深読みするなら、こうした流行は、それがたとえ無意識であっても、もしかしたら、失った記憶を思い出そうとする、日本人の集合意識から発生している現象なのかもしれません。とにかく、こうして日本人のことを考え始めるときりがないし、とどのつまり何が言いたいのか、分からなくなってしまうことが多いのです。

さてこの、およそ意味不明な文章を締めくくるのに、10年前なら、「いつか、真実が分かる日がくるのでしょうか?」とでも書いたかもしれません。ところが今は、これまでとちょっと違う気がしています。真実が分かる日が、何やら刻々と、近づいている気配もしているからです。

「神の存在」について、あるいは「血液型人間学」についても、ある日、真実が分かる(思い出す)その時がやってきたら、日本人総記憶喪失現象からやっと抜け出せる、ということになるのでしょうか。




2016-08-23

チャップリン「史上最高のスピーチ」A message to the humanity

リオ五輪を終えて

閉会式は始終、歌と踊りで埋め尽くされ、ブラジルらしく終わりました。
今回のテーマは「多様性を認め合い世界を一つに!」

今世界では、物騒な出来事も多発しています。
それを理由に軍備を強化しようなどというどこぞの動きもありますが
人々の心は今、世界平和へ一直線に進んでいるのです。
私たち人類が存続する道は、もう他にないのだから。

第二次世界大戦最中に上映されたチャールズ・チャップリンの映画「独裁者」。
最後のスピーチが数年前からYutubeでよく見かけるようになりました。
世界中が、こんなに平和や愛を求めている時代は、これまで無かったように思います。
今、世界がひとつになろうと、懸命になっている。

チャップリンの血液型はO型だと判明しています。
チャップリンがたまたま不名誉な裁判を強いられ、親子鑑定を行った経緯があったので
広く知られることになったようです。
(もちろん、当時の技術で正しい検査が行われていればの話ではありますが。後で再検査をして間違いだったという例もたまにあります。)

ここではただただ、このスピーチの素晴らしさを記憶にとどめておきたいのでチャップリンを紹介したのですが、O型が真の愛を追求するなら、だれよりも温かい"愛の人"であることもまた、間違いのないことなのです。

日本語訳がされている動画はこちら。
素晴らしい翻訳をして下さった翻訳者の方にお礼を言います。




英語では"A message to the humanity"というタイトルで、いくつかのバージョンで動画がUPされています。