2017-07-16

自分の意思を表明しない日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

Facebookの「いいね!」で分かったことがある


私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。ずい分と、インターネット通だと思われるかもしれないのですが、きっかけは単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかを問われていたようですが、警戒心の薄弱な私自身は、そういうことにあまり不安はなかったのですが、取り敢えず、それなりに広がりは見せたようです。

そして、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみました。まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう?というような事です。

たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがあります。「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。」というような記事もあったと記憶しています。それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。

まあ、そもそも知り合いの数は少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは…キレイな景色の写真を上げた時、美味しそうな食べ物の写真を上げた時、などです。

私の活動を報告するような投稿は、その次ぐらいに多いように思います。私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。

そして、最も少ないのは、私が自分の意見を主張した時、政治や社会情勢に言及したとき、何らかのメッセージ性のある呼びかけをしたとき、などです。そいうときは、まるでその場から人々がスーッと消えたかのように...もしかしたら、私がその投稿ごと消えたかのごとく、周囲からは見えなくなってしまったように、とにかく、ことごとくスルーされてしまう。

日本人と外国人では”Facebookの使い方が違う”という記事には、”日本人は自分の意見を発言する投稿が少ない”、というような事が書いてありました。

うーん、たしかにそうね…こんなにウケが悪いんじゃあねと、自分の投稿の分析をしながら納得せざるをえません。「そりゃ、単にアンタの投稿内容が悪いだけじゃない?」と、自分自身にツッコミを入れたい気もしなくはないなですが、敢えてそれは無視してやっぱり考えてしまいます。何というか、今流の表現で言えば「空気読めよ!」的なムードさえ感じます。Facebookは社交場であり、公共の場と捉えれば、そういうものかもしれません。

これ以上深読みしても、どこまで的を射ているかわからないので、Facebook分析はこのくらいにして、しかし日常でも、あるいは仕事を通しても、『日本人の意見を表明しない状況』というのをしばしば感じてきたので、いろいろと芋づる式に思い出すです。

日本人の奥ゆかしさには深い秘密があるのかもしれない!?

ある日私は、長年親しんでいるヨガのグルが、インドから訪日するというのでその会場に喜び勇んで行きました。このグルは、世界中に1億人もの支持者がいて、尊敬されるだけでなく、人々にとても”愛されているグル”です。日本では初めての講演ということで、関係者らも相当に頑張ったようで、1000人規模の会場を用意していました。それなりに人も集まっています。集まった方達は、ヨガに関心がある人と、その家族や知人というところでしょうか。ヨガもグルもインドが拠点なので、日本に滞在しているインド人たちも2割ぐらいきています。

グルから平和な世界へ向けた講話があり、話のクライマックスに、会場の皆んなにこう呼びかけました。
「平和を愛し、実現するという人は、手をあげて下さい!」

私は即座に、元気良く、小学生のように「はい!」と手を挙げたのですが、何とも白けたことに、私と同じ人は会場の2割ぐらいです。そして残りのうち半分くらいの人が、恐る恐る「ハ…ィ」と、いかにも遠慮ぶかげに反応していたのでした。つまり、手を挙げなかった人も4割くらい居たわけです。元気よく手を挙げた人々というのは、結局ほとんどがインド人たちというわけです。

「あらまあ…そうなの?」と私が不審に思って周囲を観察していると、グルも微笑みながら、穏やかな口調ではありましたが、こういいました。

「ここでは、全員に手を上げて欲しかったんですけど・・・」
そりゃあ、そうですよね!?

平和に賛同するかどうかの意思表明ですよ。考え込む余地は無いと思うし、誰に責められることも、責任を問われることもないのです。だからといって、日本の人々は平和を望んでいる人が少ない?とも思えないのです。

私は、あの時の残念さというか、摩訶不思議さというか、もやもやした気分を、今でもよく覚えています。日本の人たちはこんな時にも、自分の意思を表明することをためらうのでしょうか?私の感覚では、グルの今回の講和の意図とこの会場の目的を考えたとき、賛同の意を表明しない方が、よほど空気が読めていない気がするのでした。

私は、『日本人の本当の気持ち』が表明されない、そんな歯がゆい経験を度々重ねながら、いつか、その根幹を追求し、日本人を見つめ直したいという思いが、ずっとありました。もちろん日本人をイタズラに非難したいわけではないのです。それにここで「日本人」と表現しているのは、個々の人を指しているのではなく、『日本人の集合意識』です。

そしてこの、日本人の不思議な感性を客観的に眺めてみる。冷静に観察すれば、これらはある種の調和性というか、協調性の変形とも見えます。周囲の状況をよく吟味してから一歩を踏み出すという、慎重さの表れのようでもあります。またある種の、奥ゆかしさとも捉えることが出来ます。

そんなふうに見直していけば、決してネガティブな面だけというわけでもなさそうで、『自分の意思を表明しない状況』には、コインの表と裏のような面があるのかもしれません。

では、こういう日本の集団的特性において、血液型との関係はどうなのでしょう。一見すると、そういう奥ゆかしさ的な感じはA型性を想像するかもしれませんが、安易には語れないところもままあります。集団意識としては、他の血液型も同調しているに違いないからです。
集団的特性に対する血液型ごとの反応の違いは、日本人としての集団的特性を理解した上で考えなければならないのかもしれません。

結局、今のところ、考えても答えは見つかりそうにありません。

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