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2017-05-22

血液型にまつわる海外事情

血液型に興味シンシンなのは日本人だけじゃないのです。


巷では、血液型について関心を持つのは日本だけだという噂がときどき流れるので、その辺について記載しておこうと思います。
それ以前に、日本人が海外の反応を気にし過ぎるきらいがあるということも、理解しておいた方がいいかもしれません。それについては、以前のページで触れています。

「血液型人間学」を能見正比古が、日本の人々に伝え始めたのは1971年ですが、その活動から10年ほど経った頃、他国からも取材や問い合わせがあるようになりました。
どんな国からどんな取材があったか、詳細を記載するのは少々難なので、とりあえず記憶にある限りをリストアップしてみます。(年代や順序は無関係)
(各国メディアの取材)
・ドイツ~科学ニュース関連の雑誌など(数回)
・フランス~雑誌とテレビ(数回)
・米国~雑誌とテレビ(数回)
・ロシア~テレビ(数回)
・台湾~雑誌関係(日本発行女性誌の台湾版があるので多数)
・ブラジル~テレビ
・英国~雑誌
・韓国~さまざまなメディア(活発な活動を行ったため多数)

欧米諸国の記事においては今のところ”日本の文化”として取り上げられることがほとんどですが、中で印象に残っているのは、ドイツの取材スタッフたちは個人的な強い関心を持つ人が多かったということです。フランスでは、古くから研究しているグループもあるようです。それらについては下の方で補足しますが、次に、能見親子の本が翻訳されている国を紹介します。
・韓国(多数)
・米国(You are Your Blood Type)※能見の本を元にライターが新たに執筆。
・インドネシア
・台湾
・タイ
・中国

また、ネット普及のおかげで、さまざまな国の個人的な問い合わせがあります。どんな国から問合せがあったのか、記憶にある国を紹介します。
米国/フィンランド/オーストラリア/フランス/ブラジル/ルーマニア/メキシコ/韓国/中国/フィリピン/インドネシア/その他

ということで、こうしてあげたリストを眺めただけでも、他の国の人々が決して関心を持たない、というわけではないことが、何となく分かるかと思います。
私が問合せや海外からの訪問者、あるいは啓蒙している中で感じてきたところでは、欧米諸国ではドイツ人やフランス人の関心が特に高いように思いました。
北欧フィンランドの友人に聞いたのですが、ヨーロッパ諸国の中でよく言われていることがあるそうで
・ドイツ人は好奇心が旺盛で何でも飛びつく
・フランス人はどんなことでも独自(フランス流)のものに作り変える
のだそうです。

確かに、血液型に対してもそういう反応だと感じます。
海外で、真っ先に我々にコンタクトをしてきたのは、ドイツでした。
フランスではフランスならではの解釈があるようです。(こちらは4タイプをギリシャ神話に登場する神々?になぞらえているようです。その辺は日本人には馴染みがないのでピンと来ないかもしれませんが、ギリシャ神話に詳しい人ならナルホドと思えるところがあるようです。)
また、米国版「You are Your Blood Type」を出版したとき、興味深いエピソードがありました。
米国では州ごとに売れ行きを見ながら販売戦略を立てていくことが多いのですが、この本はなぜかユタ州においてベストセラーになりました。ユタ州といえば、モルモン教というのが思い浮かび、けっこう戒律が厳しいとも聞いたことがあります。そういう宗教の盛んな州で、この新研究の本がベストセラーって、どいうことなのでしょう?
真相は分かりませんが、”血統”に関しての興味が強いのかも…とも思いました。
しかしこの米国版の本は、編集担当者が突然辞めたことで、この本も一緒に頓挫してしまったという残念な経緯があります。
著者のベッシャー氏は独自に調査も行っており、面白い事実も書かれている本なのにとても残念です。

海外で私が行ってきた、あるいは継続中の啓蒙活動についてはホームページやこのブログでも紹介していますが、現在もっとも活発なのはインドネシアです。
インドネシアはB型が日本よりずっと多いですが、4タイプの血液型もそれなりに揃っていているので調査も啓蒙も行いやすいのです。
また、お隣の韓国においては、15年前に活発な進展があったことで、すっかり浸透しているといって良いでしょう。韓国では独自の研究者が表れたり、血液型の人気サイトがあったりなど、韓国なりの進展をしているようです。

欧米諸国からの個人的な問い合わせは、とても熱心な方が多いです。新鮮なこともあってなのか、非常に感銘を受けるようなのです。ところが、自国では血液型の情報があまりに少ないため、残念でならないと皆さん嘆いていらっしゃいます。

このように、血液型に興味を持つのは、実は日本人だけではないのです。血液型は人類共通の遺伝子なのだから、国が違ってもその素材的な性質は同じですし、それは当たり前といえば当たり前のことなのですが。
しかし、古川氏や能見親子が、開拓者精神で頑張ったこともあり、日本で深まり、広がりました。この事実は、とても貴重なことだと思っています。
今後、この「血液型人間学」が、日本から世界中に広がる可能性は充分あるのです。

それにしても、私がいろいろな国の人たちと交流してきた中でつくづく実感するのは、血液型を理解して外国の人々と関わると、とても楽しいということです。
楽しいというより、楽(ラク)だと言った方がいいかもしれません。
「ああやっぱり、○○人はね」とか、「国が違うからね」「宗教が違うからね」とか…、もちろん、それは環境の違いとしては、あるにはあるのですけれど、血液型を理解していると、不思議とそういう違いなんて、どうでもよくなるのです。
それよりも、「あら、A型らしいこと言うわね~」とか、「そうか、B型だったのね」とか、血液型の特徴を見出す方がずっと楽しいし、何よりも優しい気持ちで接することが出来るのです。相手と接するのに、なぜか肩の力を抜いていられるようになるのです。
皆さんにも、ぜひこの感じを味わって欲しいのにな…。

そういえば、書き忘れましたが、能見正比古の一番弟子は、米国からやってきていたアンディというAB型の男性でした。
そうしてみると、「血液型に興味を持つのは日本人だけなのか?」というテーマに対する今のところの結論は
「血液型には、どの国でもどの人種でも興味を持つ人はいるのだけれど、広がるだけの環境と研究土壌が最初に整ったのが日本だったので、日本で盛り上がった」
ということではないでしょうか。

2017-05-15

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”



近頃、日本人について、つくづく考えています。その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえといえばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを感じざるを得ない、と思うことが、しばしばあるのです。だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれませんね。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもプンプンするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、わたしもそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろんわたしは、心の中では思っています。「…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいな」と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。


『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

わたしもそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同時に、重度の記憶喪失現象に陥っているのかもしれない、とも思い始めました。

そういえば、かつては”黄金の国ジパング”と呼ばれたこともあり、”神の国”と呼ばれたこともあったわけです。もちろん、できるなら今でもそう呼びたいところですが、今の我々日本人が、とうにそういう意識は薄れ、そんな呼び方をしてよろしいものかという、懸念というか、後ろめたささえあるものだから、「かつて」と言わざるを得ません。

その上、今となっては、なぜに何をもってして、”黄金の国”だったのか、”神の国”だったのか、言い伝えの根拠はまちまちで、断言するほどの勢いも無いわけです。だからと言って今更、黒船が…、敗戦が…、教育が…と、いろいろ理由を挙げたとしても、誰かのせいにするのはいかがなものか、とも思います。結局は、我々日本人自身が、どんな経緯にも責任をもたねばならないのです。

それで行き着くところ思うのは、とにかく日本人は、重度の「記憶喪失」現象を起こしていることを、認めることが先決のような気がするのです。日本人が重度の「記憶喪失」現象に陥っていると、半ば確信を持ったのは、とあるデータを閲覧したときです。それは「社会実情データ図録」というサイトで、本川裕さんという方が日本や世界のさまざまな統計データを収録、分析してくれているものです。ここで目にとまったのは「神の存在、死後の世界を信じるか?」というものです。

さて、日本人はどうかというと、神の存在も、死後の世界も、「信じる」という回答が少ないとあります。そしてもうひとつ、日本人の特徴は、「わからない」と回答する率が非常に多いという事です。この、「わからない」「どちらともいえない」という回答の多さは、日本人特有の傾向なのだそうで、それは他の設問においても、常に多いらしいのです。

本川氏は、この日本人の曖昧さを、『和』や『中庸』の精神だろうと分析しており、わたしもそれには納得するのですが、別の側面から見ると、正直なところホントに「わからない」のではないかとも感じているのです。それはまさに、「記憶喪失」者の回答そのものでもあるからです。

そう言っておきながら、記憶喪失者に会ったことは無いので、自分がもしそうなったらと想像するだけですが、記憶が封印された箇所について訊かれても、そうであるような無いような…というように、モヤモヤと曖昧で「わからない(=覚えていない)」と回答するしかなのではないかと…、そう考えたからです。

それでその、モヤモヤした中で、「黄金の国?」「神の国?」と、(?)マークを付けながらも、薄っすらではあっても、あながち単なるホラではないかも?という思いが、日本人の心の奥底に漂っているのかもしれない、という気もしているのです。これに関連して「神、宗教心」について本川氏がコラムを別途掲載しています。「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」

本川氏の解説を参考にしながらざっくり考えると、日本人は、「宗教的な心は大切だけれど、現存の教義は今ひとつ不確かで、信心するに至らない」ということなのかもしれません。少し言い換えると、日本人は、信心するべき”何か”、があるような気はしているのだけれど、今のところそれが何かはよく分からない、と考えているのだという感じでしょうか。まあだから、何度も言うのはしつこいですが、重度の「記憶喪失」現象に陥っているからではないかと。

ここまで書いてきて、血液型の話から、ずいぶん遠のいた感があるかもしれないですが、実はこの、日本人の曖昧さ加減(=記憶喪失現象)が、「血液型人間学」への扱われ方にも、たいへんよく似た状況を起こしてきたのです。

血液型と人間性には、”何か”、ただならぬ関係があるような気もするけれど、それが何なのか、明確に証明するお墨付きも無いし、今のところ曖昧にしておくのが無難、というような感じです。

記憶喪失”現象”という言い方をしているのは、内容によっては、実際に記憶を喪失していることもあると思うのですが、白黒つけようもなく分からないので記憶喪失のフリをしている、という意味合いも含んでいます。

そして血液型人間学に関して言えば、最初に研究した古川竹二さんまで遡ればおよそ100年ですが、能見正比古が事実現象を公開し、一般の人々に知られるようになって46年。これだけ人々に広まっていながら、およそ半世紀もの間、この曖昧さに対してとことん追求しようとする向きは一向に訪れず、宙ぶらりんのまま今に至っているのです。

それに、先代の能見俊賢にしても、わたしにしても、こうした日本人的性質にむやみに抵抗しないよう、ゆるやかに進めてきた、というところもあります。タラレバ話をするなら、B型の能見正比古がもっと長く生きていたなら、私(AB)や能見俊賢(A)のように”ゆるやかに”とはならなかったかもしれません。そもそも研究した張本人でありますし、あのB型的な勢いで邁進し続けたなら、今とは状況が変わっていたのかもしれません。

とはいえ、”時のカミ”がいるのだとしたら、タラレバを言うのは無意味なことで、それは起こるべきときに起こるのですから、全ては流れのまま進んできた、ということなのでしょう。

話は日本人が記憶を喪失した「神」に戻ります。ここ数年、スピリチュアルなことに若い人たちが強い関心を示すようになっているようです。私の住処の近くに在る有名な神社など、休日ともなれば中高年者と同じくらい若いカップルたちも多くて、正月並みの行列になるほどの賑わいぶりなのです。だからといって、そういう人々が信心深く、神がかっている、という風にはもちろん見えなくて、誰もが、お祭りに来ているようなはしゃぎようと気楽さなのです。

まあ、深読みするなら、こうした流行は、それがたとえ無意識であっても、もしかしたら、失った記憶を思い出そうとする、日本人の集合意識から発生している現象なのかもしれません。とにかく、こうして日本人のことを考え始めるときりがないし、とどのつまり何が言いたいのか、分からなくなってしまうことが多いのです。

さてこの、およそ意味不明な文章を締めくくるのに、10年前なら、「いつか、真実が分かる日がくるのでしょうか?」とでも書いたかもしれません。ところが今は、これまでとちょっと違う気がしています。真実が分かる日が、何やら刻々と、近づいている気配もしているからです。

「神の存在」について、あるいは「血液型人間学」についても、ある日、真実が分かる(思い出す)その時がやってきたら、日本人総記憶喪失現象からやっと抜け出せる、ということになるのでしょうか。




2016-11-11

血液型に対する人々の反応

ABO血液型についての日本の皆さんの反応の仕方には、いくつかのパターンがあるようです。
①「やっぱり血液型って関係あるよね」と、素直に面白がってくれる人々。
②「関係あるのかもしれないけど、血液型で決めつけられるのは嫌なんだよね」という人々。
③「迷信でしょ。科学的に証明されていないでしょ」という、科学信仰の強い人々。
④そもそもそういう事に興味が無い人々。

おそらく、①と②で7割を占めるのだと思われます。
そして②の人々が案外多いのかもしれないな、と、最近感じています。
それは分かるけど、あんまり気にしたくないんだよね、という雰囲気でしょうか。

たとえば、血液型の特徴を少し話すと、「あぁ、やっぱりそうなんでしょう」と言って、そこにはどこか、ちょっとした閉塞感が伴う雰囲気を感じます。

血液型は変えられない

と考えるので、どこか自分のオリジリティーや可能性を狭められたような気になるのでしょうね。

しかし、そうではないのだと理解して欲しいのです。
確かに血液型は特異な状況がなければ変わりません。(臓器移植など)
しかし、血液型の遺伝子というのはあくまでも素材的な要素でしかないのです。それをどのように使いこなすかはあなた次第なのです。
私たちはよく料理にたとえて説明しますが、同じ材料でもいろんな料理ができるように、あるいは、同じ料理を作っても美味しくなったり不味くなったりするように。
貴方がどのように自分を料理にするかでさまざまな個性が出来上がるのです。
美味しい料理にしたければ、素材の性質をよく知っていた方がいいに決まっています。

そして更には、素材の事を知り尽くすことで、全く新しい料理を作れることさえあります。
日本京都のお寺に伝わる精進料理などは、野菜素材だけで肉の食感やボリュームたっぷりの見事な食膳を創り出しますね。

私たちの思考や行動、個性も、工夫次第で素材の性質を超えた能力を発揮することが可能なのです。
また、そうした無限の可能性に対応出来るだけの柔軟さが、それぞれの血液型遺伝子には備わっています。

いえこれは、血液型だけのことを言っているのではありません。
私たち人間は現在のところ、30〜40%ほどしか持てる能力を使っていないと言われています。
残りは全て、今後の進化の可能性なのです。
私たち人類は、今現在も進化の過程にある事を忘れないで欲しいのです。

昔、地球は平らだと信じられていたことはご存知でしょう。
当時、地球が平らだと信じていても生きていくのには困らなかっただろうと思います。
現に今も、地球が丸いことを意識する必要性はあまり無いと言ってもいいのですから。
でも、丸いという事実が判ったことで、私たちの科学技術や意識は進化しました。
知らないより知っていた方が、やっぱり良かったと思うのです。

血液型もおなじです。
血液型を知らなくても生きていくには困りません。
けれど知らないより知っている方が、ずっといいのだということなのです。

そして、進化を考える上で更に大事なことがあります。
私たちの世代で獲得したことは、次の世代にも受け継がれるということです。
私たちひとりひとりが、自分の能力を磨くことで、その性質は次世代に受け継がれていくのです。
そして、ひとりひとりが人類全体の進化に貢献する事になります。

現代人の私たち人間は、自分が死んだら全て終わり。自分が居たって居なくたって、何も変わりもしないと、非常に自分を無力で取るに足らない存在だと信じています。
しかし、それは違います。
私たちは、ものすごくパワフルな存在であり、ひとりひとりが、無くてはならない重要な役割を持ってこの地球に生まれてきているのです。

自分を大切にして下さい。
自分を知るために、人間を理解するために、血液型の知識をぜひ、役立ててください。