コロナ禍で改めて見えた日本人の集団性
今年(2020年)早々に起こった新型コロナウィルスによる世界的パンデミック。まさかウィルスひとつがこれだけ世界中を騒がせ、あらゆる活動を停止させてしまうとは、想像もしなかったことです。
およそ6カ月が過ぎて、ようやくこのウィルスについて理解し始め、各国がだいぶ落ち着きを見せてきたこの頃ですが、冷静に振り返ってみると、日本国の感染状況というのは、世界の中ではずいぶんマシだったようです。
その理由は諸説あり、未だに議論は決着していないようですが、とにかく欧米諸国は多いところでは100万人あたり5~600人の死亡者が出ているというのに、日本は100万人あたり10人程度という少なさなのです。(アジア地域は日本と同じように死亡者数が少ないようです。)
そうした疑問はさておき、とにかく日本に限って言えば、実は大量の感染者を受け入れるなどの医療体制や、防疫に対する対応が、あまりにも整っておらず、医療崩壊の危険は常にあったそうです。そのためむやみにPCR検査を増やすことも避けてきましたし、また、一定期間の非常事態宣言を行ったとはいえ、他国のような強制力はほとんどなく、一貫して国民への自粛要請のみでした。
日本政府の対応は、遅すぎる、甘すぎるなど、批判も多くありましたが、にもかかわらず、この結果に抑えられていることに、欧米諸国などからはむしろ賞賛されているのです。それは、さまざまな災害時の時に見られた、日本人の民度の高さだとも言われています。まあ、褒められるのは喜ばしいことですが、この間の日本の状態を改めて振り返ってみようと思います。
確かに、政府の「要請」だけで日本国民は、充分に外出を避けて自粛していたように思います。そして、どこへ行っても外でも中でも、特に街なかは100%に近い人がマスクを着用していました。これにはさすがに呆れるほど驚きますが、実際のところ、そうするより仕方ないムードが国中に漂っているのです。
たとえばワタシなどは、人の少ない地域に住んでいるのもありますが、「外を歩くときまでマスクは不要」という考えで、マスクを常にしているわけではありません。しかし店などに入ろうというときには、入り口に「マスク着用」と書かれていれば尚更だし、周囲を見渡して小さな子どもたちまで健気にマスクをしている姿なんかを見ると、仕方ないなと、やおらポケットからマスクを取り出し、内心「ホントに必要?」なんて思いながらも、やはり協調する気持ちの方を優先させてしまいます。
普段「オレの勝手だろ」なんて感じで生きてる人でも、「自分がうつらないためでなく、人にうつさないためだ」なんて言われてしまうと、結構日本人は納得してしまうんですね。そういう利他的なところは、やはり日本人の良さなんだろうなと思ったりします。
しかし一方で、自粛警察とか、マスク警察とか、過激な行為もありました。また、都会から離れた地方の地域においては、他県ナンバーの車を見つけると傷をつけたり、東京から家族が里帰りしているのが近所に知れると「帰れ!」と叫ばれたりして、万一、その地域で感染者にでもなったら、もうそこには住めないぐらいの雰囲気になるらしく、中には本当に引っ越してしまった家族もあったそうです。
これにはちょっと行き過ぎの感じがします。米国のようにデモや騒ぎが起こったり、中国武漢やイタリアのような医療崩壊の危機に陥ったりの騒動はほとんどありませんでしたし、メディアが不安を煽り続ける中でも、政府に対する不満がありながらも、全体的にはいたって静かに、みんなでマスクをつけて、手洗いをして…、淡々と、自粛が行われていたのでした。そういう中で、陰湿な面も、見え隠れしていたということです。
こうしたことの、プラス・マイナスを含めて、全て日本的な集団性というものかもしれません。それは良しにつけ悪しきにつけ、日本古くからの集団意識の特性といえるのだと思います。
日本は少し前まで、「村社会」とも言われていました。更に昔に遡れば、「村八分」というのが「制度」としてちゃんと存在した村々も結構あったのです。それは、変り者を仲間外れにして村中で"いじめる"という感情的で低俗なものではなく、村人たちが争いことをなくし、暮らしを安定させるに必要なルールとして、皆が合意の上で制度化させたものでした。
ですから、村のルールを破ったら、その者自身も、そこでは生きられなくなることを充分承知していたのです。それはかなり厳格なところがあって、どんな同情的な事情があろうとも、「これは村の決まりだから仕方ないんだ。気の毒だが出て行ってくれ」というふうに、追い出される他なかったとのことです。
それは、日本の自然環境下では必要だったからでしょう。そもそも日本には、「和」の思想があったからでもあるでしょう。そんないろんな要素が重なって、日本の集団的特性が、形成されたのだと思います。
日本の「血液型黄金比率」が凄いわけ
そういうなかで、ひとつの見方として持ち出したいのが、「血液型黄金比率」です。
日本の血液型分布は、【A型…38% O型…31% B型…22% AB型…9%】となっています。この数値を調査したのは80年ほど前の事ですし、小数点以下は変化している可能性があるので1~2%ぐらいの曖昧さがあるでしょう。とはいえ、A、O、B、ABの割合が、およそ【4:3:2:1】で構成されているのだと大ざっぱに言うことができます。そして実はこれ、世界でも他に無いのです。
能見俊賢(故)は、各血液型の特性や表現力などを「血液型パワー」として換算すると、最も多いA型を1とすれば、O型はその1.5倍、B型は2倍と見える。従って、実際の力の配分は、いずれも拮抗している、またAB型においても少ないとはいえ1割いることで充分AB型の特質を社会に表現できているのだとし、日本は非常にバランスのとれた血液型分布であると考えました。
また一方で、国家という大きな共同社会を構成する際、異なる特性を持つ各タイプが、整然と一定の割合ずつ存在し、しかもそれが社会性の強い順位(A、O、B…)に並んでいるというのも、これまたよくできたもので、日本の血液型分布は、まさに「黄金比率」といえるのです。
これは偶然か?それとも神の采配か?
しかし、この比率が、いったいいつから続いているのか、古代からのものなのか、歴史のどこかで大きな変動があったのか…。全く分かっておりません。そもそも、人類のABO血液型が、どのような経路と経緯で発生したのか、それさえ未だ謎に包まれたままなのです。
その議論はともかくとして、現在までの日本人という国民性が、世界の中でも特徴的な集団性を持っているというのは世界に知られていることで、そしてそれは、「血液型黄金比率」に関係しているかもしれないと考えているのです。
ABO血液型は、それぞれお互いが影響し合っているので単純には語れませんが、それでも数の多さがある程度、その集団性を特徴づけられるところがあります。
各タイプの集団性をまとめると
- O型の集団性…敵に対する団結、力の結集。仲間意識。各自の自己主張が強くボス争い、派閥争いは起こりやすい。
- A型の集団性…ルール、秩序を軸にした協調性、調和性。完全性、安定性を追求した組織づくり。堅固になる一方で型にはまりやすい。
- B型の集団性…個の力が優先。よほど大きな目的がないと集団的な結束はおこりにくい。
- AB型の集団性…集団性というよりバランス。集団における力のバランスを調整する存在として機能することが多い。
O型の集団は、明確な敵が存在するときに最も結束します。集団の意思やカラーが明確で主張も強くなります。現実的で実利を重用視する傾向もあります。また、A型の集団は、秩序正しくまとまりやすくなります。O型に比べると理想主義的な面が多くなります。
欧米諸国の多くは、これらO型とA型が8~9割を占めるので、OA社会と言ってよいでしょう。O型とA型は、数の多さからいっても、共に社会性や集団性を強く意識した行動になります。まとまり易さはありますが、思想や文化がある一方向に偏っていく傾向もあります。ヨーロッパ諸国の文明や文化が、わりと統一的で整然としているのは、その理由があると思います。
そして欧米諸国の中でも、O型がやや優勢のイギリスやアメリカは、O型色が強くにじみ出ており、ドイツや北欧などは、A型色が強くなっているのが見てとれます。
ではB型の多い集団はどうかというと、世界の中で、B型が数の上で最多を占める国というのはそう多くありません。世界のB型のほとんどは、ユーラシア大陸の遊牧民がルーツだとも考えられそうで、モンゴルやインド北部、中近東などの多民族国家に集まっています。それらの国ではB型率が3割前後と多くなり、次いでアジア諸国にB型は広がっています。
B型の集団性で考えるなら、彼らは本来、個の力を自由に発揮する方がよほど性に合っていて、国家や組織より遊牧生活を愛する人々なのです。集団性といっても部族単位ぐらいが最もまとまり易いというのが本当のところではないかと思います。
日本はどうでしょうか。
日本は数でいえばA型、O型の順で、この2タイプで7割になります。上の例でいうなら、ドイツや北欧型に近いのですが、日本の場合は、残りの3割にB型、AB型が存在します。AB型は、その性質から調整役で、集団では中立的存在になりそうですが、B型の2割は、多くはないけど少なくもない、意味のある存在になります。
たとえば、10人の会議が行われていて、意見が2つに割れてまとまらないとします。そこへどちらの意見に忖度するでもなく、全く異なる視点で新しいアイディアを提案する人が存在するとしたら、その行き詰った会議は新たな展開に進むことが可能になるでしょう。日本の2割のB型の存在というのは、そんな重要な役割を果たしているのだと思います。
そういう場面でのAB型の役割は、B型の斬新なアイディアをA型やO型が理解できるように翻訳するようなものです。そしてAB型は、それぞれの異なる意見のエッセンスを上手く調合し、よりバランスのとれた形に仕上げるのを得意とします。
これはある意味、4タイプの完璧な合議性であり、完璧な共同創生でもあるのです。各血液型は、その特性が集団において最も機能的に働くように配分されていて、それぞれが、それぞれの役割をあたかも知っているかのように、自然に循環し、完成された形に仕上がっていくのです。
この循環においては、誰も阻害されてはおらず、役割を果たせれば対立は起きにくくなります。いえ現実には、その過程においてはむしろ対立は起こるのですが、4つの血液型の循環性が、それを徐々に融合させてゆくのでしょう。
上の図は、血液型の相関図ですが、ある集団を見るとき、4つのタイプが適度に存在することではじめて循環します。各タイプの役割が上手く機能するためには、上図の矢印が示す相互作用も重要になるでしょう。(リード=おもり関係)
こうして、日本の絶妙な血液型バランスは、日本の集団意識を形成する上で非常に大きな意味を持っているのです。これが、O型A型社会の欧米諸国とも、B型の多いアジア諸国とも異なる、日本特有の集団性を形成していると考えます。
これまで、日本は島国で、単一民族で、排他的だという識者たちが多かったように思います。しかし近年のさまざまな研究からは、日本は古代から、外からやってくる移民たちも、文化や宗教も、寛容なくらい受け入れてきたことが分ってきました。ところがそれらは、いつのまにか、日本流にアレンジされるなどして同化し、日本化されてしまったのだといいます。
もし日本に、陰の権力者がいるとするなら!?
ドイツのマルクス・ガブリエルという哲学者は、「日本はソフトな独裁国家のようだ」と分析しています。彼が何を言いたいかをまとめると、「日本という国は、秩序が完璧なほど保たれていて、何もかもが非常になめらかに機能している。その秩序を乱す者がいれば、それを正す役割やあるいは誰というでもなく、それを整える力が自然に働いている。それがソフトな独裁国家なのだ」とのことです。
また彼は、「日本文化は美意識が高くとても発達している。しかし悪い面もある。問題を起こしてはいけないなどの抑圧の力が、人々の精神性までも抑え込んでいる」というようなことも言っています。
確かに、見た目には、彼のいう通りなのです。しかし、ソフトであれ独裁国家というからには、何らかの権力者がそこにはいるはずです。ところが日本には、そんな存在はどこにもありません。そこが日本の摩訶不思議なところ。そのひとつの答えが、日本特有の「血液型黄金比率」による循環システムでは?ということなのです。
たとえば、欧米社会のようなOとAの社会では、集団は一方向へ向かいやすくなります。しかしそれが行きすぎると、あるところで流れをせき止める力が強く働きます。デモや革命はこうした働きによるものです。
あるいはB型の多い社会では、そもそも気ままに暮らしたい人々の、その奔放さを制御するために、全体主義を敷くことがあります。あるいは宗教による統一性を試みたり、あるいは民族同士の争いに始終することも多くなります。
ところが日本は、国民全体が、それこそ円(和)を描くような循環性を形成しているので、いろいろな事象は環の中に徐々に呑み込まれていきます。そして一旦、その循環に乗ると、そこから抜け出すのは案外難しいかもしれません。その環は、完成度が高く、神聖にさえ思えてしまうのです。
ドイツの哲学者がいうように、日本が一見、独裁国家に見えてしまうほど、どこかに陰の権力者がいるとしたら、その正体は、おそらくこの循環の環(日本流にいうなら調和です。)でしょう。あるいは、まるで全体主義国家のような強い集団性が見えるとしたら、それもまた、この循環の環が作用しているからです。
日本はよく、諸外国に比べて何事も決定されるのが非常に遅いと言われています。それは、この循環の環に上手く呑み込まれるまでに時間がかかるからではないでしょうか。さまざまな機関を調整するのに時間がかかり、ある程度の民意を得るのにも時間がかかるのです。ところが調整が終了すると、何もかもが迅速に動き出し、循環の環に完全に取り込まれてゆきます。
または、社会状況の変化によって、すぐに不必要になるものもあるし、いずれ古くなるものもあります。その場合、流れに乗って回転している環の中から、それを取り除くことも容易でなくなってしまうのです。近年、IT化の流れで世界の動きはどんどん速くなっていますが、日本がこの数十年の流れにすっかり乗り遅れているように感じるのは、そんな理由があるのかもしれません。
つまり、その"循環の環"というのは、結局のところ、日本人の"総意"ということではないでしょうか。国民は、政府や行政の批判をしたり、権力者が好き勝手にやっていると思いがちですが、日本の場合、他国に比べると、そうした権力の集中は思ったより強くないのです。それよりも循環の環(=総意)の方が、よほど強力なのです。権力者も含めて、全てがこの循環の環の中にいるからです。
このように、「血液型黄金比率」を考えながら日本の特殊な集団意識を見ていくと、以上のようなことが言えるのです。
それに、たとえ血液型のことを考えなくても、日本人の集団意識の特殊性は、多くの人が感じていることでしょう。そしてこれは、ある面では良く働き、ある面では悪く働いています。そのプラスとマイナスの両方を、我々日本人自身が、嫌というほど感じているかもしれません。
しかし私は、ひとつの希望を持っています。今まで私たちは、これらがあまりにも無意識に行われていたので、そうとは知らずに、成り行き任せに、循環の環(=総意)を形成していました。けれどこの事実を理解して、私たち日本人が、もっと意識的に循環の環を形成し、賢く利用したとしたらどうでしょう。間違いなく、プラスの作用を増大させることになるでしょう。それは、日本が次のステップへ飛躍する道ではないかと思います。