2018-04-02

映画「ウィンストンチャーチル/ヒトラーから世界を救った男」を血液型的に観てきました

チャーチルB型説を推す理由

写真はWikipediaより/本人の写真です
映画「ウィンストンチャーチル/ヒトラーから世界を救った男」(アカデミー主演男優賞受賞、メイクアップ賞受賞…/作品賞ノミネート…)が日本で上映されたので観てきました。

チャーチルの血液型について、ネット上でO型という情報もあるようですが、確かなことは判っていません。
能見正比古・俊賢は、両者とも、「B型だろう」と予測していましたが、歴史に疎い私も、映画で観るなら何とかついていけるかもしれないと思い、上映初日、早速映画館に足を運んだ次第です。それに今回、この映画はアカデミー賞主演男優賞受賞、作品賞ノミネートなど、欧米諸国で高く評価されていると聞き、それなりに実像に忠実に描かれている可能性が高いかもしれない、とも思いました。

さて、ウィンストン・チャーチルという男。
第二次世界大戦時に英国首相として君臨し、その名を世界中に轟かせた男であります。
戦後70年経った今現在、若い世代にとってはそれほど関心のない人物かもしれませんが、戦時中そして戦争の名残を知る人たちにとっては、マッカーサーと並んで、あのヒトラーを倒した男として、よく知られる人物であったのでした。

ゲイリー・オールドマンの演技に見る、いかにもB型的挙動
映画を観ての結論を言うと、チャーチルはB型ではないかと、私も2人の師匠と同じように思いました。
この映画では、第二次世界大戦最中、チャーチルが首相に任命されるところから間もない数週間に焦点を当てています。
ヒトラー率いる独国がヨーロッパ全土を征服するかの危機を目前に、英国議会は融和政策を推進しているチェンバレン首相の退任を図り、その後任にチャーチルを推します。
「誰を首相に任命するか?」「まさか、あの男に?」
既に65歳になっていたチャーチルは、軍歴、政治経験をそれなりに持つ人物でしたが、周囲からは「あいつか…」と危惧されるような、しかし「あいつしかいない…」と思われるような、誰もが認める異端児だったのです。

映画の中で、チャーチルが国王と会食をする場面がありますが、チャーチルが自身のことを「私は嫌われているのです」と言います。それに対して国王は「君が恐れさせているからではないのか」と問います。国王は、チャーチルが人を恐れさせる理由を、「何を言い出すか、何をしでかすか分からないからだ」といいます。
チャーチルがもしO型なら…政治家を目指すようなタイプのO型なら、周囲の信頼を得られるような足固めを、味方をたくさん作る為にもっと人間関係に神経をはらうような、堅実さがあるのではないかという気がします。

そしてチャーチルは、国民が貧困に陥っている戦時中だというのに、最高級の葉巻を手放さず、昼から高級ワインを飲んで昼寝をし、状況に合わせて己のスタイルを変えるようなことは決してしないマイペースぶり。そうかと思えば、やけに涙もろいところがあり、ふとした場面では温かい人情味を見せたりもします。

演技派俳優として評価の高いゲイリー・オールドマンが演じるチャーチルは、目つきやしぐさ、その挙動、全てにおいてよく研究され尽くしているに違いなく、その演技がリアルな印象を与えます。チャーチルが、やや背をまるめ、何やらせわしく早歩きをする癖なども、伝聞によればその通りで、そっくりだそうです。仕事に取り憑かれたB型男が、まさにそんな挙動になっているのを、たしか私も見かけたことがあるのです。

また映画にはもう1つ、B型を象徴するようなセリフがありました。
「彼は100のアイディアを持っている、そのほとんどはとんでもないアイディアだが…」
B型は、自分の興味関心のあることに対して、それへののめり込みようと型にとらわれない柔軟な思考で、「これはどうか」「あんなのはどうか」と、常に頭を忙しく働かせ、たくさんのアイディアを思いつくのです。

挙国一致内閣を掲げて悪者ヒトラーに徹底抗戦で望みたいチャーチルですが、議会はいまだ団結するに至らず揺れ動いていました。国の、国民の、未来が掛かっている瀬戸際で、さすがのチャーチルも苦悩しますが、地下鉄で市民の声を直接聞き、人々の気持ちを確認した彼は、やはり徹底抗戦すべきという確信に至ります。そして有名な「勝利宣言」演説で議会を集結。国民も政府も、そして国王も、チャーチルの決断に全てを託す…という場面で映画は終わります。

ここでチャーチルの経歴をもう一度見直してみます。
チャーチルは、子どもの頃から青年に至るまで、どうやら勉強はまるきし苦手で嫌いだったようです。その上病弱でスポーツもダメ。ところがそういう中で軍事訓練は大のお気に入りで、フェンシングや射撃は得意。あるいは文章を書くことを好んだようで、後に家計を助ける事情もあって数十冊もの本を出し、ノーベル文学賞を受賞するまでの文才ぶり。

小さい頃からチャーチルは、戦争の戦術や戦略を立てることに、強い興味を持っていたようです。そして実際に軍隊に入ると、まるで水を得た魚のように精力的に活動しますが、突拍子もない戦略で、隊を危機に陥れたりすることもしばしばあったようです。彼がB型だったと考えるなら、O型やA型の多い英国軍隊で、B型の発想や意図を理解してついていくことは難しかったに違いなく、それが失敗を招いていた要因でもありそうです。
また周囲からは、「彼は戦争をゲームとしてしか考えていない奴」というふうにも見られていたそうです。確かにそのように思えないでもありません。何かに興味関心を持ったB型は、仕事や義務の領域を遥かに超え、それに熱中し、のめり込み、傍から見れば、それはいかにも、"楽しんでいる"という状態に見えるからです。

そしてなぜ今、チャーチルなのか?
アカデミー賞にノミネートされたことで話題になったこの映画。しかし、「なぜ今頃、チャーチルなのだろう?」と、私は少し不思議に思いました。(その謎は解けませんが、まずは棚上げにして話を先に進めます)

現在、テロや核の脅威などはいまだ収まらず、"戦争"という言葉が巷やニュースにウロつくこともあるには違いないですが、実際の私たち庶民の思いはどうでしょう。今の20代、30代の若い人々に、「いざとなれば戦争だ!」などと、時代遅れも甚だしい、そんな心境になることが果たしてできるでしょうか?それは欧米諸国の若者たちにしても同じだと聞いています。世界中を見渡せば今も紛争中の地域はあります。けれど彼らも、紛争が終わることは望んていても更に広がることは望んでいないに違いありません。実際、第三次世界大戦などが万が一始まったとしたら、地球上の人間は全ておじゃん!全員地上から消えてしまいます。それは世界各国の最高軍部で何度もシミュレーション済みであり、だから決してやらない(やれない)のです。やるのだとしたら、「誰が何のために?」という、あまりに愚かな問いに答えねばなりません。だから間違ってどこかの小国がそれを始めようとしたら、それに応戦するほど愚策なことは無く…(おっと、話がそれましたが)
…とまあ、そういう時代に、私たちは生きています。

しかし、70年前までは違っていました。
自分たちの祖国を守るために、自由を手にするため、誰からも奪われないために、ひとりひとりの市民の中にも、「戦う」準備は常にできていたという時代です。
今の世代にいる私たちが、チャーチルの言動、チャーチルのしてきたことをまじまじと見るなら、彼はただの、”戦争ごっこ”に憑りつかれた”戦争好きな男”にしか映らないかもしれません。しかしそれが、ヨーロッパ諸国の革命と抗争に明け暮れた末に起こった、ナチスヒトラーのあの脅威、あるいはスターリン共産主義の激流に晒されそうになる、あの時代だったからこそ、チャーチルの奇才は活かされ、必要とされ、英雄となったのでしょう。(尤も、チャーチルが今の時代に生きていたら、違う形でその才能を活かしていたかもしれませんが)

しかもあの時代、英国議会に入閣できるのは貴族階級だけ。チャーチルはちゃきちゃきの貴族であり、英国国王を敬愛し、覇者大英帝国の誇りに生きるという、そういう素性の男でもありました。それに加えて彼は歯に衣を着せぬ人。自分の考えを正直すぎるぐらいズバズバと発言したり、本に書いたりしていたので、当時の同僚貴族たちでさえ苦々しく思っていたようです。今の私たちがそれを聞いたり読んだりすれば、あまりの暴言ぶりに唖然としてしまうに違いありません。
それなのに不思議です。
チャーチルの資料を集めて読んでみたり、昔の写真を眺めたりしていると、どこか憎めない…というか、親しみさえ湧いてくる気がします。映画のオールドマン演じるチャーチルを観ていても、貴族といえど貴族らしいツンとしたお高さは、チャーチルには感じられません。そういうものではなく、彼の場合、正直さ故の傲慢さ、飾らないが故の無邪気さ、という彼の素の性分の方がはるかに強いように思えました。

チャーチルは、非常に英国民に支持されました。支持…というより、とにかく人気があったのです。政策面だけで言うなら、チャーチルの無謀なアイディアや作戦に、被害を被った労働市民も数多くいたわけで、けして万人に高く評価されていたわけではなかったのでした。ところが、彼がラジオで演説したり、彼が人々の前に立ったりすると、人々は期待でいっぱいになり、親しみを込めて喝采するという、非常に大衆的人気を博した、摩訶不思議な存在であったようです。
こうして書きながら…ある政治家を思い出し、妙に重なるので思わずクスっと笑ってしまいました。1960年代あたりを覚えている人ならピンとくるかも…そう、あの人、田中角栄さん(以前記事を書きました)!
角栄氏はB型でした。
何だか、材料を集めれば集めるほど、チャーチルB型説が色濃くなっていくようですが。
…さて、みなさんはどう思うのでしょう?


※大衆に「ようよう」と手を挙げる2人のB型首相。

ずっと見てたら、岡本太郎さん(B型?)にも似てるような気がしてきました。(チャーチルはピカソにも褒められるほどの絵の才があったそうです)※岡本太郎さんの血液型については、1970年代に能見正比古が調査をしてB型という回答を得ていますが、現在O型という情報があります。いずれが正しいかは確定できておりません。

映画の見どころ、他にもあります!
今回のこの映画、もうひとつの見どころは、チャーチルのメイクアップです。
これには、何と素晴らしいことに、日本人のアーティスト辻一弘さんがアカデミー賞メイクアップ賞を受賞しました。オールド氏は、「彼が引き受けないなら私もこの役は引き受けない」とまで言ってオファーしたそうです。
辻さんの技術の凄さはずっと以前からハリウッドではよく知られていたらしく、周囲からすれば、「おお、やっと取ったね!」という感じもあったとか。そうとは知らずに驚いていたのは日本人だけだったかも…。
ほんとにすごいんですよ!


左上がゲイリー・オールドマン。この方が、辻さんにかかると下のようなチャーチルになってしまうんです。
映画ではチャーチルの顔をドアップにするシーンも頻繁にありますが、本当に自然な動きだし、知らなければメイクしているとは気づかないのではないでしょうか。
(辻さんの血液型も知りたくなりますね。それから、オールドマンさんの血液型も、ぜひ知りたいところです。)


私は早く観たかったので映画館に足を運びましたが、映画は広大な自然風景が出てくるわけでもなく、全てのスポットをチャーチルにあてて淡々と進みますので、DVDでも充分に鑑賞することができそうです。

更に、私にとって、個人的な関心どころもありました。
英国というのは、日本が極東なら極西に位置するとも言え、同じ島国でも日本とは正反対に位置するようなお国柄です。初めてロンドンを訪れた時、よく日本の人たちが言うインドなどのカルチャーショックとはちょっと違う、思想的、精神論的違いともいえるカルチャーショックを感じたのを覚えています。そのせいか、英国の情報というのは日本にあまり入ってこないのですね。せいぜい王室とシャーロックホームズ、それから最近ではハリーポッタぐらいでしょうか。とにかく彼らは、長く世界の覇権国家として君臨しただけのことはある、独特の感受性で世界を観ているところがあります。
この映画では、英国人のそんな不思議さも垣間見ることができるかもしれません。特に、当時の議会の進め方など、非常にユニークな雰囲気が漂っているのですが、それもまた、ちょっとした見どころかもしれません。


2018-03-28

細胞は思考するーブルースリプトン博士が到達しようとするその先は?

細胞は賢い!そしてABO血液型も賢く働いている?


以前にもこのブログで簡単に紹介したことがある「思考のすごい力(原題:The Biology of Belief)」という、細胞生物学博士ブルース・リプトン氏の著書を再考察します。

リプトン博士の発見は、生物学における「セントラルドグマ(中心教義)」という概念(現在はこれが強く言われることは少なくなった)を、ある意味覆すことになるものでした。セントラルドグマとは、遺伝子の情報伝達においての中核的な教義で、あらゆる生物の生成は「DNA→(mRNA)→たんぱく質」という一方向の順に情報が伝達されるという基本原理のことです。


そしてリプトン博士自身も、その日その時までは、「セントラルドグマ」に従って研究を進めていたし、生徒たちにもそのように指導をしていました。ところが、生徒たちに教えるためのノートをまとめている最中に、リプトン博士は、はたと気づきます。


「細胞は、DNAの命令に従っているわけではない!」


細胞生物学者である博士は、何年もの間細胞を観察していて、その働きの独立性や知性については充分知っていました。ところが、ある壁(細胞膜)があることで、その神秘を説明して次の展開に進むことができずにいたのです。しかしその瞬間、その鍵を探し当てます。まるで電光が射し込むように…博士の知性の扉が開く瞬間でした。1985年の出来事です。


その後リプトン博士は、医学生の教育現場から医学部研究室に戻りますが、彼は「セントラルドグマ」に異議を唱え始めます。それを他の生物学者らが嫌がったのは言うまでもありませんが…。博士は、何年もかけて「魔法の細胞膜」を説明する方法を改善しながら、"生命の秘密を解く鍵"について訴え続けることになります。

本書が本国で出版されたのは2005年ということは、博士の最初の"気づき"から既に20年もの月日が流れています。その間、博士の理論を裏付けるような研究発表が次々と行われ始めます。そしてヒトゲノム計画(DNAの解読)の終了が発表されたのが2003年。その時、マウスとヒトの遺伝子の数は同じ…つまり、遺伝子だけ調べても人間の複雑さは分からないということが明らかにされたわけですが、本書の発表はその数年後になって、やっとその時を得たということでしょうか。

リプトン博士がこの本を出版したあと、同様の研究者にこう言われたそうです。

「しかし君、これは特に新しい発見というわけではないのじゃないかね?」
細胞学者にとっては、細胞が外部の情報を受け取って内部に伝達しているということも、細胞の賢さも、遺伝子が全ての支配権を握っているのではないことも、既に周知のことなのでした。しかリプトン博士が彼らと違ったのは、その細胞の働きを単なる物質の働きと捉えるのではなく、それが"思考"していていると捉え、それがいったい何を物語ることになるかというところまで、発展させたところにあるのだと思います。

本書を読んで、教義に異を唱えたリプトン博士が味わったその数十年の経緯を見ていると、学者たちというのは、どうしても自分の専門分野を超えない範囲でしか見ない…というか、現状、見れないシステムになっている、というのがよく分かります。「セントラルドグマ」という教義が既に古くなったと分かっていながら、誰も(リプトン博士以外)それについて触れようとしなかったのは、たとえば細胞学者からすれば「細胞が情報の伝達をやり終えたあとのことは、DNAをいじくり回す人がやってくれ、私たちここまでだから…」という感じだからです。お互いの領分は侵さないという不可侵条約みたいなものが、暗黙に了解されているかのような雰囲気です。


ここで本題にもどると…

本書では、細胞ひとつひとつがまるで脳であるかのように、複雑さ極まりなく賢い様を、分かり易く説明しています。"遺伝子が支配していない"という説明では、たとえば細胞からDNAが収められている「核」を取り除いても、細胞はだいぶしばらくの間それまで通りの活動をします。もちろんいずれその細胞は死に至るのですが、それは核からの情報指令が失われたからではなく、再生し増殖する能力が失われたからです。つまり細胞が核にある遺伝子に再生要請をすることで、遺伝子ははじめて情報を生み出すからです。となれば、遺伝子は生命の中核を成す脳というより、むしろ生殖器のようなものである、と博士は冗談めかします。外界の情報を受け取って「これが必要」「それを送れ」と脳のように指令を出しているのは、細胞膜のたんぱく質の方なのです。

そして、我々が生命を維持するのには、内側というよりも外側からの入力が重要であるとも言っています。「環境→細胞表面・細胞膜→核(DNA)→新たなたんぱく質の生成」という順路で生命維持は行われるのだと。
もちろんこれらは留まることなく循環している作業ですから、どれが鶏か卵かというところもあります。博士は、「セントラルドグマ」の古臭い概念を崩したいがために「遺伝子は生殖器のようだ」と言ったのですが、そもそも、どこに中心をおくとか、どこに支配権があるとかいう、一方向的な支配構造概念を、私たちは取り払わなければならないのかもしれません。

こうした考えに似た理論は、生物学者も遺伝学者も、既にいろいろな本に著しているとは思います。けれど同じ現象を観察して説明したとしても、その人の知性や視点によって捉え方は異なり、最初はその差はわずかに思えても、いずれ大きく離れていくことになります。これまでの科学はそんな微妙な分岐点を、あるところで見過ごしながら進んできたのではないかという気がします。


では、するとABO血液型は、この賢い細胞上で、どのような働きをしているのでしょうか?
博士は本書の中では、細胞膜やたんぱく質全般について話しているのであって、ひとつひとつの特徴的な働きや細胞表面についてまでは言及していません。しかし、細胞の膜とその外側における、むしろ環境からの入力をどう処理するかが、私たちの生命を維持したり、活動を制御したり、知性を発達させたりしているのだ、ということは明確に示しています。

何度もお伝えするように、ABO血液型は細胞の表面に乗っかっている糖鎖であり、レセプター(受容体)です。ガラクトース(B型に関与)やNアセチルガラクトサミン(A型に関与)などが、その代表的なものですが、これら糖鎖が外部の情報を細胞内へ受け渡す役割を担っているのです。外側の情報をどのように知覚しどのように受け渡すか、というその鍵は、糖鎖が握っている、ともいえるのです。リプトン博士の言うように、生物としての細胞が思考(信念)を持つならば、ABO血液型のそれぞれも、それぞれの受け取り方、それぞれの振る舞いの中で、何らかの信念形成に関与していると考えられます。


そして今後の研究と可能性

私はこの本を数年前に読みましたが、あらためて再読し、記事をここに再度残そうと思ったのは、昨年終わり頃から放映しているNHKスペシャル「人体」という番組を観たからでした。

この十数年、一方では(今の)科学の限界が言われ続けていました。

「もう充分研究したが、この先何を発見すればいい?人間の頭脳で検証できることは全部やったし、今分からないことはこれからも、人間には分からないのでは?」
ところが、意外なところからその壁を打ち破る方法が生み出されている、ということを、この番組を観て知ったのです。

MRIなどを観る際の画像処理技術が画期的に改善されたことで、今まで部分的にしか観れなかった血液循環の様子など、その範囲が大幅に拡大し、体内を流れる血液の中で実際に何が行われているのかという全体像が明らかになってきたのです。それは驚きでもあり感動でもある光景です。たんぱく質らやレセプターらは、ひとつの情報をキャッチするやいなや、光の速さ(実際、光って見える!)で指令を出し、それらは次々と連携してゆき、体内の総てが共同で連動し合っているという事実を目撃するのです。

こうなってくると、私は××の研究だけしていればいい、とは言えなくなってくることでしょう。もはや、血液の研究者も、脳の研究者も、免疫の研究者も、あらゆる分野の研究者たちが総動員しなければならなくなったのです。人間というのはこの目で見たものしか信じない…という愚かしい信念がありますが、人間による理性ではなく、画像技術が生物学界の不可侵条約を打ち破ったというのですから、少々皮肉でもあるような気がします。
考えてみれば、むしろそれに関わっていない私たち一般人の方が、「部分的な研究じゃなくて、お互い連携し合って研究すればもっとよく解るんじゃないの?」と、ずっと長い間思っていたかもしれません。

とにかく、この全体像を観測できるようになったことで解っていくことは、革命的な人体科学の進歩になるだろうということです。ご覧になった人も多いと思いますが、テレビでは視聴者の身近な関心事にうったえるため、まずは癌の治療法が画期的な解決に至るであろうという点を大きく取り上げていました。それは本当に、多くの人が安堵する、素晴らしいことです!

そしてABO血液型について話を戻せば、この研究に対しても、部分的に調べていたのでは、おそらくいつまで経っても分からないだろうというのを、能見俊賢ともよく話していたことでした。血液学者が血液をどんなに調べても、免疫学者が免疫システムどんなに論じても、遺伝学者がDNAをどんなにいじくりまわしても、何も出てきやしないのです。彼らはいつも、「ABO血液型物質はそんなに重要な働きをしていない」としか言えず、「悪いけど、私たちにはもっとやらなければならない重要な研究がたくさんありますので…」と、鼻で笑って見過ごしてきたのでした。
ところが、こうして全体像が見えてくるようになれば、リプトン博士のように電光に目が覚め、そこに光をあてる学者が出てくる可能性も高くなります。

そしてまた、現在、糖鎖の研究が進み始めていることも、ABO血液型にとっての朗報です。糖鎖研究に関わる研究者たちは、この糖鎖の働きがいかに重要かということを解り始めているのです。おそらく「糖鎖」とインターネットで検索すれば、今はたくさんの情報が出てくると思います。数年前までは、ほとんど情報が無かったし、あってもサプリメント関連で取り上げているような位置づけでしかなかったのです。これについての研究者側の言い分は、細胞にはたんぱく質と糖鎖があるが、糖鎖は次々とその形を変えて複雑なため、観察するのも複製するのも、再現するのも困難だったということです。これもやはり、近年の観測技術の進歩によって次のステップに進めたということなのでしょう。


このようにして、ABO血液型について真に研究できる舞台が、徐々に整いつつあります。

そして、本当の研究が行われたとしたら、今度はその結果をどのように我々が活用するのか、そのことが最も重要なことかもしれません。そのとき訪れるであろう微妙な分岐点を、どうか見誤らないで欲しいと願うばかりです。

リプトン博士の本から話がだいぶそれましたが、リプトン博士の細胞の研究に対する期待もさることながら、私は個人的に…、リプトン博士の物の見方、捉え方に共鳴しています。ですから今後、ABO血液型についても何か示唆を与えてくれるのではないかと期待をふくらませているのです。

実のところ、現在リプトン博士は、研究現場からは退いているようです。おそらく、学会に属していたのでは自分の真の目指すことが出来ないということになったのでしょう。

リプトン博士は、細胞が環境の情報を受け取って独自に"思考している"ということが分かったことで、私たち人間は、その情報の受け取り方次第、その思考の仕方次第で、いかようにもなれる"すごい力"があるということを、生物学者という物理の科学者として理解したのでした。そして人間だけでなく細胞同士がうごめくこの世界は、それが今は目で見えなくても、全てが繋がっている共同体なのだということに焦点をあてるようになります。するとその先へ進むには、もっとスピリチュアル(精神性)な視点を広げなくてはならなくなります。その見方は、いまだに多くの人が避けている道でもありますが、リプトン博士は今、そうしたスピリチュアル的概念に背を向けていた世界に居た一生物学者として、ひと肌脱がなければならぬという思いで啓蒙活動に忙しくしているようです。

私も、ABO血液型遺伝子という物理的な働きにおいては、実証できる(現在の)科学的研究が成されるべきだと考えていますが、実際に私たち人間がこのABO血液型の知識と知恵を活用するためには、スピリチュアル的な概念を理解していかなければならないとも強く思っているのです。

それは私だけが独断でそう思っているのではありません。この研究の創始者、能見正比古も、「愛」をもってしてでなくてはこれを使うべからずと、何度も何度も訴えてきました。しかし能見正比古が、「愛」とか「人間の連帯意識」とか、そういう見えないもの、スピリチュアル的要素を多分に含む観念(能見正比古がスピリチュアルという言葉を意識したかどうかは別として)を土台にして人間を観察していたことを、多くの人は知らなかった(あるいは気に留めなかった)と思います。しかも困ったことに、そっちを強調すると「やっぱりまやかしだ」「トンデモ科学だ」「ただの占い」というふうに、違った方へ矛先が向かってしまうのです。能見正比古は、このどうしようもない思い違いに深く苦悩しながら、著書の最後のほんの隅っこに、その想いを綴っていたのでした。

私自身、そんな迷路のような行ったり来たりのあれこれを、長い間ずっと考えてきたわけですが、これからは、さすがに次のステージに進めるのではないかと希望を持っています。
そのためには、リプトン博士のように、科学とスピリットの橋渡しをするような、あるいは科学と精神性の統合をめざすような、そういう学者がどんどん現れることを楽しみにしているのです。そして、それぞれの血液型の、その血液型にしかない素晴らしい役割や思考、あるいは隠されたスピリットというのを、人々が理解する日を待ち望んでいます。



2018-02-22

平昌オリンピックを血液型であれこれ~スピードスケート

A型のホントの強さを見せてくれた小平選手に拍手

オリンピックなどの世界大会で日本人が表彰台に上るとき、いつも思うことがあります。
たぶん、同じ日本人は、みんな感じていると思うのです。
「小さいんだな」

1992年、オリンピックの申し子と呼ばれた橋本聖子(B型)さんが、スピードスケートで、冬季オリンピック日本人女子初の銅メダルを獲得しました。彼女は東京オリンピック開催の数日前に産まれたことで聖子と名付けられたそうですが、その期待どおりにメダルを手にしたのです。娘が表彰台に上る姿に、それは感極まったであろう名付け親のお父上ですが、その時ふと漏らした言葉も、「小さいんだな」だったそうなのです。

日本人が海外勢の、特にスポーツ大国である米国や欧州の選手たちと共にメダルを掲げるとき、まさまざと、その体の大きさの違いを見せつけられます。
「この人たちに勝てたんだ!」
そして改めて思うのです。ここに立った選手たちは、本当に凄い選手たちだと。

今大会の平昌オリンピックでも、同じようなシーンを幾度となく見ることが出来ました。いや、今回は、あの時からとてつもなくパワーアップして、スピードスケートだけでも500mの金、1500mの銅、1000mでは2人並んで銀と銅。その上、団体パシュートの金!
表彰台を日本勢が占領してしまいまいた。
「小さいのに凄いよ、まったく!」

今回はそのヒロインのひとり、小平奈緒選手に注目したいと思います。
小平選手は、試合前のどのインタビューを見ても、何にも動じない平静さが常にありました。リキんでもいないし、気負ってもいない。高揚もしていない。
「この選手はやり遂げるかも」
実は私、普段テレビを観ないし、話題のニュースを取得するのも苦手なので、今回のオリンピックについてもあまり知らなかったのです。しかし、たまたまつけたTVでインタビューを受けている小平選手を見た瞬間、思わず見入ってしまい、私の直感がそうつぶやきしました。そしてこの落ち着き、この平静さ、この、芯が一本通ったようなこの感じ…。A型に違いない…と。そして急いで調べてみると、やはりA型とありました。A型と知って、私は益々、興味深々になったのです。

彼女の最初の種目は1500m、6位入賞。そして1000mでは銀メダルを獲得。2つの競技を終えたインタビューでも、小平選手は始終落ち着いています。実に平静で、平常心なのです。むしろ、ややテンション高めにマイクを向ける記者たちを、彼女が落ち着かせているかのようです。どうやらこの2種のレースについては、本命の500mに向けたステップで良し、とも考えていたようでした。

そして、いい形で心身を整えながら迎えたいざ500m。何と、オリンピックレコードを更新しての見事な金メダルを、しかと手にしてしまいました。余裕の勝利です。
「やった!すごい、小平選手!」
私は、そう声に出したのと同時に、「そうよ、これが本来のA型よ!」と、心の中で強く思ったのです。
感無量ー。
私は今まで、これほどオリンピック選手を称え、感謝したいと思ったことはないかもしれません。

血液型については、多くの誤解があります。
誤解、というより、知識不足、理解不足といった方が正しいかもしれません。世の中に知られている情報が、決してウソとかインチキばかりというわけでもありませんが、そのほとんどは、表面的な、つまり上っ面をすくっているようなものが多いのです。仕方がないと言えば仕方のないことです。それは血液型に限らず、どんな事も、深く知るにはそれなりの時間も意欲も必要なのですから。けれど、その誤解の中で、私が一番気になっていたのはプレッシャーに関することです。

時として、プレッシャーということが安易に扱われることがあります。
たとえばB型はプレッシャーに強い、A型はプレッシャーに弱い…云々。困ったことに、A型自身が、そう思い込んでいることさえあるのです。

プレッシャーとはつまり、外部からの圧力により物理的、精神的に負荷が大きくなることなのですが、能見正比古は、これについて情緒的な側面から分析し、その揺れ動きを「情緒の波」として、各血液型の特徴を示してきました。(血液型とエモーション)
結論を言えば、「それぞれに情緒の揺れ動き方には特徴的な傾向があるが、決してどのタイプが強くてどのタイプが弱いというような、単純なものではない」というものです。ところがどう説明しても、なかなかその真意を理解するのは難しいようです。それに実際のところ、この波を上手く扱える人は、どのタイプにもそういないのです。なぜかというと、このプレッシャーというものが、体質的なことに深く根差しているからなのです。つまり、気力や気概というような、脳で処理するだけではコントロールが難しいものだからです。

外部からかかる負荷の大小は、私たち人間の自律神経を左右します。体を緊張させる交感神経と、リラックスさせる副交感神経のバランスがシーソーのように揺れ動くのです。それは考える脳で処理するというよりも、体が自然に反応する生体制御です。これが血液型と深い関係がありそうなのですが、自律神経の研究をしていた医学博士の安保徹さん(2016年死去)が、その一端を示してくれています。彼の研究によると、A型とAB型は交感神経に傾きやすく、O型とB型は副交感神経に傾きやすいというのです。

それはこれまで行ってきた我々の観察とも大いに一致します。たとえばスポーツをする上で、対照的な性質を持つA型とB型をみた場合も、自律神経による体質差は顕著に表れるのです。世界舞台で競い合うアスリートたちは、極限状態まで力を出し切ろうとするわけですが、その状態は要するに、交感神経側に一気に傾くときで、筋肉や骨格筋、血管などは収縮、緊張をして、硬くなります。そしてA型とB型が同じ極限状態に置かれたとすれば、A型の方がB型より、より強力に交感神経側に傾く傾向にあると考えられるのです。

もちろんB型も、その状況では交感神経が最大に優位になっているはずですが、本来が副交感神経優位タイプのB型の場合、その硬くなった緊張状態からリラックスモードへ戻していくのも容易いのです。ところが一方のA型の方は、交感神経側に傾き過ぎたバランスを戻すのに、時間がかかってしまうのです。
するとどういうことがおこるでしょうか。そんな大舞台では、当然気持ちも緊張しています。A型の体は更に硬くなる方向へ向かい、緊張とリラックスのバランスは完全に崩れて、結局思い通りのプレーが出来ないという結果になりやすくなってしまいます。

これはどんな分野のスポーツでもよく聞くことですが、A型の選手は、練習では非常によく仕上がっていても、本番になると上手くいかないという悩みを抱えていることが多いのです。そして、「自分はプレッシャーに弱いんだ」「気持ちが弱いのだろうか」と、精神的な弱さと捉えてしまうこともままあるのです。しかしA型性のしくみを理解せずに、単に精神論で解決しようとすると、むしろ逆効果になってしまう可能性があります。気持ちを強くして力めば力むほど、交感神経は強力に働き始めるからです。

それらの多くはA型的な体質によるものであり、単に”プレッシャーに弱い”というような、一言で片づける類のものではないということを知ってほしいのです。そして私は、そういうA型的な体質をよく理解したなら、そんな悪循環に陥らないで済むのはもちろんだし、その体質に上手く対処する方法があるのだと、どこかで証明したかったのです。
今その願いが、叶ったような気分です。小平選手が、それをやってのけてくれたのです。彼女の強さはどこにあり、どうやってここまでの進化を遂げたのでしょうか。

小平選手が13年間指導を受けてきたのは、結城コーチです。結城コーチは最初、「何でこの子はスケートがこんなに下手なんだろう」と思ったといいます。もちろん小平選手は、その時すでに全日本ジュニアで優勝を果たしており、その才能は開花し始めていたのですが、結城コーチのその言葉を素直に受け止めたと言います。
「どうしたら速くなれるか知りたかったから、そう言われてむしろスッキリした」のだそうです。小平選手のこの、「どうして?」「知りたい!」という、純粋で素直な問いかけが、成功の扉を開けたように思います。
A型は、子どもの頃、質問少年質問少女が実に多いのです。
お母さんや先生に「なぜ?」「どうして?」を連発しては、辟易させたりもします。ところが大抵、大人たちは忙しいものだから、「後にして」とか「そんなこと分からない」とか、適当に答えてしまうことが多くなり、それが結局、A型の子の純粋な「なぜ」を封じ込めることになってしまうのです。だから小平選手が、そのA型的な純粋さを持ち続けていたことは、とても意味のあることなのです。

その後彼女は、結城コーチの指導を素直に実行し、着実に力をつけていきます。そしてバンクーバーオリンピック初出場では入賞を果たし、団体パシュートで銀メダルも手にします。
さて、その4年後のソチオリンピック。今度は個人種目でのメダルを狙っていました。練習はきっちりやってきた。自分のスタイルも完成してきたし、日々力もついてきている。彼女は自分の成長に実感があったはずです。ところが蓋をあけてみたら500mは5位入賞どまりで、1000mでは13位。
「なぜだろう?」
「どうしたら速くなるのだろう?」
納得がいかなかったのだと思います。それは彼女が、これ以上ないというくらいの練習をしてきたからこその疑問です。出来ること、やるべきことは全てやってきた。ならこれ以上速くなるにはどうしたらよいのか?そして答えを見つけるために、単身でオランダに渡ることになります。

オランダの2年間が、彼女をバージョンアップしたのは間違いないのでしょう。日本とはまるで違う性質を持つ国です。日本の人にとって…特に協調性があり過ぎるくらいのA型にとっては、オランダの人たちが、自分の意見をあまりにはっきり述べることに、最初は戸惑うだろうと思います。オランダの人々は、本当に小さい頃から、自分の考えと自分の責任で、何でも発言し、何でもするのです。彼女はたった2年間で、ほとんど完璧なオランダ語を身に着けたといいます。
「知りたい」「学ぶために来たのだ」という意識を生真面目に持っていた彼女は、オランダ流のその感覚も、しっかりと身に着けたに違いありません。周囲に流されることのない「自分は自分」という、個を保持する考え方は、同調しやすい日本的な、あるいはA型的でもある思考特性からの脱皮となり、一流のアスリートとして大きな精神的成長にもなったことでしょう。

とにかく「なぜ?」を追及する小平選手は、ひとつひとつ納得するまで、そして新たに学んだことが自分のものとして自分自身に同化するまで、根気よくコツコツと、取り込んでいったのだろうと思います。それは本当にA型らしい学び方なのです。

オランダから戻った小平選手をみて、結城コーチは、「違う考え方を身に着けてきた」と思ったそうです。
結城コーチとの二人三脚の訓練が再会しました。コーチ独特のアイディアで行われる練習プログラムは、微妙な筋肉を鍛えるものや、コーナーをいかに速く回るかというような、0.1秒でも早く滑るために組まれた地道な訓練です。小平選手は、それを決して飽きることなく、積み重ねていったのでした。そしてその成果は確実に結果に現れ始め、世界最速記録を次々と更新していったのです。結果が出れば、また練習に精を出すことができます。
A型の人は、我慢強い反面、実は飽きっぽいところもあり、頑張り続けるためには日々成長している実感を求めたがります。それだけ、人の何倍も精魂込めて取り組んでいるわけだから、A型にしてみれば、当然の得るべき報酬なのですが。

結城コーチと小平選手の息は、ピッタリと合っていて、非常に上手くいったのでしょう。むろんそれは、小平選手がコーチの指導を忠実に、素直に実行したからですが、2人の信頼関係は揺るぎのないものになったに違いありません。練習も順調。結果も出てきた。コーチとのコミュニケーションも問題ない。盤石な土台がどんどん敷かれていきます。

A型の人は、目標を掲げて何かを成し遂げるとき、1%の不安も残したくないと考えます。
「この部分はまだちょっと不安が残るけど、まあ行っちゃえ」というようなことは、したくないのです。
出来る限り準備は万全を期して、それに臨もうとします。それが日々の日常的なことなら、少々心配症過ぎるんじゃないかということにもなるのですが、オリンピックの大舞台で一発勝負の勝利を目指すとなれば、万全であればあるほどいいに決まっています。
そしてそれが、練習の積み重ねによって可能なんだということを、彼女は身をもって実感してきたのです。小平選手がこのオリンピックに臨んだとき、「やれることは全部やった」という、万全の気持ちだったというのは、インタビューの答えを聞いていてもよく分かります。

さあ、そしていざ本番。あとは、気持ちを平常心に保つだけです。
「平常心」というのは、A型にとっての最適な座右の銘となるかもしれません。以前、九重親方(元横綱千代の富士、2016年死去)の部屋に行ってお話を伺ったことがあるのですが、幕内優勝31回を果たしたA型横綱が常に掲げていた言葉は「平常心」だったといいます。当時の相撲界の力士たちは寝ても覚めても練習の鬼だったそうで、練習は、やればやっただけ身になっているものなんだ。しかしその力を本番で出さなければならない。それには平常心で臨むことが一番重要なんだと。

ここで話を、A型的体質の交感神経優位に戻します。交感神経に傾きやすいA型は、格闘技や筋肉を使う競技スポーツでは、強い筋肉を必要とするので、その点では、決して不利ではないのです。むしろその硬さは、身体能力の高さにも繋がっています。ところが、それが必要以上に硬くなってしまった時には、体中がガチガチになり、身動きがとれなくなってしまいます。本番の気持ちの緊張は、それを助長して悪循環に陥りやすいのです。だから気合を入れすぎるのは、A型にとっては致命傷になりかねないということです。

充分な練習を重ねた体は、既に最適な動きを記憶しているのだから自然に動いてくれるはず。後は、それ以上の負荷を体にかけないようにすることが大事になってくるのです。それには周囲の動向に動かされることなく、平常心で臨むこと。それが一番だということです。

小平選手が、そのA型的体質を充分過ぎるほどに鍛え抜き、スピードだけではなく、細かな動きに至るまでのテクニックを磨き上げ、万全を期したのはいうまでもなく、そしてその上で、「平常心」を手に入れたことが、勝利の全てだったのだと確信します。それがA型の、最もA型らしい勝利への道になるのです。

時々A型の人は、O型のように大胆になりたいとか、B型のように気楽になりたいと考え、そうなれたらもっと凄いことが出来るんじゃないかと思ったりします。けれど、A型の緻密さ、正確さ、完成度の高さ、積み重ねた訓練の賜物、そういう盤石さを備えて尚、おごるでも高ぶるでもなく、平らな気持ちでいられたのだとしたら、向かうところ敵なし。パーフェクトです。おそらくそれは、他の血液型には、どう努力してもなることが難しい、A型だけが味わえる境地です。

私は、ABO血液型というような遺伝子的な性質を、人間は乗り越えられると信じています。それは、自分と違う血液型のようになるということではなく、自分の性質を100%使いきるというところから始まります。小平選手も、そして他の選手たちも、自分の持てるツールを最大限に活用しようと努力してきました。体の大きさや体力の違いも、最終的にはあまり問題ではないのです。
活躍する日本選手たちを眺めながら、感嘆のため息とともに改めてそう思うのでした。


2018-02-20

平昌オリンピックを血液型であれこれ~フィギュアスケート

これだけB型が勢ぞろいするにはやっぱりワケがある?

それにしても、羽生結弦選手の再生大復活劇は快挙でした。こんなにも人々を喜ばせて、気持ち良くしてくれるとは…。きっとこういう人をスーパースターと呼ぶのでしょう。

そして並んでその存在感を示してくれたのは、宇野昌磨選手です。
フィギュアで日本人が2人並んで表彰台に立つのは史上初だそうですが、2人並んで血液型がB型だというのも、ちょっと珍しい現象かもしれません。

「フィギュアスケート界はB型が多いの?」
それはここ数年、ずっと私の頭の中をめぐっていた問いでした。
男子だけではありません。その活躍がまだ記憶に新しい浅田真央さんも、そして現在、期待の大きい宮原知子選手もやはりB型なのです。

ここで、過去現在のフィギュアスケート選手の血液型を整理してみます。
以下はこれまでに国際大会においてメダルを受賞した選手の表です。

●40名のうち血液型判明者は30名
O型=9名(30%)
A型=8名(26.7%)
B型=10名(33%)
AB型=3名(10%)

●オリンピック出場者
O型=5名(メダル1名)
A型=5名(メダル1名)
B型=8名(メダル4名)
AB型=2名(メダル0名)
不明者=1名

不明者が10名いますので正確な数値を打ち出すことはできませんが、日本人平均(O≒31%,A≒39%,B≒21%,AB≒9%)と比較すれば、A型が少なく、B型が多いというのは歴然としています。
そしてオリンピック出場者のみで見ると、21名のうち8名(約4割)がB型で、更にはメダル獲得者6名のうち4名がB型なのです。
現在、フィギュアスケーターがどのくらいいるのかは分かりませんが、現状を見る限り、少なくも上位に上がってくる選手たちは、明らかにB型が多いということが言えそうです。

なぜだろう?
まず血液型特性から言えるのは、心身ともにある持ち味の柔軟性があげられます。
体の柔らかさというのは、小さい頃から訓練すれば、ある程度はどの血液型もかなうと思うし、もちろん訓練しなければB型でも硬い人はたくさんいるわけですが、同じ訓練をした場合、B型の体質はだいぶ柔軟性を発揮させることが出来るようなのです。
分かり易く「柔軟性」という表現をしたのですが、もっとピッタリする表現をするなら「しなやかさ」です。

浅田真央さんや羽生選手の動きを観ていると、芯があるのかないのか、時にくねくねし過ぎるようにさえ見えます。実のところ、ダンスとしては”キメ”があった方がカッコ良く見えるので、その点では氷上のダンサーと呼ばれた高橋大輔さんや、女子なら安藤美姫さんなど、ステップやキメが効くA型の方に軍配が上がりそうです。

しかし、それでもこのB型の「しなやかさ」は、ただ者ではないのです。体がしなやかであることが、どれだけ彼らのジャンプや回転を助けていることか知れないからです。
近年のフィギュアスケート競技は、技術力が益々向上していますが、中でも競うのはジャンプの高さや回転数。氷の上で、反動をつけながらジャンプして回転、そして一本のプレートに全体重を乗せて着地するのです。高く飛ぶほど膝や足首に負荷がかかるのですから、B型の鍛えられた”しなやかさ”は、選手にとって強力な味方になっているに違いないのです。

強みは他にもあります。
B型は、難しいことに挑戦するのが好きな人たちです。
「そんな事は絶対無理だろう」と言われると、「ヨシ、ならやってやろうじゃないか」と、ムラムラと燃えてくるという、ある意味…、ここではまったく良い意味での、アマノジャク性を発揮するという性分があるのです。
今回、大怪我をした羽生選手は、図らずも実にB型らしい発言をしてくれました。
「逆境は嫌いじゃない」
そうなんです。彼は、壁が立ちはだかった時、それをどうやって乗り越えるかを工夫したり、挑戦したりするのを、楽しめる人なのです。
羽生選手がフリーを滑り終えた後、右足首をそっと両手で包み込む姿がありました。
「頑張ってくれてありがとう」
自分の足にそういったのだそうです。
今回の出場は不可能と危ぶまれた大怪我からの、奇跡のような復活。こうした怪我の回復の早さもB型体質にはあり得ることで、やはり心身ともに持ち合わせているしなやかさあってのことではないかと思えます。

それにもうひとりのヒーロー宇野選手も、たいへんB型らしい活躍でした。初のオリンピックで、転んでも「笑っちゃって」と、へこたれないあの度胸は見事なものです。その上、ユニークな発言も連発してくれて、周囲を沸かせてくれました。

記者:メダルを誰に見せたいですか?
宇野選手:誰にも見せたくないです。
記者:×△;*×・・?

B型スポーツ選手にはよくあるエピソードです。記者はたいてい、ある答えを期待しながら質問しているわけですが、B型の人は、それをことごとく外してくるのです。他の血液型だと、内心イヤだな、と思っても、記者の聞きたいことに合わせて答えてしまうのですが、そういうことに頓着しない(したくない?)B型は、記者の思い通りにはいきません。
私はB型のそういう正直さを見ると、「もっとやってやれ」と小気味がいいのですが…。そういう噛み合わなさで取材陣に疎まれ、悪く書かれたB型スポーツ選手も過去には結構いるのです。ところが宇野選手の場合は、きっと、彼の人柄でしょう。何だか無邪気な子どもが素直に発言しているかのようで、珍回答もむしろ好評だったようです。

少し、時間を戻してみようと思います。これまでにオリンピックメダルを手にしたB型フィギュアスケーターと言えば、もうひとり、記憶に新しい浅田真央さんがいます。彼女もまた、B型的なしなやかさを存分に発揮したアスリートであり、それだけでなく、日本中から愛された人でもあり、日本のフィギュアスケート界にひとつの時代を作った功労者でした。

それから女子フィギュア界では、忘れてならない重要なB型メダル獲得者がいます。私の世代なら記憶に残っている人も多いかもしれませんが、あの”伝説の人”伊藤みどりさんです。伊藤みどりさんは、女子選手として世界で初めて3回転アクセルを成功させたのです。
世界の”初めて物語”を作るのは、既成概念にとらわれないB型が何といっても得意ですが、彼女は、それまで女子には無理だと思われてきた難しい技をやり遂げただけでなく、回転するときのそのジャンプが、ものすごく高いことでも注目を集めていました。今でもあの高さまで飛ぶ選手はいないかもしれません。

伊藤みどりさんは145㎝という小さな身体で、スケートリンクをピョンピョン跳ね回るものだから、海外の報道陣からは「ウサギちゃんみたいで可愛い」と親しまれていました。
彼女の出現が、世界女子フィギュアの技術レベルを一段押し上げたと言っても、過言ではないのです。

伊藤みどりさんのオリンピックメダル獲得にもドラマがありました。
アルベールヒルオリンピックに出場した伊藤みどりさんは、調子が決して良いとはいえず、シングルでは4位、フリーの演技でも3回転アクセルを一度は失敗して大きく転倒してしまったのです。しかし彼女は諦めませんでした。後半のわずか残り1分で再度挑戦し、誰よりも高く舞い上がり、みごとに成功させました。それが日本女子フィギュア、史上初のメダルした。

転倒してもすぐに立ち直り、果敢に再挑戦する姿は、今大会の宇野選手も見せてくれましたが、B型のこの、失敗を引きずらない立ち直りの早さというのも、スポーツ競技では重要な資質となっています。

4タイプに見る女子フィギアスケート

フィギュアスケート界は、まるでB型の独壇場のようにも思えますが、ここまでフィギュアスケートが盛り上がるには、それなりの軌跡がありました。フィギュア―スケート界で日本選手たちが活躍するようになったのは、いつの頃だったのか…。
記録によれば、最初のスターは戦前まで遡るらしいのですが、私の記憶にあるのは渡部絵美さんという、1970年代にオリンピック出場を果たした選手でした。

フィギュアスケートとは、まさに、氷上のバレリーナ。当然のごとく、それはロシアやヨーロッパ諸国の手中にあり、日本人が世界の舞台に立てるなんて誰も想像していなかったのです。だから彼女の登場が、日本の人々を驚かせたのは言うまでもありません。
彼女の血液型はO型です。O型らしい、周りを明るくするような笑顔でクルクル踊る姿は、日本フィギュア界に、最初の明かりを灯したのでした。

そして渡部絵美さんの引退後を引き継ぐかのように現れたのが伊藤みどりさんでしたが、その後しばらく日本女子フィギュアスケート界は華やぎをなくしたように見えました。しかしそれは必要な潜伏期間。渡部絵美さんや伊藤みどりさんに憧れた少女たちが、徐々に育ち始めていたのです。2000年に入ると、次世代選手たちが次々と頭角を現し始めました。
現在の日本フィギュアスケート界の華やぎの、その口火を切ったのは荒川静香さん、O型でした。彼女は、2006年のトリノオリンピックで金メダルを獲得。オリンピックのフィギア史上においてアジア選手が金メダルを取るのは、彼女が初めてのことでした。

荒川静香さんの活躍した頃は、面白いことに4タイプの血液型選手が揃っていました。
O型の荒川静香さん筆頭に、村主章枝さんがAB型、そして少し後輩にはなりますが、安藤美姫さんA型、浅田真央さんB型です。しかも4人の演技は、血液型の特徴そのものがそれぞれ非常によく表れていたので、私にとっても素晴らしい観察の機会になったのです。

O型、荒川静香さんの演技は、大きくのびやかな演技で迫力がありました。
A型、安藤美姫さんの演技は、形をきめたキレがあり、優雅でもありました。
B型、浅田真央さんは、しなやかで流れるような美しさ、まさに氷の妖精という感じです。
そしてAB型、村主章枝さんの演技は、音楽によく調和した軽やかな滑りで、まるでダンスを楽しんでいるかのようでした。とまあ、こんな具合に…。

振り返れば、日本のフィギュアスケート界を進化させてきたのは、決してB型だけではなかったのでしょう。どの血液型も…、いえ、血液型によらず、多くのユニークな選手たちが、華やかな舞台裏でその身を削りながら、活躍してきたのでした。
しかしそうではあっても、今、B型たちが、自分の(B型的)能力を存分に出し切って、高度な技術にあくなき挑戦をしているのも事実なのです。

それでもB型が活躍する理由

フィギュアスケート界が、B型の活躍を歓迎している理由には、もうひとつプラスαがあるかもしれない、とも思っています。フィギュアスケートは、他のスポーツ競技と異なり、明確に順位を争うものではありません。選手たちは、60m×30mほどのスケートリンクの中で、およそ4~6分の間、滑り、回り、ジャンプし、音楽に乗ってダンスします。そして高い技を競い合うために、自分の最大の技量を出し切ろうとします。転倒するリスク、失敗するリスク、怪我をするリスクと常に隣り合わせにいます。そういうギリギリの、必死の自分になっている時は、選手たちの素の表情、素の姿を垣間見ることになり、その選手の一生懸命さの、生の姿を目のあたりにするのです。

そういう時、B型は、決して自分を着飾ろうとしません。
彼らはどんな場面でも、心を開放しておくことができるのです。
そして転んでもすぐ起き上がり、無心にまた挑戦しようとする。彼らの滑りや表情は、まるで無邪気な子どものようでもあり、観衆は、その姿を見るのがとても楽しくて気持ち良いのです。だから人々は、ワクワクして、彼らを応援したくなる。それはファンだけでなく、審査員だって同じではないかと思うのです。

伊藤みどり、浅田真央、羽生結弦、宇野昌磨…
彼らに共通する一番のことは、その無邪気なまでの取り組み方なのかもしれません。
人々は、彼らの飾らない無邪気さや無心さを愛し、挑戦する勇士に歓喜します。そしてB型は、人々の歓喜に歓喜し、その歓喜に共鳴し、素直に答えることができる人たちなのです。もちろんいろいろな重圧はあるでしょう。それでも、オリンピックという特別な世界舞台は、B型にとって、最高に愉快なショータイムとなり得るのです。
B型の、その才能と、人々の歓喜が共鳴したとき。
それはスーパースターが生まれる所以なり。
羽生選手は、まさにそんな場面を見せてくれたのでした。


2018-02-03

能見正比古の蔵書~彼の頭の中を覗いていみると

A型は歴史小説?B型の好むジャンルは?

その人の本棚を見ると、その人の価値観や興味の対象が分かる、というのは、よく言われることです。

そういうことで、改めて自分の本棚を眺めてみると、なるほどねえと、我ながら苦笑してしまいます。
純愛小説とか、そういうたぐいのものは一切無し!料理本とか趣味の本、女流作家の本もまるで無し!
あるのは……?ああ、これじゃあ、まるでオトコの本棚ですよね。つまり私がモテないのは、私の頭の中のせいなんだと、妙~に納得するのであります。

自分のことはさておき、話を本題に戻しますと、私の仕事場の本棚には、先代、先々代の、師匠の蔵書もたくさん残っています。
事務所移転の度に少しずつ整理(断捨離)をしてきたので、当初に比べると1/4ぐらいに減ってしまったのですが、それでも運よく?生き残った本たちが、仕事場の本棚でひしめき合っているわけです。
そこで年明け早々、たまには本棚の整理でもするかと思い立ち、縦に横にと雑然と並んでいた本たちを並べ替えることにしました。
能見正比古が読んでいた本ともなれば、新しい本でも1970年代。古い本だと昭和ひとケタ
発行で、横書き文字を右から読むというような、年代物になるわけです。この辺になると、言語もかなりクラシカルで、私には到底、スラスラ読むことなどもはや不可能ー。

ざっとタイトルだけ見ると、能見正比古の蔵書類は、実にさまざまなジャンルに広がっています。
人物伝、純文学、人文学、ロシア文学、ノンフィクション、事典類、科学系、SF、叙事詩…etc
B型らしいとも言えるのでしょうが、能見正比古の興味が、実に多方面に広がっていたというのを、彼が手にした本たちを眺めていてもよく分かります。
しかし、本を手に取りながら、題名と著者を見て、さてこの本はどこに分類しようかと、中味をチラチラと確認しているうちに、私は、その一見すると、分散しているかのように見える能見正比古の蔵書類から、ひとつの、確かな共通性を感じとったのです。

「やはり能見正比古は、人間について、ず~っと、ず~っと、研究してきたのだ!」

そうなんです。
そのジャンルがどうであれ、本棚にずらりと並んでいるこれらには、「人間とは何か?」と探求する、彼の大きな大きなテーマが、しかと横たわっているのです。
薄い本にも、分厚い本にも、専門書にも、少年少女向けの本にも、「人間」とか「温もり」とか、私は全ての本に、何かそういう肌合いを感じたのです。

能見正比古が、B型について書いているこんな部分があります。
「B型は、興味が次々と移り、無意味に分散し、飽きっぽいだけだと周りから見えるが、そのB型にとっての根底にあるテーマは、案外一貫していることも多いのだ」

能見正比古のテーマは、「人間とは何か」
ただただ、それに尽きたのに違いないのです。
(本を見ながらその想いに浸り、ちょっぴりウルウルしてしまいました。)

そしてまた、ちょっと面白いジャンルも再発見しました。
写真に写っている本類がそうですが、今でいうなら、オカルト系とでも言えましょうか。
『宇宙』とか『未来』とか、そういうタイトルがやたら目につきます。
中でもアダム・スキーの「宇宙からの訪問者」などは、宇宙人に直接出会ったと公言し、欧米諸国を騒然とさせた人物の手記です。
すると能見正比古は、人間の探求には、”宇宙”も想定内にあった…ということなのかもしれません。

せっかくですので、もうひとりの師匠、A型、能見俊賢の蔵書もご紹介。
これはもう、タイトルも著者も、表紙を見ただけで一貫しております。
あれもこれも…ほとんどが歴史小説、それ一辺倒です。
A型は歴史好きが多いですが、能見俊賢はそれを看板にできそうなほど。

それにしても能見俊賢の頭の中は、実にシンプルでスッキリ整理されていたのかもしれません。
確かに、能見俊賢という人物は、そういう方でもありました。
彼が私に、常に警告していたことがあります。
「余分な知識ばかり詰め込んで、決して頭でっかちになるな!」
この厳しいお言葉のおかげで、ギガ生意気な私が、メガ生意気ぐらいですんだのだと、思うたび感謝しています。

そして面白いことに、あれだけジャンルの広い能見正比古の蔵書には、歴史小説はほとんど見当たりませんでした。ここはA型とB型の、袖を分かつポイントなのかもしれないですね。
ところがですよ。これまた面白いことに、両者の好む本に、共通のジャンルがひとつだけあったのです。
それは、SF小説でした。
SF小説の本に関しては、どうやら2人は共有していたようです。
「ケン坊、これ面白かったぞ、読んでみろ」
「オヤジ、これ面白かったよ、読む?」
みたいな感じですね。

お2人は、血液型人間学の未来について、よく語り合ったと聞いています。
考えてみれば、科学者たちは未だに、血液型の真相の、”シ”の字もつかめていないわけですし、だとすればこの分野って、今のところSFのようなもの、とも言えるのですよね!

2018-01-06

赤穂浪士、大石内蔵助の血液型は何型か?

大石内蔵助の血液型は?俳優さんの演技で予測してみる


赤穂浪士といえば年の暮れの話題。年明け早々の記事としては、少々季節外れになってしまうのですが、昨年末にたまたま再放送や昔のビデオを観る機会があり、大石内蔵助の血液型が気になったのです。

血液型が判明していない人物について、血液型をあれこれ予測分析するのが得意でないので、当ててやろうなんて気概は全くないのですが、そういえば、大石内蔵助はいろいろな俳優さんが演じているんだなと思い、俳優さんの血液型の違いで、演じ方も違うんだろうなと思ったわけです。

「赤穂浪士」「忠臣蔵」をテーマにした作品は、数えきれないほどあります。
”忠臣蔵を愛してやまない”という漫画家・もりいくすおさんが、ファンサイトを作って下さっているので参考にさせて頂いたのですが、最近の作品はコミカルなものやパロディっぽいものも多いようです。
以前は、「師走といえば”忠臣蔵”!」「今度は嫌われ役の吉良を誰が演じるか!?」なんてことが話題になったものですが、21世紀になった頃から、あまり聞きませんね。
さすがにもう、時代遅れなんでしょうね。
ここではとりあえず、オーソドックスな作品に出演している大石内蔵助役を書き出してみました。

中村勘三郎(O)
三船敏郎(O)
北大子欣也(A)
松方弘樹(A)
里見浩太郎(A)
宇津井健(A)
萬屋錦之助(A)
長谷川一夫(A)
高倉健(B)
平幹二朗(B)
松本幸四郎 九代目(B)
高橋英樹(B)
緒形拳(B)
山村聰(A?AB?)

すると、どうやらA型が多いんですね。
「忠義の為に!」というのがテーマとなると、やはりA型が適役なのか、という気もしてきます。
しかし案外、B型の役者さんも多いんですね。
O型は意外に少なくて、AB型に至っては居ないのかもと思いきや、山村聰さんが、あるいはAB型かもしれません。(WikipediaではAB型となっています)

私はもちろん、リストにあげた俳優さんが出演している作品全部を観たわけではないのですが、彼らが演じる大石内蔵助がどんな感じかを想像してみることにします。

主君の仇を討つという忠義と悲壮感を演じるとしたら、やはりA型の右に出る者はないかもしれません。
そして武士としての所作や家老の貫禄を、いかにもカッコ良く決めるのも、A型の得意とするところ。
中でも私が、その演技にいたく感動したのは、里見浩太朗さんの忠臣蔵。
討ち入り前夜、浅野内匠頭の正室、瑤泉院(多岐川裕美)に挨拶に伺うシーンがあるのですが、そのセリフまわしと所作の美しさには、見入ってしまいました。
城を明け渡した後は、何の音沙汰もなく、久しぶりの面会という設定ですが、しかしスパイの存在に気付いた大石内蔵助は、瑤泉院に討ち入りについて明かすわけにはいきません。
内蔵助は、瑤泉院を前にして、丁寧に言葉を選び挨拶を述べます。その発せられたひとつひとつの言葉には、君主の奥方に対しての、誠の家臣たる敬いと真心が込められていて、しかしそうでありながら、決してひれ伏すことはなく、凛とした武士としての尊厳をみごとに保っているのです。
「何という清々しさ!」「おお、これが武士の振る舞い、武士の心か」と、武士道など、あまり分かっていない私にも、武士の何たるかを垣間見たような気になりました。
こういう、実に丁寧な演技というのも、A型の俳優ならではだろうなと思います。
長谷川一夫さんをはじめ、A型の俳優さんたちには皆、そうしたカリスマ性をかもし出す雰囲気や、演技のきめ細かさなどに共通したところがあるように感じます。

一方、案外多かったB型俳優陣。
所作の美しさやカッコ良さという点では、どうしてもA型に一歩ゆずる感じがするのですが、義理と人情を表現させたなら、こちらはB型の得意とするところなのです。
高倉健さんや緒形拳さんなんかは、まさにそういう役者さんたちですね。
実際、B型俳優さんの演じた忠臣蔵は、武士道的なカッコ良さより人情味に焦点をあてている作品が多いようです。
そもそもB型のカッコ良さというのは、”武士”とか”所作”とか、そういう形式ばったものではなく、その人らしさからくるカッコ良さです。
だから高倉健さんも緒形拳さんも、彼ららしいカッコ良さで大石内蔵助を演じていただろうと思います。

O型が少ないのには少々驚きでした。
中村勘三郎さんのエピソードでは、沈着冷静な大石内蔵助を演じてくれということで、涙はナシという設定だったそうなのですが、勘三郎さんは役になりきってしまったあまり、つい自然と涙が流れてしまったという場面があったのだそうです。
心を隠して粛々とコトを進める大石内蔵助を演じるのは、感情豊かなO型向きではないのかもしれないですね。

山村聰さんの大石内蔵助は、だいぶ柔らかい感じになったそうです。
他の役者さんが演じた大石内蔵助とは一種異なる雰囲気を見せたのだとすれば、山村聰さんは、AB型と考えていいのかもしれません。

もちろん、忠臣蔵は史実に基づいているとはいえ、だいぶ装飾が施されている面もありそうです。
それでも、こうしてそれぞれの血液型が演じた大石内蔵助を眺めてみたところ、どのタイプがしっくりくるかと思えば、やはり「A型」と予測するのが無難な線か、という気がしています。
まあ、私の世代では、大石内蔵助に対する固定観念をなかなか拭えないのは否めませんが。
しかし、人物像はともかくとしても、1年以上も世間の目をくらませながら、討ち入りを実現させたという点でも、A型と予測するのは妥当かもしれません。
討ち入りの計画は、慎重に、綿密に、具体的に、そして辛抱強く進められたに違いないでしょう。
それら4項目を合わせ持ち、実現させられるとしたら、A型だろうな、と思えるからです。


東京都港区泉岳寺・大石内蔵助の銅像
(Wikipediaより)
実物に似ているのだとすれば、A型らしい顔立ちに見えますが…。

2017-11-23

O型はやっぱりスキンシップが大好きな人たちだった!

O型と会うとなぜかハグしたくなる不思議!?

インドネシアの人々は写真撮影が大好きです。た~くさんの人たちと”フォト”を撮りましたwww

O型がスキンシップが好きだということは、能見正比古の研究以来、長年伝えてきたことです。
日本の子どもたちを観察していても、O型の子どもはホントに先生やお母さんにベタベタくっついている子が多いのです。
でも日本の場合、他国のようにスキンシップ的な挨拶の習慣がないせいか、大人になると表面はそれほど目立って感じないのですが、それでも聞いてみると、みなさん「はい、そうですよ」と肯定する人が多いのです。

インドネシアはO型の多い国。
そして南国ということもあって、人々は実に陽気でまんまる笑顔。
大人も子どもも、O型パワー中心に、誰もがスキンシップな友好関係を築いているように感じました。
行く先々で役所や会社なども訪問したのですが、それはそれはリラックスして仕事をしている雰囲気です。

写真は、突然の豪雨のため、仕事中の男性たちが雨宿りをしているところです。
皆が座っている細長い椅子らしきものは、スペースがたっぷりあるのですが、なぜか皆、一カ所にひっついて座っているんです。(いや、もっとこっちに座れば?みたいな…)
そして背中をくっつけて押し合ったりしながら、冗談を言い合って、ひたすら笑い転げています。
見ているだけで楽しそうでした。
人間観察目線で歩いていると、こんな風景が、あちこちに見受けられるんです。

今回、カリマンタン島へは、二度目の訪問です。
昨年会った方たちとの再会も、幾人かありました。
それで、改めてしみじみ思ったのですが、相手がO型だと、なぜか自然~とハグしたくなるんですね。
お互いに、目が合ったとたんに、ごく自然に、肩を抱き合うという、そういう挨拶になるのです。
ところが、同じこの地の人との再会でも、これが他の血液型だと、そういうわけでもないのです。

私はAB型です。AB型は本来、スキンシップがそれほど好きというわけでもありません。
私はたまたま他国の人々との交流が多かったせいもあり、割と気軽にする方かもしれませんが、それでも自ら進んで…というほどではなく、だいたいは、相手次第で相手のムードに合わせているところが多分にあります。すると、もうこれは、はっきりと、O型とO型以外では違う、というのが分かるのです。
相手がO型だと、なぜかしら…。お互い遠くから両手を広げ(自然とアクションまでオーバーになります)、まるで磁石にでも吸い寄せられるように抱き合い…感動の再会、となるわけです。

これはまったくのところ、O型魔法にかかったかのようです。(私が魔法にかかりやすいのかもしれませんが)
まあ、つまり、O型たちが、とても自然にスキンシップな人々なので、相手側も抵抗なく、それに馴染むことが出来るということなんでしょうね。

血液型特性の表れ方というのは、血液型の分布バランスと、その土地の気候風土などによって多少異なるところがあるだろうな、と思えます。
インドネシアの場合、O型多数にプラスして、この温暖で開放的な空気が、O型の大らかさを助長させているのかもしれないですね。

注)だからといって、O型が全員、ハグ好き、スキンシップ好きというわけではないのですよ。もちろん嫌がるO型さんだっているに違いないで、むやみに抱きつかないようにしてください。…www