自分の意思を表明しないという日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

Facebookの「いいね!」で分かったことがある


私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。
ずい分と、インターネット通なのかとと思われるかもしれないのですが、きっかけは、単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかというところを問われていたようですが、取り敢えずそれなりに広がりは見せたようです。
いずれにしても、私は、そういうことにはあまり不安はなかったのですけどね。
どの道、ネットを利用する以上そのリスクは覚悟の上のはずだし、実名を明かす事に、何故それほど警戒するのか、私には不思議なくらいのことなのです。
かといって、私にとってこのツールはインドネシアの活動の様子がリアルタイムで見られる、というのが目的なわけだから、それ以上には、まったく使いこなしていなかったわけです。

ただ、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみたのです。
まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう?
などというような事です。

たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがありますし、「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。特に若い人は、、」というような記事もあったと記憶しています。

それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。

まあ、そもそも知り合いの数はごく少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないのですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは…
・キレイな景色の写真を上げた時
・美味しそうな食べ物の写真を上げた時
などです。

また、私の活動を報告するような投稿に対しても、その次ぐらいに多いように思います。
私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。

そして、最も少ないのは
・私が自分の意見を主張した時
・政治や社会情勢に言及したとき
・何らかの、メッセージ性のある呼びかけをしたとき
などです。

そうなんです。面白いことに、私の意見的なものだったり、どこかメッセージ性のある投稿に対しては、まるで、その場から人々がスーッと消えたかのような...もしかしたら、私がその投稿ごと消えたがごとく、周囲からは見えなくなってしまった?のかもしれないのですが、とにかく、ことごとくスルーされてしまうのです。

先ほど、日本人と外国人では”Facebookの使い方が違う”という記事があると書きましたが、そこには、”日本人は自分の意見を発言する投稿が少ない”、というような事が書いてありました。

うーん、たしかにそうよね…こんなにウケが悪いんじゃあ、ね。
と、自分の投稿の分析をしながら、納得せざるをえないのです。

ここで、「そりゃ、単にアンタの投稿内容の質が悪いだけじゃない?」と、自分自身にツッコミを入れたい気も、しなくはないなですが、敢えてそれは無視して、やっぱり考えてしまいます。

何というか、今流の表現で言えば
空気読めよ!的なムードさえ感じてきます。
ここFacebookは、社交場であり、公共の場、なのかもしれません。(そう捉えている人が多そうですが)

まあ、そもそも空気に馴染むのが苦手な私が、これ以上深読みしても、どこまで的を射ているかわからないので、Facebook分析はこのくらいにしようと思うのですが、私は、私の日常でも、あるいは私の仕事を通しても、『日本人の意見を表明しない状況』というのをしばしば感じてきたので、いろいろと、芋づる式に思い出すこともあるのです。

日本人の奥ゆかしさには深い秘密があるのかもしれない!?

ある日私は、長年親しんでいたヨガのグルがインドから訪日するというので、その会場に喜び勇んで行きました。
このグルは、世界中に1億人もの支持者がいて、尊敬されるだけでなく、むしろ人々に”愛されているグル”という感じの方なのですが、日本では初めての講演ということで、関係者らも相当に頑張ったようで、1000人規模の会場を用意していました。
それなりに人も集まっています。
集まった方達は、ヨガに関心がある人と、その家族や知人というところでしょうか。
ヨガもグルも、インドが拠点なので、日本に滞在しているインド人らもたくさんおります。(2割ぐらい?)

そして、グルから平和な世界へ向けた講話があり、話のクライマックスに、会場の皆んなにこう呼びかけたのです。
「平和を愛し実現するという人は、手をあげて下さい!」

私は、即座に元気良く、まるで小学生みたいに「はい!」と思い切り手を挙げたわけですが、何とも白けたことに、私と似たような人は会場の2割ぐらいでしかなく、残りのうちの半分くらいの人が、恐る恐る、「ハ…ィ」と、いかにも遠慮ぶかげに反応していたのでした。
つまり、手を挙げなかった人も、4割くらい居たわけで、その上、元気よく手を上げた人というのは、結局ほとんどが、インド人たちのようでした。

「あれ?そうなの?」
と私が不審に思っていると、つかさずグルも、微笑みながら、穏やかな口調ではありましたが、こういいました。
「ここでは、全員に手を上げて欲しかったんですけど」

そうですよね!?
平和に賛同するかどうかの意思表明だけなんですから。
考え込む余地は無いと思うし、誰に責められることも、責任を問われることもないことなのです。
かといって、日本の人々は平和を望んでいる人が少ないとは、到底思えないのです。

私は、あの時の残念さというか、摩訶不思議さというか、もやもやした気分を今でもよく覚えています。
日本の人たちは、こんな時にも、自分の意思を表明することをためらうのか…。
私の感覚では、グルの講和の意図と、この会場の目的を考えたとき、賛同の意を表明しない方が、よほど空気が読めていない気がするのでした。

私は、『日本人の本当の気持ち』が表明されない、そんな歯がゆい経験を度々重ねながら、いつか、その根幹を追求し、日本人を見つめ直したいという思いが、ずっとありました。
それは日本人を、イタズラに非難したいわけではないのです。
それにここで「日本人」と表現しているのは、個々の人を指しているのではなくて、『日本人の集合意識』に言及しているのだということも言っておきます。

そうして、その『日本人』の不思議な感性を、客観的に眺めてみるわけですが…
冷静に観察すれば、これらは、ある種の調和性というか、協調性の変形とも見えます。
周囲の状況をよく吟味してから一歩を踏み出すという、慎重さの表れのようでもあります。
またある種の、奥ゆかしさとも捉えることが出来ます。
そんなふうに見直していけば、決してネガティブな面だけというわけでもなさそうで、『自分の意思を表明しない状況』には、コインの表と裏のような面がありそうだと思えてくるのです。

まあとにかく、答えがありそうでなさそうな思いで月日を経ながら、ここ数年、いく種類かの本や文献に出逢いました。
それぞれには、日本という国の成り立ちにおいて、非常に重要な事柄が書いてあります。
一冊一冊について説明を加えると、とてつもなく長くなってしまうので内容にまでは触れませんが、いずれも、”日本の隠された部分”というのを垣間見ることができ、ある程度、現在の日本人の集団的性質を説明可能にするものではないかと思います。

この文献らは、いずれもこれまで、表に出ることはありませんでした。
かといって完全に隠されていたわけでもないのですが、意思を持って探さなければ見つからない類のものでした。
  • 竹内文書
  • カタカムナ文献
  • 日月神示
  • オイカイワタチ
私は、これらから、いくばくかの...というと頼りないけれど、自分なりの結論のようなものを出してみました。

私が思うに、どうやら、日本人の奥ゆかしさとか調和性とかは、日本という地に生まれ来る民に与えられた、一種特有の役割のためであったらしい、ということです。

ところが、世界が間違った方向へ進む中で、それは歪められ、捻じ曲がり、その役割を果たす場面は徐々に失われたのです。

それでも尚、その特性だけは永遠と、この地に、あるいは遺伝子に、保存されており、今の歪んだ社会のあらゆる場面においても表出されています。

ところがそれは、いずれ再び、生かされるかもしれないという可能性を秘めている、というものです。

これらの本について知っている方は、もしかしたら、それなりに賛同してくれるかもしれません。
知らない人でも、日本の特有さを一度でも考えたことがある方なら、それほど突飛な結論ではない、と思ってもらえるかもしれません。

そして思うのです。
変化の時を迎えている今、その、本来、日本人ならではの、使い方によっては素晴らしいともいえる特性を、生かす時が来ているのではないでしょうか。

では、こういう日本の集団的特性において、血液型との関係はどうかと考えますと、おそらく、全体的にはそれは関係なく起こっているようです。
人間社会というのは、より大きな集団的特性の方が最優先されるようにデザインされているのかもしれません。
一見すると、そういう奥ゆかしさ的な感じはA型性を想像する人もいるかもしれませんが、安易には語れないところもままあるのです。
集団意識としては、他の血液型も同意し同調しているに違いないからです。
集団的特性に対する血液型ごとの反応の違いというのは、日本人の集団的特性を理解した上で考えなければならないのだと思います。

このブログではそっちの方が肝心なのですが、それについては、別の機会に、別の場所で、書こうと思っています。

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