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2020-09-20

神秘的な「Y染色体」が持つ意味と可能性

 Y染色体は何万年たっても薄まらない?


日本の皇室は、初代天皇とされる神武天皇御即位の皇紀2680年前から万世一系を維持してきました。ところが近年、皇位継承資格者が少なくなってきたことで女系天皇容認論がいわれるようになり、2004年には有識者会議が開かれ、皇位継承問題として今も論争が続いています。

この問題、ABO血液型とは関係ありませんが、万世一系とは生物学的にいうならY染色体のことでもあり、”DNA”を考える上では全く無縁なことでもない気がしたので、一旦整理しておこうと思ったのです。

今や、いろいろな方が語られているので、『Y染色体』の特殊性について知る人も多くなってきたと思います。これはヒトの23対46本の染色体のうち、男子を決定する遺伝子が座している染色体です。図にあるようにY染色体(対の短い方)は、対になるX染色体とはほとんど交わらないため、何世代たっても同じY染色体として受け継がれてゆくのです。一方のX染色体は、世代が代わる度に少しずつ交わりながら変化していくので元の染色体はどんどん薄まっていくのです。そのため、女性の時系列を調べるときにはミトコンドリアが使われます。

何でも最近のゲノム時系列の研究によると、現在のサラブレッドの95%が、1700年に生まれたダーレーアラビアンという一頭の種馬であることが判明したそうです。ただしサラブレッドの場合は、皇室の万世一系のように誇れることというより、遺伝子の多様性が低くなることへの懸念の方が取りざたされているようなのですが。

(上図は、Willで発信した竹内久美子さんの解説動画からお借りしました)



最終的には国民がどうありたいのかが問われる

話を皇位継承に戻すと、2680年もの間、このY染色体が受け継がれてきたと考えると、やはり万世一系によって日本の皇室が保たれ、それが国体を担う要となってきた意味は大きいのだと思います。

もちろん、神武天皇のDNAを調べることが出来ない今、100%正当性を証明することはもはや不可能です。研究者の中には、2度ほど皇位奪取された可能性があるという説を唱える人もいるようです。しかし知り得ようがないとはいえ、万一、百歩譲って、そういう史実があったとしても、それで万世一系を崩壊させて良いと考えるのはあまりに短絡的でしょう。

それに、そうはいってもまさかその時代、そこいらへんで畑仕事をしている農夫の子どもを連れてきたわけではなかろうし、その時の朝廷と全く縁もゆかりもない人物が天皇になったとは考えにくいわけです。

女系天皇を容認するということは、まさに、そういうことが起こってしまう恐れがあるということです。例えば、ワタシに息子がいたとして、仮に突然変異的に優秀な子だったとしてもいいですが、何らかのご縁で皇位継承者のどなたかと恋愛関係になり、結婚したとします。すると、ワタシの息子のY遺伝子が受け継がれてゆくようになるわけです。そして同時に、ワタシの父の系譜が以後、皇室となってしまうわけです。例えがあまりに酷くて申し訳ありませんが、極端にいえばそういうことで、それはいかがなものかと、誰もが思うことでしょう。

また、ゲノムだのY染色体だの、当時は知りようもなかったではないか。それなのに後からこじつけた論理で正当性を訴えるのはおかしいという方もいるようですが、そこはやはり、人間の歴史や知恵というものをあまり低く見てはいけないのであって、例えば薬草などの効用なんかも、その組成など科学的には知り得なかった時代でも、現代人以上に古代の人は解っていたという事実など、溢れるほど存在するのです。

実際に私たちは、近年代々の天皇陛下をご拝見していて、国民が尊敬するご人格と品格を、かくも期待する以上にお持ちになられていらっしゃることを充分承知しているのです。そこに真実が存在するのであって、そうだとすれば、あとは私たち国民が、天皇と国民という信頼関係の長い歴史をふまえて、何を基軸にしたいかということになるだろうと思います。

最終的には、国民がどうありたいのかであり、私たちひとりひとりの意思が問われることになのではないでしょうか。

遺伝子をあなどるなかれ

ここでまた遺伝子に話を戻すと、このY染色体について、ゲノムが解析された当初は、性別を決める遺伝子以外の意味は他に何もなくて、ガラクタ遺伝子の集まりのように考えられていました。ところがこれも最近、他にも重要な働きがあるかもしれないことが分ってきたというのです。

こうやって、何度も何度もガラクタ説をくつがえされると、結局私たちの身体には、必要のないものなどひとつもないのだと考える方が、ずっと真実に近いのではないかと確信してきます。それに、ある遺伝子はひとつの働きだけでなく、必要に応じて多様な働きをしている可能性もあるのです。

そして更に重要なことは、遺伝子は、あらゆることを記憶しているということです。単なる機械のパーツのように機能しているだけではないのです。何千年、何万年、それ以上にもっと古来の人類誕生のときから、移り変わる地球環境の中で、その土地で、その地域の文明と文化の中で、その民族で、その一族で、経験してきたあらゆることを、情報として蓄積しながら受け継がれているという考え方です。

遺伝子には、それぞれいろいろな役割があるわけで、たとえばABO遺伝子の場合は、外部とのコミュニケーションや免疫のしくみを担っている可能性があると考えられます。そしてY染色体に関する遺伝子を考えるなら、それはやはり、何かを継承するものを担っている可能性があります。Y染色体が薄まらないのには、人類の進化にとって何か重要な理由があると考えてみた方がいいとも思えます。

そうだと仮定するなら、皇室においてY遺伝子が永遠と受け継がれるということは、天皇とは何たるかを、歪みなく継承するために必須であるということになるでしょう。

今年春、大嘗祭が執り行われました。この神秘的な儀式は、ご即位される新天皇が、神武天皇以来代々の天皇らと、天照大御神らの神々と、お食事を共にし、その叡智を降ろしていただくというものです。そしてここに生きる天皇陛下も含めた我々は、肉体を持っています。それはつまり、天と地のさまざまな情報を入れ込む器のようなもの。器なら何でもいいということではないでしょう。天皇として脈々と受け継がれてきたY染色体には、神々の壮大な叡智を受け取るだけの秘められた何かがあるのだと信じる方が、ずっと自然ではないかと思います。

いずれも私の都合のよい解釈かもしれません。けれど、ABO血液型遺伝子について長年眺めてきた私としては、人間のいまだ解明されない可能性は、想像するよりはるかに大きいのではなかろうかと、常々感じているのです。

いつか…それが100年後か、千年後かは分かりませんが、日本や世界のしくみは少しずつ変わってゆくのでしょう。日本の国体も、永遠に続くものではないかもしれません。けれどそれは、一歩一歩確実に、その歩みを私たちの遺伝子に、しっかりと刻みながら進みたいと願うのです。その歩み方は、何万年後の人類の遺伝子に、受け継がれてゆくのですから。


2018-03-28

細胞は思考するーブルースリプトン博士が到達しようとするその先は?

細胞は賢い!そしてABO血液型も賢く働いている?


以前にもこのブログで簡単に紹介したことがある「思考のすごい力(原題:The Biology of Belief)」という、細胞生物学博士ブルース・リプトン氏の著書を再考察します。

リプトン博士の発見は、生物学における「セントラルドグマ(中心教義)」という概念(現在はこれが強く言われることは少なくなった)を、ある意味覆すことになるものでした。セントラルドグマとは、遺伝子の情報伝達においての中核的な教義で、あらゆる生物の生成は「DNA→(mRNA)→たんぱく質」という一方向の順に情報が伝達されるという基本原理のことです。


そしてリプトン博士自身も、その日その時までは、「セントラルドグマ」に従って研究を進めていたし、生徒たちにもそのように指導をしていました。ところが、生徒たちに教えるためのノートをまとめている最中に、リプトン博士は、はたと気づきます。


「細胞は、DNAの命令に従っているわけではない!」


細胞生物学者である博士は、何年もの間細胞を観察していて、その働きの独立性や知性については充分知っていました。ところが、ある壁(細胞膜)があることで、その神秘を説明して次の展開に進むことができずにいたのです。しかしその瞬間、その鍵を探し当てます。まるで電光が射し込むように…博士の知性の扉が開く瞬間でした。1985年の出来事です。


その後リプトン博士は、医学生の教育現場から医学部研究室に戻りますが、彼は「セントラルドグマ」に異議を唱え始めます。それを他の生物学者らが嫌がったのは言うまでもありませんが…。博士は、何年もかけて「魔法の細胞膜」を説明する方法を改善しながら、"生命の秘密を解く鍵"について訴え続けることになります。

本書が本国で出版されたのは2005年ということは、博士の最初の"気づき"から既に20年もの月日が流れています。その間、博士の理論を裏付けるような研究発表が次々と行われ始めます。そしてヒトゲノム計画(DNAの解読)の終了が発表されたのが2003年。その時、マウスとヒトの遺伝子の数は同じ…つまり、遺伝子だけ調べても人間の複雑さは分からないということが明らかにされたわけですが、本書の発表はその数年後になって、やっとその時を得たということでしょうか。

リプトン博士がこの本を出版したあと、同様の研究者にこう言われたそうです。

「しかし君、これは特に新しい発見というわけではないのじゃないかね?」
細胞学者にとっては、細胞が外部の情報を受け取って内部に伝達しているということも、細胞の賢さも、遺伝子が全ての支配権を握っているのではないことも、既に周知のことなのでした。
しかリプトン博士が彼らと違ったのは、その細胞の働きを単なる物質の働きと捉えるのではなく、それが"思考"していていると捉え、それがいったい何を物語ることになるかというところまで、発展させたところにあるのだと思います。

本書を読んで、教義に異を唱えたリプトン博士が味わったその数十年の経緯を見ていると、学者たちというのは、どうしても自分の専門分野を超えない範囲でしか見ない…というか、現状、見れないシステムになっている、というのがよく分かります。「セントラルドグマ」という教義が既に古くなったと分かっていながら、誰も(リプトン博士以外)それについて触れようとしなかったのは、たとえば細胞学者からすれば「細胞が情報の伝達をやり終えたあとのことは、DNAをいじくり回す人がやってくれ、私たちここまでだから…」という感じだからです。お互いの領分は侵さないという不可侵条約みたいなものが、暗黙に了解されているかのような雰囲気です。


ここで本題にもどると…

本書では、細胞ひとつひとつがまるで脳であるかのように、複雑さ極まりなく賢い様を、分かり易く説明しています。
"遺伝子が支配していない"という説明では、たとえば細胞からDNAが収められている「核」を取り除いても、細胞はだいぶしばらくの間それまで通りの活動をします。もちろんいずれその細胞は死に至るのですが、それは核からの情報指令が失われたからではなく、再生し増殖する能力が失われたからです。つまり細胞が核にある遺伝子に再生要請をすることで、遺伝子ははじめて情報を生み出すからです。となれば、遺伝子は生命の中核を成す脳というより、むしろ生殖器のようなものである、と博士は冗談めかします。外界の情報を受け取って「これが必要」「それを送れ」と脳のように指令を出しているのは、細胞膜のたんぱく質の方なのです。

そして、我々が生命を維持するのには、内側というよりも外側からの入力が重要であるとも言っています。「環境→細胞表面・細胞膜→核(DNA)→新たなたんぱく質の生成」という順路で生命維持は行われるのだと。

もちろんこれらは留まることなく循環している作業ですから、どれが鶏か卵かというところもあります。博士は、「セントラルドグマ」の古臭い概念を崩したいがために「遺伝子は生殖器のようだ」と言ったのですが、そもそも、どこに中心をおくとか、どこに支配権があるとかいう、一方向的な支配構造概念を、私たちは取り払わなければならないということかもしれません。

こうした考えに似た理論は、生物学者も遺伝学者も、既にいろいろな本に著したりしているとは思います。けれど同じ現象を観察して説明したとしても、その人の知性や視点によって捉え方は異なり、最初はその差はわずかに思えても、いずれ大きく離れていくことになります。これまでの科学はそんな微妙な分岐点を、あるところで見過ごしながら進んできたのではないかという気がします。


では、するとABO血液型は、この賢い細胞上で、どのような働きをしているのでしょうか?

博士は本書の中では、細胞膜やたんぱく質全般について話しているのであって、ひとつひとつの特徴的な働きや細胞表面についてまでは言及していません。しかし、細胞の膜とその外側における、むしろ環境からの入力をどう処理するかが、私たちの生命を維持したり、活動を制御したり、知性を発達させたりしているのだ、ということは明確に示しています。
何度もお伝えするように、ABO血液型は細胞の表面に乗っかっている糖鎖であり、レセプター(受容体)です。ガラクトース(B型に関与)やNアセチルガラクトサミン(A型に関与)などが、その代表的なものですが、これら糖鎖が外部の情報を細胞内へ受け渡す役割を担っているのです。外側の情報をどのように知覚しどのように受け渡すか、というその鍵は、糖鎖が握っている、ともいえるのです。リプトン博士の言うように、生物としての細胞が思考(信念)を持つならば、ABO血液型のそれぞれも、それぞれの受け取り方、それぞれの振る舞いの中で、何らかの信念形成に関与していると考えられます。


そして今後の研究と可能性

私はこの本を数年前に読みましたが、あらためて再読し、記事をここに再度残そうと思ったのは、昨年終わり頃から放映しているNHKスペシャル「人体」という番組を観たからでした。

この十数年、一方では(今の)科学の限界が言われ続けていました。

「もう充分研究したが、この先何を発見すればいい?人間の頭脳で検証できることは全部やったし、今分からないことはこれからも、人間には分からないのでは?」
ところが、意外なところからその壁を打ち破る方法が生み出されている、ということを、この番組を観て知ったのです。
それは、MRIなどを観る際の画像処理技術が画期的に改善されたことで、今まで部分的にしか観れなかった血液循環の様子など、その範囲が大幅に拡大し、体内を流れる血液の中で実際に何が行われているのかという全体像が明らかになってきたのです。
それは驚きでもあり感動でもある光景です。たんぱく質らやレセプターらは、ひとつの情報をキャッチするやいなや、光の速さ(実際、光って見える!)で指令を出し、それらは次々と連携してゆき、体内の総てが共同で連動し合っているという事実を目撃するのです。

こうなってくると、私は××の研究だけしていればいい、とは言えなくなってくることでしょう。もはや、血液の研究者も、脳の研究者も、免疫の研究者も、あらゆる分野の研究者たちが総動員しなければならなくなったのです。人間というのはこの目で見たものしか信じない…という愚かしい信念がありますが、人間による理性ではなく、画像技術が生物学界の不可侵条約を打ち破ったというのですから、少々皮肉でもあるような気がします。

考えてみれば、むしろそれに関わっていない私たち一般人の方が、「部分的な研究じゃなくて、お互い連携し合って研究すればもっとよく解るんじゃないの?」と、ずっと長い間思っていたかもしれません。
とにかく、この全体像を観測できるようになったことで解っていくことは、革命的な人体科学の進歩になるだろうということです。ご覧になった人も多いと思いますが、テレビでは視聴者の身近な関心事にうったえるため、まずは癌の治療法が画期的な解決に至るであろうという点を大きく取り上げていました。それは本当に、多くの人が安堵する、素晴らしいことです!

そしてABO血液型について話を戻せば、この研究に対しても、部分的に調べていたのでは、おそらくいつまで経っても分からないだろうというのを、能見俊賢ともよく話していたことでした。血液学者が血液をどんなに調べても、免疫学者が免疫システムどんなに論じても、遺伝学者がDNAをどんなにいじくりまわしても、何も出てきやしないのです。彼らはいつも、「ABO血液型物質はそんなに重要な働きをしていない」としか言えず、「悪いけど、私たちにはもっとやらなければならない重要な研究がたくさんありますので…」と、鼻で笑って見過ごしてきたのでした。

ところが、こうして全体像が見えてくるようになれば、リプトン博士のように電光に目が覚め、そこに光をあてる学者が出てくる可能性も高くなります。

そしてまた、現在、糖鎖の研究が進み始めていることも、ABO血液型にとっての朗報です。糖鎖研究に関わる研究者たちは、この糖鎖の働きがいかに重要かということを解り始めているのです。おそらく「糖鎖」とインターネットで検索すれば、今はたくさんの情報が出てくると思います。数年前までは、ほとんど情報が無かったし、あってもサプリメント関連で取り上げているような位置づけでしかなかったのです。これについての研究者側の言い分は、細胞にはたんぱく質と糖鎖があるが、糖鎖は次々とその形を変えて複雑なため、観察するのも複製するのも、再現するのも困難だったということです。これもやはり、近年の観測技術の進歩によって次のステップに進めたということなのでしょう。


このようにして、ABO血液型について真に研究できる舞台が、徐々に整いつつあります。

そして、本当の研究が行われたとしたら、今度はその結果をどのように我々が活用するのか、そのことが最も重要なことかもしれません。そのとき訪れるであろう微妙な分岐点を、どうか見誤らないで欲しいと願うばかりです。

リプトン博士の本から話がだいぶそれましたが、リプトン博士の細胞の研究に対する期待もさることながら、私は個人的に…、リプトン博士の物の見方、捉え方に共鳴しています。ですから今後、ABO血液型についても何か示唆を与えてくれるのではないかと期待をふくらませているのです。

実のところ、現在リプトン博士は、研究現場からは退いているようです。おそらく、学会に属していたのでは自分の真の目指すことが出来ないということになったのでしょう。
リプトン博士は、細胞が環境の情報を受け取って独自に"思考している"ということが分かったことで、私たち人間は、その情報の受け取り方次第、その思考の仕方次第で、いかようにもなれる"すごい力"があるということを、生物学者という物理の科学者として理解したのでした。そして人間だけでなく細胞同士がうごめくこの世界は、それが今は目で見えなくても、全てが繋がっている共同体なのだということに焦点をあてるようになります。するとその先へ進むには、もっとスピリチュアル(精神性)な視点を広げなくてはならなくなります。その見方は、いまだに多くの人が避けている道でもありますが、リプトン博士は今、そうしたスピリチュアル的概念に背を向けていた世界に居た一生物学者として、ひと肌脱がなければならぬという思いで啓蒙活動に忙しくしているようです。

私も、ABO血液型遺伝子という物理的な働きにおいては、実証できる(現在の)科学的研究が成されるべきだと考えていますが、実際に私たち人間がこのABO血液型の知識と知恵を活用するためには、スピリチュアル的な概念を理解していかなければならないとも強く思っているのです。

それは私だけが独断でそう思っているのではありません。この研究の創始者、能見正比古も、「愛」をもってしてでなくてはこれを使うべからずと、何度も何度も訴えてきました。しかし能見正比古が、「愛」とか「人間の連帯意識」とか、そういう見えないもの、スピリチュアル的要素を多分に含む観念(能見正比古がスピリチュアルという言葉を意識したかどうかは別として)を土台にして人間を観察していたことを、多くの人は知らなかった(あるいは気に留めなかった)であろうと思います。しかも困ったことに、そっちを強調すると「やっぱりまやかしだ」「トンデモ科学だ」「ただの占い」というふうに、違った方へ矛先が向かってしまうのです。能見正比古は、このどうしようもない思い違いに深く苦悩しながら、著書の最後のほんの隅っこに、その想いを綴っていたのでした。

私自身、そんな迷路のような行ったり来たりのあれこれを、長い間ずっと考えてきたわけですが、これからは、さすがに次のステージに進めるのではないかと希望を持っています。

そのためには、リプトン博士のように、科学とスピリットの橋渡しをするような、あるいは科学と精神性の統合をめざすような、そういう学者がどんどん現れることを楽しみにしているのです。
そして、それぞれの血液型の、その血液型にしかない素晴らしい役割や思考、あるいは隠されたスピリットというのを、人々が理解する日を待ち望んでいます。

2017-09-03

科学が先か?意識の進化が先か?


学生時代、学校の授業にすっかり魅力を感じなくなってしまった私は、居眠りするか、ボンヤリするか、そんなふうに毎日時間を持て余して過ごしていました。
そんな授業中のあるとき、相変わらず上の空の私の頭の中で、止めどもなく思考が巡りはじめ、こんなことを考えていたことがあります。

人類が、もしも違う選択をしていたなら、違う進化を遂げたかもしれないじゃない?
地球の状況は今と全然違う形になっていたかもしれないのよね。
人間の見た目だって、違う感じになってたかもしれないじゃない?
お金というものが無い世界になっていたかもしれないし、電話とかの通信手段だって、全然違う形になっていたかもしれないじゃない。
石油を掘り出すなんてことを、もしも誰も思いつかなかったとしたら?
それとは違うエネルギーを発見したかもしれないのよね。

そうよ。人間が何を選択するかってのは、すごく重要なことなのよ!

数年前、ロボット工学博士と話す機会があり、その博士が私にこんな質問をしました。
「もしもロボットが何でも出来るとしたら、どんなことして欲しいですか?」
「うーん、掃除とか洗濯とか家事全般!」
「それはもちろん出来ますよ。他には?」
「そうですねえ、ああ、私の質問に何でも答えてくれる頭のいいロボットが欲しいですね。それが一番欲しいかな?」
「そんなのは最も簡単ですよ」
「へえ、、じゃあ、出来ないことってないんですか?」
「まあ、無いといってもいいかもしれませんね。もちろん、理論的にはですよ。実現させるにはそれなりの道のりがあります。それから、社会が何を求めるかによって、どの技術に力を向けるかというところで、開発の程度も違ってきますね」
「それは利益になるかとか、そういうことも絡んできますよね」
「まあそういうことですね」

目新しモノ好きな私は、ただただ感心するばかりだったのですが、ここ1、2年で、博士の言っていたことが早くも実現しそうなニュースを次々と聞くようになりました。

それはそれで、好奇心的には楽しみでもあるのですが、一方でふと考えさせられることもあります。
科学は本当にそこまで進化したのだろうか?という疑問です。そして、様々な疑念が沸き起こってきます。

たとえば脳のことは?
AIロボットはつまり、人間の脳に変わるものとして開発しているわけですけど、人間の脳について、人類はどこまで分かったのだろう?
シナプスについてホントに理解したの?
人間の身体についてはどうなの?
遺伝子の何が分かったというの?何十歳も若返る薬を開発しているというのを聞いたけど、それをどう使うつもり?
それより、いったいいつになったら癌の治療法が見つかるの?

たとえばね、宇宙旅行っていうけれど、それは私も行ってみたいですけど、そんなの人類が勝手に決めてもいいのかしら?
だって、行った先に誰か先住の者が住んでいたら許可を得るのが礼儀ですよね?
そもそも、火星に生命が居ないっていっていうのを私は信じていないし。
火星の隅から隅まで確認できたわけじゃないのでしょ?
ねえ、ほんとに大丈夫?

何だか、なにもかもが、ものすごく、アンバランスを感じてしまうのです。
本当の進化とは何だろう?
技術の進化だけではないはず。
心、精神の進化は?
私たち地球人は、いまだに戦争しよう、人殺ししようなんて言ってるのに!?
飢餓で死んでしまう人たちがたくさんいる世界ですよ!?

実は、理論上の量子論やAI技術など、一部の科学を除いて「科学」は頭打ちなのが実態。
一見、進歩したように見えるのは、それを技術で補っているからなのです。
医療も、脳科学も、遺伝子工学も、精密な顕微鏡ができたり、スーパーコンピューターができたりしたことで進んだように見えるだけ。
その中身といったら、戦後あたりから大きな進歩はないのです。
何かが欠けているから進歩できない、理解できないのです。

人間が、本気で人間の真実を理解したいと考えたとき。
心を、本気で進化させたいと考えたとき。
この地球と人々を、本気で幸せにしたいと考えたとき。
私たちがそのように、意識を進化させていくことができたなら
行き詰った「科学」は、飛躍的に進化するはず。

AB型的妄想モードに入った私は、憂いる人類の現状を振り払い、
ひたすら、未来の美しい地球を思い浮かべるのでした。

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写真は映画「美しき緑の星」からお借りしました。
PS:この映画を見て、あなたもぜひ「切断」を!!






2017-07-16

自分の意思を表明しないという日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

Facebookの「いいね!」で分かったことがある


私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。
ずい分と、インターネット通なのかとと思われるかもしれないのですが、きっかけは、単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかというところを問われていたようですが、取り敢えずそれなりに広がりは見せたようです。
いずれにしても、私は、そういうことにはあまり不安はなかったのですけどね。
どの道、ネットを利用する以上そのリスクは覚悟の上のはずだし、実名を明かす事に、何故それほど警戒するのか、私には不思議なくらいのことなのです。
かといって、私にとってこのツールはインドネシアの活動の様子がリアルタイムで見られる、というのが目的なわけだから、それ以上には、まったく使いこなしていなかったわけです。

ただ、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみたのです。
まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう?
などというような事です。

たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがありますし、「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。特に若い人は、、」というような記事もあったと記憶しています。

それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。

まあ、そもそも知り合いの数はごく少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないのですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは…
・キレイな景色の写真を上げた時
・美味しそうな食べ物の写真を上げた時
などです。

また、私の活動を報告するような投稿に対しても、その次ぐらいに多いように思います。
私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。

そして、最も少ないのは
・私が自分の意見を主張した時
・政治や社会情勢に言及したとき
・何らかの、メッセージ性のある呼びかけをしたとき
などです。

そうなんです。面白いことに、私の意見的なものだったり、どこかメッセージ性のある投稿に対しては、まるで、その場から人々がスーッと消えたかのような...もしかしたら、私がその投稿ごと消えたがごとく、周囲からは見えなくなってしまった?のかもしれないのですが、とにかく、ことごとくスルーされてしまうのです。

先ほど、日本人と外国人では”Facebookの使い方が違う”という記事があると書きましたが、そこには、”日本人は自分の意見を発言する投稿が少ない”、というような事が書いてありました。

うーん、たしかにそうよね…こんなにウケが悪いんじゃあ、ね。
と、自分の投稿の分析をしながら、納得せざるをえないのです。

ここで、「そりゃ、単にアンタの投稿内容の質が悪いだけじゃない?」と、自分自身にツッコミを入れたい気も、しなくはないなですが、敢えてそれは無視して、やっぱり考えてしまいます。

何というか、今流の表現で言えば
空気読めよ!的なムードさえ感じてきます。
ここFacebookは、社交場であり、公共の場、なのかもしれません。(そう捉えている人が多そうですが)

まあ、そもそも空気に馴染むのが苦手な私が、これ以上深読みしても、どこまで的を射ているかわからないので、Facebook分析はこのくらいにしようと思うのですが、私は、私の日常でも、あるいは私の仕事を通しても、『日本人の意見を表明しない状況』というのをしばしば感じてきたので、いろいろと、芋づる式に思い出すこともあるのです。

日本人の奥ゆかしさには深い秘密があるのかもしれない!?

ある日私は、長年親しんでいたヨガのグルがインドから訪日するというので、その会場に喜び勇んで行きました。
このグルは、世界中に1億人もの支持者がいて、尊敬されるだけでなく、むしろ人々に”愛されているグル”という感じの方なのですが、日本では初めての講演ということで、関係者らも相当に頑張ったようで、1000人規模の会場を用意していました。
それなりに人も集まっています。
集まった方達は、ヨガに関心がある人と、その家族や知人というところでしょうか。
ヨガもグルも、インドが拠点なので、日本に滞在しているインド人らもたくさんおります。(2割ぐらい?)

そして、グルから平和な世界へ向けた講話があり、話のクライマックスに、会場の皆んなにこう呼びかけたのです。
「平和を愛し実現するという人は、手をあげて下さい!」

私は、即座に元気良く、まるで小学生みたいに「はい!」と思い切り手を挙げたわけですが、何とも白けたことに、私と似たような人は会場の2割ぐらいでしかなく、残りのうちの半分くらいの人が、恐る恐る、「ハ…ィ」と、いかにも遠慮ぶかげに反応していたのでした。
つまり、手を挙げなかった人も、4割くらい居たわけで、その上、元気よく手を上げた人というのは、結局ほとんどが、インド人たちのようでした。

「あれ?そうなの?」
と私が不審に思っていると、つかさずグルも、微笑みながら、穏やかな口調ではありましたが、こういいました。
「ここでは、全員に手を上げて欲しかったんですけど」

そうですよね!?
平和に賛同するかどうかの意思表明だけなんですから。
考え込む余地は無いと思うし、誰に責められることも、責任を問われることもないことなのです。
かといって、日本の人々は平和を望んでいる人が少ないとは、到底思えないのです。

私は、あの時の残念さというか、摩訶不思議さというか、もやもやした気分を今でもよく覚えています。
日本の人たちは、こんな時にも、自分の意思を表明することをためらうのか…。
私の感覚では、グルの講和の意図と、この会場の目的を考えたとき、賛同の意を表明しない方が、よほど空気が読めていない気がするのでした。

私は、『日本人の本当の気持ち』が表明されない、そんな歯がゆい経験を度々重ねながら、いつか、その根幹を追求し、日本人を見つめ直したいという思いが、ずっとありました。
それは日本人を、イタズラに非難したいわけではないのです。
それにここで「日本人」と表現しているのは、個々の人を指しているのではなくて、『日本人の集合意識』に言及しているのだということも言っておきます。

そうして、その『日本人』の不思議な感性を、客観的に眺めてみるわけですが…
冷静に観察すれば、これらは、ある種の調和性というか、協調性の変形とも見えます。
周囲の状況をよく吟味してから一歩を踏み出すという、慎重さの表れのようでもあります。
またある種の、奥ゆかしさとも捉えることが出来ます。
そんなふうに見直していけば、決してネガティブな面だけというわけでもなさそうで、『自分の意思を表明しない状況』には、コインの表と裏のような面がありそうだと思えてくるのです。

まあとにかく、答えがありそうでなさそうな思いで月日を経ながら、ここ数年、いく種類かの本や文献に出逢いました。
それぞれには、日本という国の成り立ちにおいて、非常に重要な事柄が書いてあります。
一冊一冊について説明を加えると、とてつもなく長くなってしまうので内容にまでは触れませんが、いずれも、”日本の隠された部分”というのを垣間見ることができ、ある程度、現在の日本人の集団的性質を説明可能にするものではないかと思います。

この文献らは、いずれもこれまで、表に出ることはありませんでした。
かといって完全に隠されていたわけでもないのですが、意思を持って探さなければ見つからない類のものでした。
  • 竹内文書
  • カタカムナ文献
  • 日月神示
  • オイカイワタチ
私は、これらから、いくばくかの...というと頼りないけれど、自分なりの結論のようなものを出してみました。

私が思うに、どうやら、日本人の奥ゆかしさとか調和性とかは、日本という地に生まれ来る民に与えられた、一種特有の役割のためであったらしい、ということです。

ところが、世界が間違った方向へ進む中で、それは歪められ、捻じ曲がり、その役割を果たす場面は徐々に失われたのです。

それでも尚、その特性だけは永遠と、この地に、あるいは遺伝子に、保存されており、今の歪んだ社会のあらゆる場面においても表出されています。

ところがそれは、いずれ再び、生かされるかもしれないという可能性を秘めている、というものです。

これらの本について知っている方は、もしかしたら、それなりに賛同してくれるかもしれません。
知らない人でも、日本の特有さを一度でも考えたことがある方なら、それほど突飛な結論ではない、と思ってもらえるかもしれません。

そして思うのです。
変化の時を迎えている今、その、本来、日本人ならではの、使い方によっては素晴らしいともいえる特性を、生かす時が来ているのではないでしょうか。

では、こういう日本の集団的特性において、血液型との関係はどうかと考えますと、おそらく、全体的にはそれは関係なく起こっているようです。
人間社会というのは、より大きな集団的特性の方が最優先されるようにデザインされているのかもしれません。
一見すると、そういう奥ゆかしさ的な感じはA型性を想像する人もいるかもしれませんが、安易には語れないところもままあるのです。
集団意識としては、他の血液型も同意し同調しているに違いないからです。
集団的特性に対する血液型ごとの反応の違いというのは、日本人の集団的特性を理解した上で考えなければならないのだと思います。

このブログではそっちの方が肝心なのですが、それについては、別の機会に、別の場所で、書こうと思っています。

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※日本や日本人をテーマに書いた過去の記事


2017-07-09

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part2


数日前に書いた、伊豆山神社のお参りお道中の続き、ということで今日は「Part2」を載せたいと思います。
「続き」といいますのは、伊豆山神社には、もっと奥に”本宮”があるということが分かった次第で、まあ、いずれにしても前回は、あまりにも思いつきで行ったため、下調べもせず、また服装や靴の準備も不十分だったものですから、再挑戦しようと思っていたのです。
資料館の脇に、それらしき道があります。
結構な、道のりのようです。
説明を見る限り、1時間ほどかかります。
「修行のための道であったため、険しい道が続きますのでしっかりした服装で!」というような注意書きも。

大丈夫です!
今日は覚悟して参りましたよ。

トキは、朝の6:40分!
出発します!
わぁ~~
とはいえ、ほんとだわ。

このような感じの山道が、永遠と続くようです。
この時間ですから、人っ子一人おりません。

「あ、忘れた~~」
準備万全といいましたけど…
虫刺され防止スプレーが必要だったみた。
蚊がすごいです。

AB型は、O型に次いで蚊にさされやすいらしいのです。
私も本当に、蚊に好かれます。

フーッ
登って、登って…登って…
20分くらい歩いたのかナ…

小さな神社を祭ってあります。
すこ~し
休憩させてもらいました…

…が、長く留まっていると蚊にさされます。
とにかく、まだまだ、
どこまでも、登り続けるようです。

もしかして、半分くらいは来たのかしら?
という当たりに、石が
←こんな風に積みあがっていました。

みんなやっぱり、この辺りで
あーあー、まだなのかしら~
という感じで、一息つくのかな?

何も無い山道で、こうして、人が歩いた形跡を見つけると、ほっと、安心します。(アリガトウ)
それより私は
自分でも自信を持って方向音痴なので
(…というか、とにかくなぜか、人と違った方に進みたがる行動傾向にあるのです。←これは、AB型のせいではないんだと思うのだけど。)

ああーー、でも良かった。
こういう道しるべに出会ったということは
一応、行くべき道へ進んでいるということですよね。
もう少しなのかなあ…
でも、頭は空っぽだし、息は絶え絶えだし、携帯を取り出して、時間を見る気もしないし、もちろん写真を撮る気になんかに、ならない。
立ち止まると、蚊が集まってくるし、、、無心で歩き続けました。

ああ、もしかして
着いたのかもしれない?
「ここからは聖域です」
という小さな看板が…

そして向こうには入口らしき鳥居も見えます!!
わーぃ

心なし、足どりが早くなるワタシ



しかし、やはり喜びすぎるのは、誤りでした。
あー、ホントに、ワタシという人は、いかんせん、早とちり早飲み込みが多い!
いくつになっても改善されない悪癖~
どうやら、ここから、更に上に登るような雰囲気です。
留目の、最後の道のりか!
ようやく、今度こそ到着です!!
無事に、本宮に、たどり着くことができた。

伊豆山神社本宮は、静かに、ひっそりと佇んでおりました。


トキは、朝の8:00頃

太陽も高く顔を見せてくれました!

1時間も山道をハイキングしたのは…
もしかすると、中学生の時、以来かもしれません。

近くに富士山を頂く伊豆の山々は、何か、神聖な空気が漂っています。
今日は満月。
何もかもが満たされています。感謝ー

2017-07-03

何ともAB型的なおっちょこちょいぶりを発揮しながらお参りに行きました!Part1




梅雨の晴れ間
伊豆山神社にお参りに行ってきました。

熱海に移り住んでおよそ1年。
散歩コースの途中にある来宮神社ぐらいしか行ったことがなかったのですが
熱海の人から「伊豆山神社という由緒ある神社があるよ」と聞いていたので
一度行ってみたかったのです。
そのオジサン曰く「すご~~い長い階段の参道だよ、大変だよ、バスで近くまで行った方がいいな」
私曰く「その参道を登るからイイんじゃないの?」

そんな会話が交わされてから、半年も経ってしまいました。

その日の早朝、「よし!バイクで行くぞ~」と思い立ち
私の相棒、原付バイクでGo!

ナビで場所を確認すると所要時間は10分くらい。
すぐじゃん!
方向音痴だけど着けたゾ(途中道を一本間違えて戻ったけど…)

ここだわ!
ああ、確かに、由緒ありそうな雰囲気。

階段は170段と書いてありました。

「な~んだ、そんなに長くないじゃない」
オジサンの話を思い出した私は、安易にそう思いました。

*本殿前です。
写真を撮りたかったのですが、赤ちゃんを抱いたご夫婦が楽しそうに撮影されていたので遠慮しました。
私は近くですからいつでも来れます。

*茅の輪くぐり
くぐり方⇒こちらで参照
八の字に「左に回り→右に回り→左に回り」とくぐります。
心身を清めるのだそうです。
この八(8)(∞)の字まわりというのは
本当に意味があるんですよ。
円を描くことで時空のエネルギーに乗れるのです。

*光る石!
座ってなでなでしてみました。


*この高さから見える景色です。
気持ちがい~い

少しのんびり楽しみたいところですが、仕事もあるし(オンライサロンの準備をしなくちゃ!)、本日は帰ろうっと!

ということで、170段の階段をおります。

おーし、帰るぞ!
と駐車場に停めた私の相棒に声をかけ
エンジンをかけます。

……ぶ~~----ん...
……ぶ~~----ん...あれ?
……ぶ~~----ん...か、かからない!?
あららら。

まあ、実は初めてのことではありません。
相棒は、そろそろお年も召してきまして、ときどきそういうことがあるのです。
久しぶりの登り坂全開エンジンだったので、疲れちゃったんですね。
う~ん…と、下り坂を、エンジンなしで自転車のように転がす…という方法もある!
が…、あーだめ、だめ!
この場所でそれを試すのは、さすがにリスキーよ。
道はどっちを見ても狭く険しそうな上り下りが入り乱れており
万一かからなかった場合…どうすんの?

仕方ないので、1時間ほど時間をつぶして待ってみることに。
で、飲み物でも買おうかと、鳥居の向こう側を見渡すと…
あれ?
この、下に長く降りている階段は、何だ?

よく確かめると、この階段も参道らしい?

私は「そっか!」
と、オジサンとの会話を再度思い出しました。
大変って、、、この階段のことを言ってたんだ。
ははは…

じゃ、私はあれですね
オジサンお勧めの、ショートカットをしたってわけですねwww(ナビはいろんな意味で、エライね~)
←ほれ、ちゃんと書いてあるじゃないサ

OK~
どのみち相棒を休ませる時間が必要なんだ。
よしゃ、降りて、そして登ってこようじゃないのさ!

参道を登る覚悟で、その為に、せった履いてきたんだから!(?)
それに、あのオジサンに万一会ったら
「行きましたよ!もちろん長い参道を登りましたよ!」
と言ってやらねばなりません。


そういうことで
降りて↓登る↑覚悟で階段を見下ろしますと…

う…
ぜんぜん先が見えない…
(先が見えない、っていうのは、AB型的には、とても辛いんです)


あれ~まだ?終わりが見えないじゃん!


どこまで続くのか…。



お、もしかして、このアングルが最後?
あの先に見えるのは道路?

そしてその先に海が~

見えた~
先が~

終わりの「先」が見えたら、急に元気になりました。(AB型だよ、あまりにも)

この後、この長~い階段を、登るんですけどねえ。
でも、先の見えない階段を下り続けるより
ぜーんぜん、苦にならないわけですよ...
(わぁ~~アタシったら、AB型全開じゃん!)

で、登り↑↑↑↑ましたよ。
途中息切れして、2度ほど立ち止まりましたけど。
下から、ひとり、おじさんが、スタスタ登ってきていました。
(元気いっぱいに…;)追い抜かれる勢いです。

猫ちゃんも一緒に登ってきたみたい…
あんた、涼しそうな顔してさ、息切れしてないの?
…猫が息切れしてるのはあんまり見たことない。

…しないの?


フ~~~~
登ったーーー



1時間ぐらいは経ったかなあ…

私は、相棒のエンジンをかけてみました!
…プス ……プス …
あーーあ、まだ、だめじゃん!!
どうするかなあ…

と考えあぐねているところ
後ろから女性が驚く声が…
「あらあら~大丈夫!!?」

振り返ると、男の人が倒れている?
老年の女性が慌てて駆け寄っています。
私も行ってみました。

あら?もしかして
さっき、私を追い越す勢いで、あの長ーーい参道の階段を登っていたおじさん?

どうやら立ちくらんで、倒れて、頭を打ったみたい…
「大丈夫、いや大丈夫!」とおじさん。
私とおばあちゃんで、「あ、あ、すぐに起き上がったらだめよぅ、、、」
騒ぎに気付いた近所の女性らもやってきて…
でも、救急車、、、までは要らないみたいな様子。
駅で友人たちと待ち合わせているので連れもいらっしゃるみたい。
その女性らが、親切に、ドライアイスを持ってきてくれて、念のためと近くの大きな病院の電話番号も渡してくれました。

おじさん曰く「いやあね、昨日のみ過ぎちゃってさ、この参道一気に登ってさ、アルコール飛ばそうと思ってさ」
私曰く「飛ばないでしょーーよ」

「ははは、アルコールじゃなくてさ、頭が飛んじゃったよ」

でしょうよ。

で、おじさんはタクシーに乗り
私もとりあえず相棒を置き去りにして、一旦バスで我が家に戻ることにしました。

その後、ひとりぼっちにしたら可愛そうなので、夕方相棒を迎えに、もう一度行きました。(バスで!!)
10時間も休ませてあげたんだからね~
絶対…とは言い切れませんが、私は相棒を信じています!

ハ~イ!
エンジンOK!
ようやく無事に一緒に戻ることが出来ました!

フ~~ッ
なんだか、変なリズムになっちゃた時のAB型に、ありそでなさそな、チグハグな一日でした。(うまく説明できませんが)

でも、相棒も、あの急坂を、頑張ってくれたのです。
おじさんの、ヘンテコなジョークも聞けましたし、たぶん、、頭の方も大丈夫でしょう。

そして、ココ、ご縁の神様に、「オンラインサロンで出会うだろう方たちに、一緒に光を送って下さい」と、お願いもできました。

まあ、ヨシ、としようか、ね。

(by Ichikawa)

2016-08-23

チャップリン「史上最高のスピーチ」A message to the humanity

リオ五輪を終えて

閉会式は始終、歌と踊りで埋め尽くされ、ブラジルらしく終わりました。
今回のテーマは「多様性を認め合い世界を一つに!」

今世界では、物騒な出来事も多発しています。
それを理由に軍備を強化しようなどというどこぞの動きもありますが
人々の心は今、世界平和へ一直線に進んでいるのです。
私たち人類が存続する道は、もう他にないのだから。

第二次世界大戦最中に上映されたチャールズ・チャップリンの映画「独裁者」。
最後のスピーチが数年前からYutubeでよく見かけるようになりました。
世界中が、こんなに平和や愛を求めている時代は、これまで無かったように思います。
今、世界がひとつになろうと、懸命になっている。

チャップリンの血液型はO型だと判明しています。
チャップリンがたまたま不名誉な裁判を強いられ、親子鑑定を行った経緯があったので
広く知られることになったようです。
(もちろん、当時の技術で正しい検査が行われていればの話ではありますが。後で再検査をして間違いだったという例もたまにあります。)

ここではただただ、このスピーチの素晴らしさを記憶にとどめておきたいのでチャップリンを紹介したのですが、O型が真の愛を追求するなら、だれよりも温かい"愛の人"であることもまた、間違いのないことなのです。

日本語訳がされている動画はこちら。
素晴らしい翻訳をして下さった翻訳者の方にお礼を言います。




英語では"A message to the humanity"というタイトルで、いくつかのバージョンで動画がUPされています。

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