2017-07-25

左右脳の使い方を知ると実現化パワーが増大する


しくみを理解せずに引き寄せの法則を使ってはいけない!


あなたの夢や願いを実現させよう!

それは『引き寄せの法則』という表現でここ最近までよく言われてきたものです。この概念は、2000年あたりから米国で燃焼し始め、その後日本に上陸したのではないかと思います。

しかしこれは、特に新しい発見という訳ではないのです。私たちは、日々の生活の中で、似たようなことをたくさん経験しています。「あ〜、イヤだ」って思ってたら、お腹が痛くなっちゃった、とか、起こらないで欲しいなぁ…ということに限って、起こってしまったりとか。

私は中学生のとき、あるネガテイブな自分の考えがそのまま目の前に現れたのを見て、恐れを抱き、「これからは決して悪い事を想像したりしない!」と自分に言い聞かせたのでした。それからというもの、よく大人達が言うような…「そんな事するとバチがあたるから」、などの脅し文句のたぐいも「そう信じなければいいのだ」という信念でことごとく無視してきました。それが果たして私の人格形成上、良かったかどうかは別として、私があまり周囲の動向やその渦に巻き込まれずに、ノーテンキにこれた理由かな?とも思っているのです。

これは私が若い時に気がついた、一種の『引き寄せの法則』なのだと思います。まあこんなふうに、それぞれのやり方で、私たちは既に、引き寄せの法則を実行していたのではないかと思うのです。ただそれは、ある面やみくもで、そのしくみを理解出来ていたわけではないのでしょう。そのため、私たちはそれを、どちらかというとネガテイブな方向に使っていたことの方が多いのです。それを事を分けて説明し、このしくみが宇宙の法則のようにあらゆるところで働いているのだと伝えているのが、今言われる『引き寄せの法則』です。

私が大人になって、その知恵にあらためて触れたのは、ナポレオン・ヒルの「成功哲学」という本だったと記憶しています。アメリカ旅行に行ったとき知人に会い、そこに居合わせた留学中の日本人男性が、その教義にハマっているといい、興味を持ったのでさっそく本を探してみたのです。

その頃、他にもいろいろなものを読んでいましたが、私のお気に入りはジョセフ・マーフィーの「眠りながら成功する」という本でした。(原題は「The Power of Your Subconscious Mind」~潜在意識の力~)これを書いたのが牧師さんのせいか、私の心に響くような内容が多かったのです。(最近は「マーフィーの法則」という表現になっていると思います。)

とにかく、何か面白そうな事だと、直ぐに実践してみたくなる性分です。それで、もちろん、これについても実践したのは言うまでもありません。そして、なるほど、面白いくらいに物事が実現していくさまに、感動したり驚いたりしたのでした。ところが実践していく中で、次のようなことに身をもって気づかされ、これはものすごく、慎重に扱うべきだということを理解したのです。
  • この法則は真実の法則であるということ
  • 使い方を間違えると自分でも思わぬ方向へ物事が進むということ
  • 実現することとしないことがあるということ

私は、自分がまだこの原理を本当には理解していないという愚かさに気づき、この法則を安易に使うのを一旦やめたのでした。だって、もしも100%完璧に使いこなすことが出来る人が居たとしたら、地をも揺るがすことが出来てしまうのですよ。


血液型の脳特性を知って思考をコントロールしよう


とにかく、まずは”しくみ”を知ることは大切だということです。この法則の原理は、まだ私たち人間の科学では理解しきれていない神秘的な部分もあります。何しろ、”宇宙の法則”なのだから。けれどここでは、とりあえずこの物質界において理解できる部分に焦点をあてて、いくつかのポイントを挙げてみます。
  • 思考に迷いがあってはいけない
  • 明確に思い描けるような内容であるのがよい
  • あくまでも自分中心に作用する
  • 感情、思考、行動が一致していなければならない
  • このしくみを信じきっていなければならない

本来ヒトに備わっている能力なので、誰でも使え、既に使ってもいるのです。ところが意識的に使おうとした時には、知識と訓練が多少なりとも必要です。自転車に乗ったり泳ぎを覚えたりするのに似たようなところがあるのです。4番目と5番目あたりは重要で、知識と訓練が必要なのはこの辺りです。私たちは無意識に、「感情ー思考ー行動」の不一致を平気で行っているのです。

ですので、ここを修正したり、コントロールしたりする必要があります。5番目の「信じきる」ということは大前提となる部分でもあります。この「信じる」ということに関しても、私たちの多くは正しく理解していないところがあり、間違った信念を持っていることが多いのです。

さてここでやっと血液型の話です。少し前の記事で、血液型と脳機能の関係について紹介しましたが、つまり、自分の血液型による特性を理解することで、これら思考のコントロールを効果的に行いましょうということなのです。また、信念体系においても、血液型による傾向から修正改善を手助けすることができます。

ひとつには右脳と左脳の使い方を知ること、もうひとつには自分の思考の癖や信念体系を見直すことがエクササイズのポイントとなります。たとえば、右脳左脳に関しては、一見すると右脳タイプが有利なのか?と思い違いする人が多いです。ところがそういうわけでもないのです。両脳を適切に使うことが必要です。

誰でも備わっている能力とは書きましたが、得意不得意はあります。理論理屈なんか知らなくても、スイスイ〜とやれてしまう人もいます。とはいえこの法則、しくみは至ってシンプルですが、奥は深い。

ブログ記事では具体的なところまで説明しきれず、いうほど簡単ではない部分もありますが、現段階では、血液型の脳特性が分かってきたことで、自分の思考の癖を理解しやすくなり、こうした法則にも応用することができそうだとお伝えしておきます。

血液型についても、引き寄せの法則についても、理解してから活用することをおすすめします。具体的な方法がお伝えできるよう、今後も研究を進めていきたいと思います。



2017-07-20

【科学ニュース】日本人のゲノムを解析したらどこにもない日本人特有の特徴が見 つかった!

日本の特異性とはいったい何を示すのか?


「日本の特異性について最近よく考えるのです」ということを、過去の記事でも書きましたが、歴史も地理もひどく苦手なわたしは、生まれた国でありながら日本についてはむしろ、無知無学と言ってもいいくらいです。しかし「血液型人間学」ということに関わったおかげで、”日本の人々”については考えさせられる機会がしばしばあります。

ただし、わたしが日本について考える動機というのは、他と少々異なっているかもしれません。

・なぜ日本で血液型の研究が早くから始まったのだろう?
・なぜ日本中にこんなに血液型が浸透したのだろう?
・日本の血液型分布(4:3:2:1)が特別なのには意味があるのだろうか?
・日本の人々は血液型の事実を受け入れてながら認めないのはなぜだろう?
・・・etc
という具合に、血液型がらみになるからです。

この研究は、新種の分野ということもあり、またそれを、能見正比古が”フィールドワーキング”という考えで大衆に広めた、というのがあり、実にさまざまな扱いが為されてきました。もちろん個々には、とても心温まる扱われ方もあるのですが、まあ日本社会全体...という観点からは、「ひどい扱われ方だなあ…」というのが多いのです。しかも困ったことに、「こんなもの要らない!」と相手にされないなら、それはそれで仕方ないですが、それでいて、興味シンシンのところがあり、あちこちから変な茶々が入ったりするので、何だかんだ、厄介なのです。それで、その度に、つくづく思うわけです。

「日本の人たちは、いったい、どうしたいんだろう?」

それにわたしは、海外でもこの研究を伝えていますので、日本と他国での、反応の違いというか、受入方の違いのようなものも、肌で感じたりもしてきました。あるいは、ことさら意識したくなくても、国内外の取材人らに「日本人はなぜ血液型が好きなんですか」と、度々聞かれたりするので、結局考えざるを得なくなるのです。

そんな背景があった上に、最近の世界の変わりようの中で、相変わらず、ノホホンとしている日本の人々を眺めながら、わたしのレーダーがやけに”日本人”に向いていたわけです。そこへもってきて、興味深いニュースが飛び込んできたので、「おや?」と思ったので、記録しておこうと思います。

日本人のゲノムは西洋はもちろん他のアジアとも異なる!?

東北大学らが、日本人およそ3500人の全遺伝子情報を解析したそうで、すると、世界中の何処とも異なる日本人だけの特異性があるらしいと分かったと言うのです。

東北大学がプレスリリースに概要を掲載しています。
日本人 3,554 人分の全ゲノムリファレンスパネルを作成 

ここでまず興味深いのは、他国と異なると言っても、西洋の人たちのことなら当然とも思うのですが、アジアの国ともだいぶ異なるという点なのです。

(プレスリリースから一部画像をお借りしました)
ベージュ色の集まりが今回のデータで、東アジアのそれと座標上で比較しています。
明らかに、異なるフィールドにいるという感じです。

アジアと言っても主に中国ですが、お隣の国ですから、もう少し近くてもよさそうなものです。これを聞いて、驚いた人もいるかもしれませんが、私のように、「ほら、やっぱりね!」と思った人も案外いるかもしれません。

以前、日本人は”記憶喪失に陥っているのかもしれない”ということを書いたのですが、今読み返すとかなり意味不明な文章で、読んでもらうには申し訳ないー。ここで要約すれば、「世の中があまりに違う形に変形していく中で、”日本魂”は封じ込められたのかもしれない」ということを書きたかったものなのです。

ですので、「ああ、やっぱり!」と、こうしたニュースを聞いて記憶を取り戻しかけていく日本人もいるかしらと、ちょっと期待しているのです。

また、それとは別に、日本の中でも多少の地域性が示されています。西日本、中部、東日本というふうに、きれな集合域を織りなすのが見て取れます。

そして、この日本地図の色分けが「あれ、確かどこかで見たことあるよ」というものだったので、下にここに並べてみることにします。
どこかで見たことあるというそれは、日本の血液型分布です。西日本、中部、東北という3つの区域で、ある程度はっきりした偏りを示しています。偏りと言っても数値的には数パーセントの事なのですが、それでも地域性といえるものとして、血液型学や民族学などの分野でしばしば取り上げられてきました。

この二つの図表は、妙に重なる感じがします。そしてこの集合域を最初の図表と重ねると、東北に行くほど他のアジアの人々から遠ざかるということになります。

それから、これに関連して、2年ほど前に縄文人のDNA解析が行われたというニュースも思い出しました。こちらにそのチームによる説明記事があります。(生命誌ジャーナル)

ここで、今回のニュースとは少し方向性がずれるかもしれないのですが、わたしの思うところを加えると、この縄文人のDNAというのは、福島の古墳から採取したものです。今回のDNA解析も東北大中心の研究だったせいもあり、東北人のサンプルが多いようです。つまり、「縄文人の特異なDNA」と、「東北へ進むにつれB型が多くなる」のと、今回の「他の国々とは異なる日本人のDNAの発見」という3つの事実は、微妙に関連性があるかもしれないというものです。

もちろん、これが何を意味するのか?というのは、まだよく分かりません。日本の歴史の縄文時代というのは、非常に謎に包まれています。縄文期から弥生期に変容した経緯も、未だによく分かりません。弥生人系の人々は朝鮮半島経由で大陸から渡ってきたと言われてきましたが、その辺りのことも不明な点が多くあります。(←最近のある見解では、弥生人系と縄文人系を明確に分ける証拠は、実はないのだとも言われていますが。)

それでは日本にもともと居たとされる縄文人はどこから来たのでしょう?どうやって発生したの?(←へんな表現ではありますが)縄文人のDNAは、南アメリカのインディアンとやや近いということも興味深いことです…やはり大昔には大陸があったのかも?…なんて。(そうです、アトランティスと並んで噂される幻の大陸、”ムー大陸”のことです。)

パズルのピースは、まだ揃っておりません。埋められないピースが多いのです。




2017-07-16

自分の意思を表明しない日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

Facebookの「いいね!」で分かったことがある


私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。ずい分と、インターネット通だと思われるかもしれないのですが、きっかけは単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかを問われていたようですが、警戒心の薄弱な私自身は、そういうことにあまり不安はなかったのですが、取り敢えず、それなりに広がりは見せたようです。

そして、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみました。まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう?というような事です。

たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがあります。「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。」というような記事もあったと記憶しています。それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。

まあ、そもそも知り合いの数は少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは…キレイな景色の写真を上げた時、美味しそうな食べ物の写真を上げた時、などです。

私の活動を報告するような投稿は、その次ぐらいに多いように思います。私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。

そして、最も少ないのは、私が自分の意見を主張した時、政治や社会情勢に言及したとき、何らかのメッセージ性のある呼びかけをしたとき、などです。そいうときは、まるでその場から人々がスーッと消えたかのように...もしかしたら、私がその投稿ごと消えたかのごとく、周囲からは見えなくなってしまったように、とにかく、ことごとくスルーされてしまう。

日本人と外国人では”Facebookの使い方が違う”という記事には、”日本人は自分の意見を発言する投稿が少ない”、というような事が書いてありました。

うーん、たしかにそうね…こんなにウケが悪いんじゃあねと、自分の投稿の分析をしながら納得せざるをえません。「そりゃ、単にアンタの投稿内容が悪いだけじゃない?」と、自分自身にツッコミを入れたい気もしなくはないなですが、敢えてそれは無視してやっぱり考えてしまいます。何というか、今流の表現で言えば「空気読めよ!」的なムードさえ感じます。Facebookは社交場であり、公共の場と捉えれば、そういうものかもしれません。

これ以上深読みしても、どこまで的を射ているかわからないので、Facebook分析はこのくらいにして、しかし日常でも、あるいは仕事を通しても、『日本人の意見を表明しない状況』というのをしばしば感じてきたので、いろいろと芋づる式に思い出すです。

日本人の奥ゆかしさには深い秘密があるのかもしれない!?

ある日私は、長年親しんでいるヨガのグルが、インドから訪日するというのでその会場に喜び勇んで行きました。このグルは、世界中に1億人もの支持者がいて、尊敬されるだけでなく、人々にとても”愛されているグル”です。日本では初めての講演ということで、関係者らも相当に頑張ったようで、1000人規模の会場を用意していました。それなりに人も集まっています。集まった方達は、ヨガに関心がある人と、その家族や知人というところでしょうか。ヨガもグルもインドが拠点なので、日本に滞在しているインド人たちも2割ぐらいきています。

グルから平和な世界へ向けた講話があり、話のクライマックスに、会場の皆んなにこう呼びかけました。
「平和を愛し、実現するという人は、手をあげて下さい!」

私は即座に、元気良く、小学生のように「はい!」と手を挙げたのですが、何とも白けたことに、私と同じ人は会場の2割ぐらいです。そして残りのうち半分くらいの人が、恐る恐る「ハ…ィ」と、いかにも遠慮ぶかげに反応していたのでした。つまり、手を挙げなかった人も4割くらい居たわけです。元気よく手を挙げた人々というのは、結局ほとんどがインド人たちというわけです。

「あらまあ…そうなの?」と私が不審に思って周囲を観察していると、グルも微笑みながら、穏やかな口調ではありましたが、こういいました。

「ここでは、全員に手を上げて欲しかったんですけど・・・」
そりゃあ、そうですよね!?

平和に賛同するかどうかの意思表明ですよ。考え込む余地は無いと思うし、誰に責められることも、責任を問われることもないのです。だからといって、日本の人々は平和を望んでいる人が少ない?とも思えないのです。

私は、あの時の残念さというか、摩訶不思議さというか、もやもやした気分を、今でもよく覚えています。日本の人たちはこんな時にも、自分の意思を表明することをためらうのでしょうか?私の感覚では、グルの今回の講和の意図とこの会場の目的を考えたとき、賛同の意を表明しない方が、よほど空気が読めていない気がするのでした。

私は、『日本人の本当の気持ち』が表明されない、そんな歯がゆい経験を度々重ねながら、いつか、その根幹を追求し、日本人を見つめ直したいという思いが、ずっとありました。もちろん日本人をイタズラに非難したいわけではないのです。それにここで「日本人」と表現しているのは、個々の人を指しているのではなく、『日本人の集合意識』です。

そしてこの、日本人の不思議な感性を客観的に眺めてみる。冷静に観察すれば、これらはある種の調和性というか、協調性の変形とも見えます。周囲の状況をよく吟味してから一歩を踏み出すという、慎重さの表れのようでもあります。またある種の、奥ゆかしさとも捉えることが出来ます。

そんなふうに見直していけば、決してネガティブな面だけというわけでもなさそうで、『自分の意思を表明しない状況』には、コインの表と裏のような面があるのかもしれません。

では、こういう日本の集団的特性において、血液型との関係はどうなのでしょう。一見すると、そういう奥ゆかしさ的な感じはA型性を想像するかもしれませんが、安易には語れないところもままあります。集団意識としては、他の血液型も同調しているに違いないからです。
集団的特性に対する血液型ごとの反応の違いは、日本人としての集団的特性を理解した上で考えなければならないのかもしれません。

結局、今のところ、考えても答えは見つかりそうにありません。

--------------------------------



2017-07-09

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part2


数日前に書いた、伊豆山神社のお参りお道中の続き、ということで今日は「Part2」を載せたいと思います。
「続き」といいますのは、伊豆山神社には、もっと奥に”本宮”があるということが分かった次第で、まあ、いずれにしても前回は、あまりにも思いつきで行ったため、下調べもせず、また服装や靴の準備も不十分だったものですから、再挑戦しようと思っていたのです。
資料館の脇に、それらしき道があります。
結構な、道のりのようです。
説明を見る限り、1時間ほどかかります。
「修行のための道であったため、険しい道が続きますのでしっかりした服装で!」というような注意書きも。

大丈夫です!
今日は覚悟して参りましたよ。

トキは、朝の6:40分!
出発します!
わぁ~~
とはいえ、ほんとだわ。

このような感じの山道が、永遠と続くようです。
この時間ですから、人っ子一人おりません。

「あ、忘れた~~」
準備万全といいましたけど…
虫刺され防止スプレーが必要だったみた。
蚊がすごいです。

AB型は、O型に次いで蚊にさされやすいらしいのです。
私も本当に、蚊に好かれます。

フーッ
登って、登って…登って…
20分くらい歩いたのかナ…

小さな神社を祭ってあります。
すこ~し
休憩させてもらいました…

…が、長く留まっていると蚊にさされます。
とにかく、まだまだ、
どこまでも、登り続けるようです。

もしかして、半分くらいは来たのかしら?
という当たりに、石が
←こんな風に積みあがっていました。

みんなやっぱり、この辺りで
あーあー、まだなのかしら~
という感じで、一息つくのかな?

何も無い山道で、こうして、人が歩いた形跡を見つけると、ほっと、安心します。(アリガトウ)
それより私は
自分でも自信を持って方向音痴なので
(…というか、とにかくなぜか、人と違った方に進みたがる行動傾向にあるのです。←これは、AB型のせいではないんだと思うのだけど。)

ああーー、でも良かった。
こういう道しるべに出会ったということは
一応、行くべき道へ進んでいるということですよね。
もう少しなのかなあ…
でも、頭は空っぽだし、息は絶え絶えだし、携帯を取り出して、時間を見る気もしないし、もちろん写真を撮る気になんかに、ならない。
立ち止まると、蚊が集まってくるし、、、無心で歩き続けました。

ああ、もしかして
着いたのかもしれない?
「ここからは聖域です」
という小さな看板が…

そして向こうには入口らしき鳥居も見えます!!
わーぃ

心なし、足どりが早くなるワタシ



しかし、やはり喜びすぎるのは、誤りでした。
あー、ホントに、ワタシという人は、いかんせん、早とちり早飲み込みが多い!
いくつになっても改善されない悪癖~
どうやら、ここから、更に上に登るような雰囲気です。
留目の、最後の道のりか!
ようやく、今度こそ到着です!!
無事に、本宮に、たどり着くことができた。

伊豆山神社本宮は、静かに、ひっそりと佇んでおりました。


トキは、朝の8:00頃

太陽も高く顔を見せてくれました!

1時間も山道をハイキングしたのは…
もしかすると、中学生の時、以来かもしれません。

近くに富士山を頂く伊豆の山々は、何か、神聖な空気が漂っています。
今日は満月。
何もかもが満たされています。感謝ー

2017-07-03

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part1




梅雨の晴れ間
伊豆山神社にお参りに行ってきました。

熱海に移り住んでおよそ1年。
散歩コースの途中にある来宮神社ぐらいしか行ったことがなかったのですが
熱海の人から「伊豆山神社という由緒ある神社があるよ」と聞いていたので
一度行ってみたかったのです。
そのオジサン曰く「すご~~い長い階段の参道だよ、大変だよ、バスで近くまで行った方がいいな」
私曰く「その参道を登るからイイんじゃないの?」

そんな会話が交わされてから、半年も経ってしまいました。

その日の早朝、「よし!バイクで行くぞ~」と思い立ち
私の相棒、原付バイクでGo!

ナビで場所を確認すると所要時間は10分くらい。
すぐじゃん!
方向音痴だけど着けたゾ(途中道を一本間違えて戻ったけど…)

ここだわ!
ああ、確かに、由緒ありそうな雰囲気。

階段は170段と書いてありました。

「な~んだ、そんなに長くないじゃない」
オジサンの話を思い出した私は、安易にそう思いました。

*本殿前です。
写真を撮りたかったのですが、赤ちゃんを抱いたご夫婦が楽しそうに撮影されていたので遠慮しました。
私は近くですからいつでも来れます。

*茅の輪くぐり
くぐり方⇒こちらで参照
八の字に「左に回り→右に回り→左に回り」とくぐります。
心身を清めるのだそうです。
この八(8)(∞)の字まわりというのは
本当に意味があるんですよ。
円を描くことで時空のエネルギーに乗れるのです。

*光る石!
座ってなでなでしてみました。


*この高さから見える景色です。
気持ちがい~い

少しのんびり楽しみたいところですが、仕事もあるし(オンライサロンの準備をしなくちゃ!)、本日は帰ろうっと!

ということで、170段の階段をおります。

おーし、帰るぞ!
と駐車場に停めた私の相棒に声をかけ
エンジンをかけます。

……ぶ~~----ん...
……ぶ~~----ん...あれ?
……ぶ~~----ん...か、かからない!?
あららら。

まあ、実は初めてのことではありません。
相棒は、そろそろお年も召してきまして、ときどきそういうことがあるのです。
久しぶりの登り坂全開エンジンだったので、疲れちゃったんですね。
う~ん…と、下り坂を、エンジンなしで自転車のように転がす…という方法もある!
が…、あーだめ、だめ!
この場所でそれを試すのは、さすがにリスキーよ。
道はどっちを見ても狭く険しそうな上り下りが入り乱れており
万一かからなかった場合…どうすんの?

仕方ないので、1時間ほど時間をつぶして待ってみることに。
で、飲み物でも買おうかと、鳥居の向こう側を見渡すと…
あれ?
この、下に長く降りている階段は、何だ?

よく確かめると、この階段も参道らしい?

私は「そっか!」
と、オジサンとの会話を再度思い出しました。
大変って、、、この階段のことを言ってたんだ。
ははは…

じゃ、私はあれですね
オジサンお勧めの、ショートカットをしたってわけですねwww(ナビはいろんな意味で、エライね~)
←ほれ、ちゃんと書いてあるじゃないサ

OK~
どのみち相棒を休ませる時間が必要なんだ。
よしゃ、降りて、そして登ってこようじゃないのさ!

参道を登る覚悟で、その為に、せった履いてきたんだから!(?)
それに、あのオジサンに万一会ったら
「行きましたよ!もちろん長い参道を登りましたよ!」
と言ってやらねばなりません。


そういうことで
降りて↓登る↑覚悟で階段を見下ろしますと…

う…
ぜんぜん先が見えない…
(先が見えない、っていうのは、AB型的には、とても辛いんです)


あれ~まだ?終わりが見えないじゃん!


どこまで続くのか…。



お、もしかして、このアングルが最後?
あの先に見えるのは道路?

そしてその先に海が~

見えた~
先が~

終わりの「先」が見えたら、急に元気になりました。(AB型だよ、あまりにも)

この後、この長~い階段を、登るんですけどねえ。
でも、先の見えない階段を下り続けるより
ぜーんぜん、苦にならないわけですよ...
(わぁ~~アタシったら、AB型全開じゃん!)

で、登り↑↑↑↑ましたよ。
途中息切れして、2度ほど立ち止まりましたけど。
下から、ひとり、おじさんが、スタスタ登ってきていました。
(元気いっぱいに…;)追い抜かれる勢いです。

猫ちゃんも一緒に登ってきたみたい…
あんた、涼しそうな顔してさ、息切れしてないの?
…猫が息切れしてるのはあんまり見たことない。

…しないの?


フ~~~~
登ったーーー



1時間ぐらいは経ったかなあ…

私は、相棒のエンジンをかけてみました!
…プス ……プス …
あーーあ、まだ、だめじゃん!!
どうするかなあ…

と考えあぐねているところ
後ろから女性が驚く声が…
「あらあら~大丈夫!!?」

振り返ると、男の人が倒れている?
老年の女性が慌てて駆け寄っています。
私も行ってみました。

あら?もしかして
さっき、私を追い越す勢いで、あの長ーーい参道の階段を登っていたおじさん?

どうやら立ちくらんで、倒れて、頭を打ったみたい…
「大丈夫、いや大丈夫!」とおじさん。
私とおばあちゃんで、「あ、あ、すぐに起き上がったらだめよぅ、、、」
騒ぎに気付いた近所の女性らもやってきて…
でも、救急車、、、までは要らないみたいな様子。
駅で友人たちと待ち合わせているので連れもいらっしゃるみたい。
その女性らが、親切に、ドライアイスを持ってきてくれて、念のためと近くの大きな病院の電話番号も渡してくれました。

おじさん曰く「いやあね、昨日のみ過ぎちゃってさ、この参道一気に登ってさ、アルコール飛ばそうと思ってさ」
私曰く「飛ばないでしょーーよ」

「ははは、アルコールじゃなくてさ、頭が飛んじゃったよ」

でしょうよ。

で、おじさんはタクシーに乗り
私もとりあえず相棒を置き去りにして、一旦バスで我が家に戻ることにしました。

その後、ひとりぼっちにしたら可愛そうなので、夕方相棒を迎えに、もう一度行きました。(バスで!!)
10時間も休ませてあげたんだからね~
絶対…とは言い切れませんが、私は相棒を信じています!

ハ~イ!
エンジンOK!
ようやく無事に一緒に戻ることが出来ました!

フ~~ッ
なんだか、変なリズムになっちゃた時のAB型に、ありそでなさそな、チグハグな一日でした。(うまく説明できませんが)

でも、相棒も、あの急坂を、頑張ってくれたのです。
おじさんの、ヘンテコなジョークも聞けましたし、たぶん、、頭の方も大丈夫でしょう。

そして、ココ、ご縁の神様に、「オンラインサロンで出会うだろう方たちに、一緒に光を送って下さい」と、お願いもできました。

まあ、ヨシ、としようか、ね。

(by Ichikawa)

2017-05-24

脳の活動と血液型の関係~実験で分かったこと

血液型は右と左に関係していたという実験事実!

脳機能と血液型との関係について、灰田宗孝博士(東海大学)と10年あまり実験を行ってきました。
先日、灰田先生がテレビ番組に協力して下さり、実験方法なども含めて紹介したことで関心を示す人が増えているようなので、ここでも簡単に説明しておくことにします。
現在も実験途中なので、あまり詳しいことまで書けないので概略となります。

この実験では、光トポグラフィーという装置を使用して脳の活性を測ります。
脳が活性している部分はそれだけ血流が多くなるという、非常に分かり易いしくみです。

そして「血液型と左右脳の働きには関係がある」という仮説のもとで行っているのですが、そもそも最初からそういう仮説を立てていたわけではなく、何か関係があるんじゃないか?という曖昧な中で光トポを使って観測してみたところ、「あら?右と左の違いがあるみたい…」ということになったからなのです。


たとえば、その様子を画像で見るとこのような感じで、活性している部分が赤くなっています。

それで、結果はどうかというと、既にご存知の方もいらっしゃると思うし、あるいはそれを聞くと、「あ、やっぱりね、そう思ってたよ」と納得する方も多いだろう、という内容になっています。

まず、A型とB型は、明らかな左と右の対照性を示しました。

A型=左脳の活性量が多い。
B型=右脳の活性量が多い。

言わなくても当たり前のことですが、何もA型の人が、左ばっかり使っているわけではありませんし、B型の人が右しか使わないということでもありません。
とはいえこの実験では、A型は左を土台に、B型は右を土台にと、はっきり言えるぐらいの有意差を示しました。

右脳と左脳の働きについてはいろいろ言われますが、少し抽象的な面から大まかにいうと、右脳は主に外界の情報の全体像を捉えます。左脳はその情報を分類したり整理したり分析したりします。
この時点で、既に誰もが両脳を使うことになるのですが、左脳を多く使うということは、この分類したり分析したりする作業の方を盛んに行うということでもあります。
おそらく、A型の人たちは、脳内の整理整頓が上手なのだろうとも予測できますよね。

一方、右脳を多く使うということは、外界の新しい情報や発見を常に追っている感じがあります。そっちにエネルギーを費やす分、左脳の仕事である脳内整理は少々おろそかになるのかもしれません。B型の人々の活動ぶりをみていると、ナルホドとも思えます。

では、O型とAB型はどうなのでしょう。
この2タイプにおいては、AとBに見られたような明確な左右差は、数値として出ませんでした。
ただ、その動き方を映像で目視した中においては、興味深い様子が伺えます。

たとえばAB型は、全体がぼわ~んと赤っぽくなる人が目立つのです。
つまり両脳の全体を使っているという感じなのですが、血流の広がりと分散があるせいで、その分、強く赤く示す箇所は少なくなります。
ある被験者など、一見どこも活性していないように見えるので、「もしもし?起きてる?」な~んて思ってしまいました。
それでも最終的に数値的な処置をすると、やや左が多いという感じがあります。

またO型の場合は、右と左を交互に使っている人が目立ちます。
そして、その割合や頻度は、人それぞれのようです。
面白いのは、AB型のように同時に両方は使わないらしい、というところです。
また、数値的な処置をすれば、やや右が多いというふうになりました。

さて、これらはある意味、血液型による脳の機能の基本性質と言って良いと思われます。
ただし、これだけなら「ふ~ん」の一言で終わってしまうわけですが、こうして機能性の基本が分かったら、実はそこからがスタート地点である、とも考えています。
そうは言っても、実際、脳科学でさえ、分かってきたように見えても、その核心のところは何も分かっていない、というのが本当のところなので、すぐさま、どうこう出来るというものではないのですが、今の段階で自分の特性というのを知っておいて損はないでしょう。

そして、こうして血液型と脳の関係が少し分かったことで、血液型による体質的な特性や行動の特性について、より視野が広がり、より多くのことが言えるようになってきました。
そしてこの実験は、能見正比古の構築した分析の数々を裏付ける結果にもなっています。
また、人間の脳の機能については、まだまだ未知数なだけに、大きな可能性もあります。
血液型を軸にした脳機能へのアプロ―というのも、なかなか面白いのではないかと考えています。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

脳機能と血液型との関係について、関心を持つ方々が多いようです。
追加の考察に興味のある方は、以下のサイトもぜひご覧ください。





2017-05-22

血液型にまつわる海外事情

血液型に興味シンシンなのは日本人だけじゃないのです。


巷では、血液型について関心を持つのは日本だけだという噂がときどき流れるので、その辺について記載しておこうと思います。
それ以前に、日本人が海外の反応を気にし過ぎるきらいがあるということも、理解しておいた方がいいかもしれません。それについては、以前のページで触れています。

「血液型人間学」を能見正比古が、日本の人々に伝え始めたのは1971年ですが、その活動から10年ほど経った頃、他国からも取材や問い合わせがあるようになりました。
どんな国からどんな取材があったか、詳細を記載するのは少々難なので、とりあえず記憶にある限りをリストアップしてみます。(年代や順序は無関係)
(各国メディアの取材)
・ドイツ~科学ニュース関連の雑誌など(数回)
・フランス~雑誌とテレビ(数回)
・米国~雑誌とテレビ(数回)
・ロシア~テレビ(数回)
・台湾~雑誌関係(日本発行女性誌の台湾版があるので多数)
・ブラジル~テレビ
・英国~雑誌
・韓国~さまざまなメディア(活発な活動を行ったため多数)

欧米諸国の記事においては今のところ”日本の文化”として取り上げられることがほとんどですが、中で印象に残っているのは、ドイツの取材スタッフたちは個人的な強い関心を持つ人が多かったということです。フランスでは、古くから研究しているグループもあるようです。それらについては下の方で補足しますが、次に、能見親子の本が翻訳されている国を紹介します。
・韓国(多数)
・米国(You are Your Blood Type)※能見の本を元にライターが新たに執筆。
・インドネシア
・台湾
・タイ
・中国

また、ネット普及のおかげで、さまざまな国の個人的な問い合わせがあります。どんな国から問合せがあったのか、記憶にある国を紹介します。
米国/フィンランド/オーストラリア/フランス/ブラジル/ルーマニア/メキシコ/韓国/中国/フィリピン/インドネシア/その他

ということで、こうしてあげたリストを眺めただけでも、他の国の人々が決して関心を持たない、というわけではないことが、何となく分かるかと思います。
私が問合せや海外からの訪問者、あるいは啓蒙している中で感じてきたところでは、欧米諸国ではドイツ人やフランス人の関心が特に高いように思いました。
北欧フィンランドの友人に聞いたのですが、ヨーロッパ諸国の中でよく言われていることがあるそうで
・ドイツ人は好奇心が旺盛で何でも飛びつく
・フランス人はどんなことでも独自(フランス流)のものに作り変える
のだそうです。

確かに、血液型に対してもそういう反応だと感じます。
海外で、真っ先に我々にコンタクトをしてきたのは、ドイツでした。
フランスではフランスならではの解釈があるようです。(こちらは4タイプをギリシャ神話に登場する神々?になぞらえているようです。その辺は日本人には馴染みがないのでピンと来ないかもしれませんが、ギリシャ神話に詳しい人ならナルホドと思えるところがあるようです。)
また、米国版「You are Your Blood Type」を出版したとき、興味深いエピソードがありました。
米国では州ごとに売れ行きを見ながら販売戦略を立てていくことが多いのですが、この本はなぜかユタ州においてベストセラーになりました。ユタ州といえば、モルモン教というのが思い浮かび、けっこう戒律が厳しいとも聞いたことがあります。そういう宗教の盛んな州で、この新研究の本がベストセラーって、どいうことなのでしょう?
真相は分かりませんが、”血統”に関しての興味が強いのかも…とも思いました。
しかしこの米国版の本は、編集担当者が突然辞めたことで、この本も一緒に頓挫してしまったという残念な経緯があります。
著者のベッシャー氏は独自に調査も行っており、面白い事実も書かれている本なのにとても残念です。

海外で私が行ってきた、あるいは継続中の啓蒙活動についてはホームページやこのブログでも紹介していますが、現在もっとも活発なのはインドネシアです。
インドネシアはB型が日本よりずっと多いですが、4タイプの血液型もそれなりに揃っていているので調査も啓蒙も行いやすいのです。
また、お隣の韓国においては、15年前に活発な進展があったことで、すっかり浸透しているといって良いでしょう。韓国では独自の研究者が表れたり、血液型の人気サイトがあったりなど、韓国なりの進展をしているようです。

欧米諸国からの個人的な問い合わせは、とても熱心な方が多いです。新鮮なこともあってなのか、非常に感銘を受けるようなのです。ところが、自国では血液型の情報があまりに少ないため、残念でならないと皆さん嘆いていらっしゃいます。

このように、血液型に興味を持つのは、実は日本人だけではないのです。血液型は人類共通の遺伝子なのだから、国が違ってもその素材的な性質は同じですし、それは当たり前といえば当たり前のことなのですが。
しかし、古川氏や能見親子が、開拓者精神で頑張ったこともあり、日本で深まり、広がりました。この事実は、とても貴重なことだと思っています。
今後、この「血液型人間学」が、日本から世界中に広がる可能性は充分あるのです。

それにしても、私がいろいろな国の人たちと交流してきた中でつくづく実感するのは、血液型を理解して外国の人々と関わると、とても楽しいということです。
楽しいというより、楽(ラク)だと言った方がいいかもしれません。
「ああやっぱり、○○人はね」とか、「国が違うからね」「宗教が違うからね」とか…、もちろん、それは環境の違いとしては、あるにはあるのですけれど、血液型を理解していると、不思議とそういう違いなんて、どうでもよくなるのです。
それよりも、「あら、A型らしいこと言うわね~」とか、「そうか、B型だったのね」とか、血液型の特徴を見出す方がずっと楽しいし、何よりも優しい気持ちで接することが出来るのです。相手と接するのに、なぜか肩の力を抜いていられるようになるのです。
皆さんにも、ぜひこの感じを味わって欲しいのにな…。

そういえば、書き忘れましたが、能見正比古の一番弟子は、米国からやってきていたアンディというAB型の男性でした。
そうしてみると、「血液型に興味を持つのは日本人だけなのか?」というテーマに対する今のところの結論は
「血液型には、どの国でもどの人種でも興味を持つ人はいるのだけれど、広がるだけの環境と研究土壌が最初に整ったのが日本だったので、日本で盛り上がった」
ということではないでしょうか。

2017-05-15

DNAの真実、それは血液型人間学の可能性を探る手がかりにもなる

















遺伝子(DNA)についての真実が、もっと解るようになった時、ABO血液型の働きもようやく解明されるだろう…ということを示唆する本について、こちらとこちらののページで紹介しました。

思い起こせばヒトゲノムが解読されたのが2003年。
当初は、ヒト遺伝子の9割はガラクタなのか?と思い違いされるほど、科学者たちも遺伝子について分からなかったのでした。
その後、残りの9割は、働いている1割の遺伝子をコントロールしているらしいということを突き止めました。
けれど、それが一体どのようなしくみでコントロールされているのかは、まだ理解されていません。
というのが、主流科学の現状だと思われます。
DNAについて、私たち人間はまだよく分かっていない…そういう中にはありますが、とても興味深い、「え!?」というような実験事実も、精鋭の科学者らによって報告されるようになっています。

◎DNAはテレポーテーションする

2008年にノーベル生理学賞・医学賞を受賞したルーク・モンタニエ博士は、2つの密閉された試験管を並べてこんな実験をしました。
一方にはバクテリアDNAの断片を入れ、他方の試験管には純粋な蒸留水を入れます。
そして2つの試験管を7Hzの電磁場の中に設置し、十数時間後に調べたら、滅菌した蒸留水を入れた方の試験管にDNAの断片がわずかに発生していたというのです。
(7Hzの磁場を発生させずに行った実験ではテレポーテーションは起こらなかったそうです。)
これはつまり、DNAが空気中(空間)を通して何らかの働きをした、と言えるわけです。
また、7Hzという電磁波にも意味がありそうです。

DNAについての「え!?」という報告は、他にもいくつかあります。
いずれもこれまでの常識とは少々肌合いの異なる報告であり、DNAには、まだ沢山の真実が隠されているらしい、ということを示唆するものばかりです。
そして、ブルース・リプトン博士が言うように、DNAを動かしている張本人は、情報をキャッチする細胞のアンテナなのです。
つまり、ABO血液型(細胞表面糖鎖)は細胞のアンテナに他ならないという事実。
もの事はそう単純ではないかもしれませんが、[DNA-細胞-ABO血液型遺伝子]これら全体像が、ぼんやりではありますが、見えてきそうな気配がしています。

能見正比古が血液型の驚くべき調査報告をしてから45年。
私が血液型人間学に関わって数十年余り。
「何故だろう?」「何故、血液型が人間の行動にこんなに関わっているのだろう?」という「?」マークのおかげで、ぐっすり眠れない日々…(オイオイ、爆睡してるだろ!)
…とにかく、モヤモヤした気分がずっと付きまとっていた、というのが正直なところでした。
そしてある時点では、「まあ良い、それは100年後、やっと解るのかもしれないけれど、それは私の仕事ではない。今できることは、現在観察して見えている事実を認めることしかない」という、ある意味”諦め”のような境地でいた、という面も無きにしも非ずという感じでおりました。

ところがここ数年は、何やら面白いことになっているのかもしれない、という、そわそわした気分が続いています。
それは、血液型だけのことを言っているのではないのです。
生命の神秘に、ようやく光が当たりそうな予兆です。
それに、これらDNAの新事実を見ても感じることですが、人間の意識全体が、これまでとは違うフィールドへシフトしているらしい、というのを確認するようなことが、益々増えている気がするのです。

そして、DNA周辺の真相が理解され始めると、人間の可能性についても言及されるようになるだろうなと予測するのです。
それがどういうしくみかが分かれば、その働きを最大限に活かせるようになる…かもしれないのです。

でもまあ、周囲の人たちにそういう話をしても、案外反応が薄いのですよね。
私の説明が下手くそなのかもあるだろうけど。
そもそもやっかいなのは、DNAにまつわるこれらの報告は、どうやら量子論を理解しないと、何とも解せないという面があるようなのです。
私たちは今、3次元という物質世界で物事を捉えていますが、量子論では何と、12次元まで一気に飛んでいくようです。
たとえば、ある現象は観察者によって消えたり生じたりする、というような、何とも不思議な理論を展開させる世界です。
それでもそういう世界観も、一般の私たちも、いずれは理解できるようになっていくのではないでしょうか。

それで、思い出すのはSTAP細胞の小保方女史の一件です。
彼女はあの問題の後、再現を試みましたが失敗に終わりました。
何度も成功させたと発表していたはずなのに…?
そこには、量子的(クォンタム)な秘密が隠されているのかもしれませんね。
いつか小保方さんも、ぐっすり眠れる日が、訪れる…かもね。

ある日魅力が再燃した 田中角栄さん

田中角栄B型「日本列島改造論」
コンビニの本棚でしばしば目にすることがあったのですが、そういえば昨年は、元首相の田中角栄氏が、再燃焼していたようです。

それで、田中角栄について、書こう書こうと思っていながら、結局失念していたのを今頃思い出しました。(だから今書きます)

それにしても、再燃したきっかけは何だったのだろう?
石原慎太郎氏が小説を書いたから?
没後20年だったから?
テレビも見ない新聞も見ないという、愚か者の私は、もはや世の中のブームには、ついていけないどころか知ろうとさえしないという、始末に負えない状態なわけですが、それでも街なかで、"田中角栄"という文字を見たり耳にしたりすると、ピクンと食指が動いてしまうのです。

田中角栄が総理として在籍していたのは1972年-1974年(政治活動は1947年~)。
現在の若い人たちは、彼が表舞台に立っていた姿をほとんど知らないのでしょう。
じゃあ、私は良く知っているぐらいの年齢なのか?といいますと…いや、そうでもないです。
小学校3年生か、4年生か…。
政治のことなんて、まるきり分からないし、興味の欠けらもありませんでした。

しかしそんな私でも、田中角栄の、甲高いけど、親しみ深い…あの声とか。漫才みたいなしゃべり方をする、あの口調とか。ヤアヤアと手をあげて現れる、あの姿とか。思い出すだけで、今にも目の前に現れそうなくらい、懐かしく感じるのです。

あの頃日本人は、みんな田中角栄が好きだった…というか、まあ、それはもちろん、全員が好きだったわけでもないのでしょうが、嫌いな人でさえ、興味深々だったには違いないのです。
日本中が、田中角栄のエネルギーに包まれていたような感じだったのです。
「ああ、この人なら日本も大丈夫だ」と、多くの人々に思わせていたような気がします。
だから、"親父"とか"父"というふうに、周囲から呼ばれていたのでしょう。
日本の政界において、100年に1人現れるかどうかという、スーパーヒーロー的な人気を博した、実に稀な政治家であり、総理大臣であったわけです。

さて、ここまで書いてきましたが、田中角栄の血液型は何型だと思うでしょうか。

はい、そう、「B型」でした。

親分タイプ(B型の場合"親方”というニュアンスになるのですが)のB型ってどんな感じだろう?と思ったら、田中角栄を想像するのが良いかもしれないのです。

ところが、総理就任2年目には金脈問題で総辞職。そして間もなく、ロッキード事件(汚職事件)が明るみになります。
問題が起こった当時は、毎日がそのニュースばかりでした。
「まったく、何でそんな事に…?」
子どもながらに、釈然としない不可解さが残りました。
そして不思議なことに、田中角栄を『罪人』という風には捉えなかったのも覚えています。
何というか、大人の社会の複雑な事情があるんだろうなと…。
「金まみれは悪」「賄賂は悪」と正論が叫ばれても、それがもちろん、良く無いというのは理解するけれど、もっと違う、裏の裏のカラクリがあるように、子どもながらに感じていたのです。
実際のところ、更に釈然としなかったのは、そんなに"悪い"ことをしたというのに、その後、脳梗塞で倒れても尚、"闇将軍"と呼ばれながら、長く政界に君臨していたのです。
私には政治の世界が、何が何だかさっぱり分かりませんでした。

結局、日本中、田中角栄を囲んでのお祭り気分は、ほんの一時で終わってしまいました。
今思い出しても、あの事件の騒ぎが収まっていくと、本当にそれは、まるで祭りが終わった後のように、みんなシュンとして、口数も少なく寂しげにそれぞれの家に帰っていくかのように、静かになってしまったようでした。

日本はその後、急速にバブル経済に向かって行くのですが、それは決して明るい道とは言えない、見せかけの上昇気流だったのは言うまでもありません。
そしてこの事件をきっかけに、私は、社会の"闇"のようなものを、肌で感じ始めていた気がします。
世の中で、でいろいろな事件や問題が起こっても、その報道されるニュースを鵜呑みにすることは、もはや出来なくなりました。
その陰にある真実は何だろう?
もう一人の私が、そう問いかけているのです。
こうした分析的な思考性は、AB型ならではのものかもしれないのですが…。

とにもかくにも、田中角栄という人は、表舞台で国民を喜ばせたのはほんの束の間であり、その後は陰の世界へ(?)、お隠れになったというわけなのです。
でもやはり、親方タイプ、オマツリタイプのB型は、表舞台に立った方がお似合いです。
陰に隠れてからというもの、田中角栄の良いところは、ちーっとも見えなくなってしまったのですから。

それにしても、なぜ今、田中角栄なのでしょう。
あれから40年。今思えば、ある意味、田中角栄にまつわる一連の出来事は、日本のひとつの節目だったのかもしれません。
そして今、新たな節目を迎えているのだとすれば、田中角栄のような親方が、今の日本に必要なのかもしれません。
しかし万一、今度そういう人物が出現したのなら、B型的な”脇の甘さ”を、周りはしっかりカバーしてあげなきゃならないですね。(血液型人間学の本を議員に送らなければ!)

補足するなら、血液型が判明しているB型歴代総理は、田中角栄、竹下登、野田佳彦、安倍晋三です。
こうして見ても、田中角栄ほどにB型カラーの強い人物は見当たらない気がします。
その”色”が濃い、ということは、その特性をいかんなく発揮している、ということでもあるのです。


神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”



近頃、日本人について、つくづく考えています。その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえといえばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを感じざるを得ない、と思うことが、しばしばあるのです。だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれませんね。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもプンプンするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、わたしもそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろんわたしは、心の中では思っています。「…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいな」と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。


『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

わたしもそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同時に、重度の記憶喪失現象に陥っているのかもしれない、とも思い始めました。

そういえば、かつては”黄金の国ジパング”と呼ばれたこともあり、”神の国”と呼ばれたこともあったわけです。もちろん、できるなら今でもそう呼びたいところですが、今の我々日本人が、とうにそういう意識は薄れ、そんな呼び方をしてよろしいものかという、懸念というか、後ろめたささえあるものだから、「かつて」と言わざるを得ません。

その上、今となっては、なぜに何をもってして、”黄金の国”だったのか、”神の国”だったのか、言い伝えの根拠はまちまちで、断言するほどの勢いも無いわけです。だからと言って今更、黒船が…、敗戦が…、教育が…と、いろいろ理由を挙げたとしても、誰かのせいにするのはいかがなものか、とも思います。結局は、我々日本人自身が、どんな経緯にも責任をもたねばならないのです。

それで行き着くところ思うのは、とにかく日本人は、重度の「記憶喪失」現象を起こしていることを、認めることが先決のような気がするのです。日本人が重度の「記憶喪失」現象に陥っていると、半ば確信を持ったのは、とあるデータを閲覧したときです。それは「社会実情データ図録」というサイトで、本川裕さんという方が日本や世界のさまざまな統計データを収録、分析してくれているものです。ここで目にとまったのは「神の存在、死後の世界を信じるか?」というものです。

さて、日本人はどうかというと、神の存在も、死後の世界も、「信じる」という回答が少ないとあります。そしてもうひとつ、日本人の特徴は、「わからない」と回答する率が非常に多いという事です。この、「わからない」「どちらともいえない」という回答の多さは、日本人特有の傾向なのだそうで、それは他の設問においても、常に多いらしいのです。

本川氏は、この日本人の曖昧さを、『和』や『中庸』の精神だろうと分析しており、わたしもそれには納得するのですが、別の側面から見ると、正直なところホントに「わからない」のではないかとも感じているのです。それはまさに、「記憶喪失」者の回答そのものでもあるからです。

そう言っておきながら、記憶喪失者に会ったことは無いので、自分がもしそうなったらと想像するだけですが、記憶が封印された箇所について訊かれても、そうであるような無いような…というように、モヤモヤと曖昧で「わからない(=覚えていない)」と回答するしかなのではないかと…、そう考えたからです。

それでその、モヤモヤした中で、「黄金の国?」「神の国?」と、(?)マークを付けながらも、薄っすらではあっても、あながち単なるホラではないかも?という思いが、日本人の心の奥底に漂っているのかもしれない、という気もしているのです。これに関連して「神、宗教心」について本川氏がコラムを別途掲載しています。「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」

本川氏の解説を参考にしながらざっくり考えると、日本人は、「宗教的な心は大切だけれど、現存の教義は今ひとつ不確かで、信心するに至らない」ということなのかもしれません。少し言い換えると、日本人は、信心するべき”何か”、があるような気はしているのだけれど、今のところそれが何かはよく分からない、と考えているのだという感じでしょうか。まあだから、何度も言うのはしつこいですが、重度の「記憶喪失」現象に陥っているからではないかと。

ここまで書いてきて、血液型の話から、ずいぶん遠のいた感があるかもしれないですが、実はこの、日本人の曖昧さ加減(=記憶喪失現象)が、「血液型人間学」への扱われ方にも、たいへんよく似た状況を起こしてきたのです。

血液型と人間性には、”何か”、ただならぬ関係があるような気もするけれど、それが何なのか、明確に証明するお墨付きも無いし、今のところ曖昧にしておくのが無難、というような感じです。

記憶喪失”現象”という言い方をしているのは、内容によっては、実際に記憶を喪失していることもあると思うのですが、白黒つけようもなく分からないので記憶喪失のフリをしている、という意味合いも含んでいます。

そして血液型人間学に関して言えば、最初に研究した古川竹二さんまで遡ればおよそ100年ですが、能見正比古が事実現象を公開し、一般の人々に知られるようになって46年。これだけ人々に広まっていながら、およそ半世紀もの間、この曖昧さに対してとことん追求しようとする向きは一向に訪れず、宙ぶらりんのまま今に至っているのです。

それに、先代の能見俊賢にしても、わたしにしても、こうした日本人的性質にむやみに抵抗しないよう、ゆるやかに進めてきた、というところもあります。タラレバ話をするなら、B型の能見正比古がもっと長く生きていたなら、私(AB)や能見俊賢(A)のように”ゆるやかに”とはならなかったかもしれません。そもそも研究した張本人でありますし、あのB型的な勢いで邁進し続けたなら、今とは状況が変わっていたのかもしれません。

とはいえ、”時のカミ”がいるのだとしたら、タラレバを言うのは無意味なことで、それは起こるべきときに起こるのですから、全ては流れのまま進んできた、ということなのでしょう。

話は日本人が記憶を喪失した「神」に戻ります。ここ数年、スピリチュアルなことに若い人たちが強い関心を示すようになっているようです。私の住処の近くに在る有名な神社など、休日ともなれば中高年者と同じくらい若いカップルたちも多くて、正月並みの行列になるほどの賑わいぶりなのです。だからといって、そういう人々が信心深く、神がかっている、という風にはもちろん見えなくて、誰もが、お祭りに来ているようなはしゃぎようと気楽さなのです。

まあ、深読みするなら、こうした流行は、それがたとえ無意識であっても、もしかしたら、失った記憶を思い出そうとする、日本人の集合意識から発生している現象なのかもしれません。とにかく、こうして日本人のことを考え始めるときりがないし、とどのつまり何が言いたいのか、分からなくなってしまうことが多いのです。

さてこの、およそ意味不明な文章を締めくくるのに、10年前なら、「いつか、真実が分かる日がくるのでしょうか?」とでも書いたかもしれません。ところが今は、これまでとちょっと違う気がしています。真実が分かる日が、何やら刻々と、近づいている気配もしているからです。

「神の存在」について、あるいは「血液型人間学」についても、ある日、真実が分かる(思い出す)その時がやってきたら、日本人総記憶喪失現象からやっと抜け出せる、ということになるのでしょうか。