少年Aと呼ばれた人

それは、1997年に起こった。
酒鬼薔薇聖斗と名乗る14歳の少年がおこした「神戸連続児童殺傷事件」である。

2004年、彼は医療少年院を退院した。
今また、話題になったのは、彼が手記「絶歌」を出版したからである。
“元少年A”というHPには、自分のプロフィールを載せている。
血液型は『A型』とあった。

私は、最初に言っておくと、彼のA型性や犯罪性について書こうとしているわけではない。

犯罪は、どの血液型も犯す!

その犯罪性を分析すれば、いろいろ言えるだろうが、たとえば心理学者が「○○症候群」などと分析するように、血液型で云々をいう事はいくらでもできるが、私はそんな事はしたくない。
でも私が、あえて書いておこうと思ったのは、ツールは何であれ、“人間を見つめる者”として、思う事があるからである。

本を出版したことに対して、世間の目は批判的だ。
遺族の方々の思いを考えれば、それはそうだろう。
そしてそんなムードが世の中に漂うとき、もう誰も、少年A氏を少しでも弁護するようなことは口にしなくなる。

少年Aは殺人者
今も更生していない非人間
遺族が気の毒

もはや情報の焦点は、そこにしかあてられない。
そこにはもう、議論をする余地は残されなくなる。
本当に、それでいいのだろうか?
この事件をきっかけに、私たちがもっと考えることは、他にないのだろうか?

私も、あの時の衝撃は記憶に残っている。
犯罪の少ない、平和な社会だと思い込んでいたこの日本で、現実に起こったことだとは思えなかった。
なぜ、それは起こったのだろう?
親の育て方のせい?
果たして、それだけなのだろうか?

多くの人(私を含めた一部かもしれないが)が、そういう疑問を持ちながら、しかし、その記憶は時間とともに遠ざかっていった。
「なぜ?」への解答は得られないままであった。

実際、この出版不況の中で、本は売れいている。
この事件について、少年Aという人について、知りたいと思う人々が、それだけ居るということだ。
出版に至った経緯も分からないし、本もまだ読んではいないが
私は世間の声に反して、勇気ある刊行だったと思う。

少年A氏はこの本のタイトルで、自身を透明人間のように比喩しているのかもしれないが
私は違った意味で、それがどんなに残酷なことでも、透明であるべきだと思っている。
つまり、事実を“明らかにする”必要があるのだ。
それは、少年A氏を擁護するのでも、もてはやすのでもない。

なぜ人は、本当のことを隠したがるのだろう?
なぜ親は、子供に本当のことを教えないのだろう?
なぜ政治家は、国民に本当のことを伝えないのだろう?

もしかしたら、100年前は、それでも良かったのかもしれない。
「良かった」といっても、社会にとって「都合が良かった」程度の“良かった”だとは思うが。
しかし、今は、違うのだ。
私たちは、本当のことが知りたいのだ、いや、知らなければならないのだ。

大事なことはすべて秘密にし、それは人権の問題であったり、ある種の思いやりだったのかもしれない。
しかし、覆い隠したこと、秘密にしたことが、あまりに多くなりすぎて
今の私たちはまるで、お化け屋敷に住んでいるような状態だ。
うす暗くて、周りには何があるかよく見えず、いつも不安と怖れを感じて生きている。
少年少女の犯罪の多くは、こうした不透明さからくるものだという気がする。

少年A氏は、自分自身のことを理解しようとし、よくよく見つめようとしている。
それは確かだと、一連の、彼の発言や犯行を眺めていて、私は思う。
彼は、自分の「存在のありか」を確かめたいのだ。
それは、「魂」の叫び、ではないかと、私には思える。

単なる「自己顕示欲の異常なまでの強さ」として、彼の異常性だとして、片づけていいのだろうか。
もちろん、多くの人にとってはそれの方がいいだろう。
社会の問題、まして自分の問題として取り扱うには、あまりに重過ぎるのだから。

私は、だけど思うのだ。
日々、さまざまな事件がおきている。
さまざまな出来事がおこっている。
その情報を私たちは、ネットやテレビを通して共有している。
しかしだ、その情報じたいが、不透明なままであったり、歪められているとしたら、まったく意味がない。
それくらいなら、無い方がマシである。

人類のこの、科学や技術の進歩の意味は、暗闇に明かりを灯すものであるはずだ。
我々人類の、「知りたい」「理解したい」という熱意が、ここまで科学技術を進歩させたに相違ない。
世界中の人々と、瞬時に情報を共有できるという、情報通信の革命は
全てのことを明らかにするためであり、人々がそれを望んだから生まれた。

もうこれからは、何もかも、透明にするしかないのだ。
そしてやっと、本当の話ができる。
何がステキなことで、何が要らないことなのか。
私たちが何処へいきたいのか、何を選択するべきか、やっと本当に、話し合えるのではないだろうか。